それで十分だ
光が、広がっていた。
壁の術式が全面に展開している。青白い線が一斉に動き出して——でも静かだった。派手な音もなく、衝撃もなく。ただ、ゆっくりと動き始めている。
(……本当に動いてる)
スキルが震えていた。領地全体の感触が来ていた。東の水路も、西の集落も、北の丘の上から見下ろす感触も——全部が同時に届いている。
遺跡の外まで広がっていく感触があった。地下から地上へ向かっていく。
「……終わった、ということですか」
俺は聞いた。
「終わったわけではない」
声が答えた。
「何が始まるんですか」
「設計者が意図したことが、始まる。魔素の安定だ。七百年間、土地が吸い続けた分の還流が——完全に整う」
(七百年分、か)
「……どれくらいかかりますか」
「しばらく時間がいる。だが方向は変わらない」
「分かりました」
(まあ、時間の問題なら待てる)
壁の光が、少しずつ落ち着いてきた。術式の線が動くのを止め始めていた。
何かが収まっていく感触だった。止まるわけではない。ただ——役目を果たした後の、静かな停止だった。
「汝に伝えることがある」
声が、また言った。
「……はい」
「七百年間、この区画はここにあった。待つために作られた」
「……そうですね」
「来るべき者が来た。この区画の役目は終わる」
(……終わる)
「終わる、というのは」
「この空間が閉じる。次に扉を開けようとする者がいても、扉はもう応じない」
(……それはそれで困るか。いや、困らないか)
「分かりました」
「汝の父もここへ来ようとした者を知っていた」
俺は少し止まった。
「父が、ですか」
「百三十年前の訪問者を知る者が、密命を伝えた。汝の父はその最後の継承者だった」
(……百三十年前)
(途中で引き返した、あの人か)
「父は——来なかったんですか」
「来た。しかし扉の前で戻った。答えを持っていたが——入ることを選ばなかった」
俺は少し考えた。
(……なんで入らなかったんだ)
「……なぜ戻ったか、分かりますか」
「問いの場所まで来た。しかし「まだ自分の番ではない」と言い、去った」
(まだ自分の番ではない、か)
「……まだ、ということは」
「次の世代に渡すことを選んだ」
(親父……)
壁の光が、さらに落ち着いていた。さっきまで全面を走っていた線が、今は薄くなっている。
スキルを通じて来ていた領地全体の感触は、まだ続いていた。でも少し、穏やかになっていた。
「汝が答えた。七百年間で初めてだ」
「……まあ、正直に言っただけですが」
「正直であることが、条件だった」
(……設計者、なかなか良いことを言う)
「一つ聞いていいですか」
「聞け」
「百三十年前の人——なんで答えが整合しなかったって言ったのに、途中で引き返したんですか。答えは合っていたんじゃないですか」
「整合していた。しかし前の訪問者は「自分が入ることで何かが変わることへの迷い」を持っていた。それは答えではなく、迷いだった」
(……親父が迷いを持っていた)
(それで戻った、ということか)
「俺は迷いがなかったんですか」
「汝は「面倒くさい問題を片付けに来た」と言った。迷いではなく、方針だ」
(……確かに)
(面倒だから最短で片付けようとしていただけで、迷ってはいなかった)
「……なるほど」
「この区画は閉じる。汝の役目はここで終わりだ」
「分かりました。ありがとうございます」
「汝の父——よい者を残した」
(……そう言うのか)
俺は返事をしようとしたが、何も思いつかなかった。
壁の光が、さらに薄くなっていた。
術式の線が一本ずつ消えていくような——そういう感触だった。急いでいない。ただ、静かに終わっていく。
(……長い間、ここにいたんだな)
「——汝、戻れ」
最後にそれだけ言った。
声は、消えた。
(……終わった)
光がほとんどなくなっていた。壁の術式が——消えていた。さっきまで青白い線が無数に走っていた壁が、今は普通の石壁に見えた。
灯りを持ち上げた。石だった。遺跡の他の場所と同じ石だった。
スキルを向けた。
何も来なかった。「待っている」感触も、「押す感触」も。ただの石壁だった。
(……本当に終わった)
俺は振り返った。
後ろに扉がある。
扉に近づいた。スキルを向けると——光が小さく揺れた。俺を認識している感触があった。扉の向こうで、誰かがいる感触も、かすかに来た。
壁の縫い目が、音もなく広がった。
「——ライルさん!」
マリスだった。
扉が開いた瞬間に俺を見て、目を大きくして、それから表情を整えた。
背後にガレットがいた。ドランク王がいた。その後ろにイルデ先生がいた。
「……終わりました」
「終わったんですか!!」
マリスが言った。
「はい。システムが動いて——停止しました」
「停止?」
「役目を終えた停止です。壊れたわけじゃない」
(……たぶん)
「……どれくらいの時間が経ちましたか」
「一時間と少しです。」
マリスが答えた。
「そうですか」
「ライルさん、怪我はありませんか」
「ないです」
「壁の光が広がったのが見えていました。外からでは何が起きているか分からなくて」
「……すみませんでした」
