問いかけ
扉が背後で閉まった。
音はなかった。気配だけがあった。振り返らなかった。
俺はひとりだった。
広大な空間だった。天井が見えない。灯りを持ち上げても光が届かない。
壁一面に術式が展開している。青白い細い線が無数に走り、交差していた。
(……広いな)
足を踏み出した。足音が静寂に吸われた。反響がなかった。
この空間は音を飲み込む設計になっているのかもしれない。
七百年前に、誰かがそう作った。誰かが、何かのためにここを作った。
一歩、また一歩。
スキルが、静かに動いていた。
外の通路で感じていた「押す感触」がここにはない。
代わりに——待っているような、静かな何かがある。急かすわけでもない。拒むわけでもない。ただ、待っている。
(七百年待ってたのか、これ)
(……それは面倒な話だ)
壁の術式が少しずつ変化していた。光の線が俺の歩みに合わせて動いている。
収束していく。どこか一点に向かって。こちらを認識している——そういう動き方だった。
空間の中央で