「いえ。でも大丈夫だったなら、それでいいです」
マリスが息を吐いた。
俺は通路に出た。全員の顔が見えた。
「ライル」
ドランク王が一歩前に出た。
「……終わったか」
「終わりました」
「どんな感じだった」
「……あっさりしてました」
「あっさり?」
「はい。ものすごくあっさり終わりました」
ドランク王がしばらく俺を見た。それから笑った。声に出さない笑い方だった。
「……そうか」
「はい」
「それで、領地への影響は」
「スキルで今感知しています。全域で魔素の還流が続いています。「方向が完全に整う」と言っていました」
「誰が」
「……声が」
「声?」
「古代意思、とでも呼ぶものです。七百年ここにいました」
ドランク王がまた少し黙った。
「……七百年、か」
「ええ」
「それがお前に「十分だ」と言った」
「そうです」
ドランク王が通路の壁を見た。今は何の光もない普通の壁だった。
「……そういうものか」
「若様」
ガレットが前に出た。
「はい」
「お顔の色は——問題ございませんか」
「問題ないです」
「……承知いたしました」
ガレットが頭を下げた。少しだけ、深かった。
(ガレット、心配してたんだろうな)
「ガレット」
「はい」
「父の話——聞きました」
ガレットが少し止まった。
「……若様に」
「ここで話してくれたそうですね。答えを持っていたが入ることを選ばなかった、と」
ガレットが静かに目を下げた。
「先代領主は——そういうお方でした」
「……そうですね」
(まだ自分の番ではない、と言って帰った親父が、台帳に「あとは頼む」と書いた)
(……面倒くさいことを、ちゃんとやってたんだな、あの人は)
「若様」
ガレットがまた言った。
「何ですか」
「父君は——よく言っておられました。「次の代に任せればいい」と」
(……そうか)
「……そうですか」
俺はそれだけ答えた。
通路が静かだった。壁に何の光もなかった。七百年間青白く走っていたものが、全部消えていた。
「若様!!」
マリスだった。
「何ですか」
「スキルで何か分かりますか!! 地上に影響は出てますか!! 領地の魔素濃度は!!」
「……落ち着いてください、マリス」
「落ち着けないです!!」
(……ずっと外で待ってたから溜まってたんだろうな)
「今スキルを確認しています。全域で上向きです。北の丘が一番早いですね」
「北の丘?!」
「そこが土壌が回復しやすい地形なのかもしれません。詳しいことはイルデ先生に」
「ライルさん!! それがすごいことだって分かってますか!!」
「……分かっています」
「七百年ぶりですよ!! 七百年!!」
「はい」
「「はい」じゃないですよ!!」
(……マリスが一番感慨深いのかもしれない)
「イルデ先生」
俺はイルデ先生に声をかけた。
「……はい」
先生は通路の壁を見ていた。
「壁の術式が消えているのは分かりますか」
「見えています。全部——消えています」
「はい」
「これが「役目を終えた」ということですか」
「そう言ってました」
先生が少し頷いた。
「……七百年前の設計者が、「来るべき者が来たら終わる」と設計した。それが今日、動いた」
「そうです」
「…………感慨深いです」
(先生も感慨深いのか)
(全員が感慨深い中で俺だけあっさりしてる気がする)
「先生、詳しい話は地上に出てから聞かせてください。この区画は閉じました。もう使えません」
「……閉じた、というのは」
「次に扉を開けようとしても、扉は応じない、と言っていました」
先生が扉の方を見た。今は閉まっている。
「……記録は取りました。入れなくても、分析はできます」
「よかったです」
「——地上に戻りましょう」
ドランク王が言った。
「陛下が言ってくださってよかったです」
「なぜ」
「俺が言うより早く動けます」
「……お前は変なことを言うな」
(いつものことだが)
全員で来た道を戻り始めた。
前々室の柱の刻文の前で、イルデ先生の足が止まりかけた。
「先生、地上で」
「——分かっています」
止まらなかった。
(少し成長した)
通路を戻る間、スキルが静かに動いていた。遺跡の中の感触が変わっていた。核の間に近づく感触も、別の区画から来ていた「押す感触」も、今はない。
ただ——地上に向かう魔素の流れが、全域で続いていた。
「若様」
歩きながら、ガレットが言った。
「何ですか」
「地上に戻りましたら、報告書の件を——」
「ガレット」
「はい」
「戻ったら茶を出してください」
ガレットが少し止まった。
「……承知いたしました」
「あと、全員分」
「かしこまりました」
(そういえばドランク王も言ってたな)
(茶が飲みたい、って)
「陛下も茶でいいですか」
「当然だろう」
「分かりました」
(まあ、そういうことで)
地上に向かいながら、スキルが領地全体の感触を届け続けていた。
東の端の水路も、西の集落も、北の丘も——全部が上向きに動いていた。
七百年分が、ゆっくりと整っていく。
(……親父)
(頼まれてたやつ、終わったよ)
それだけ思った。
返事はなかった。
まあ、なかった方が面倒くさくなくていい。
出口の光が、前方に見えてきた。




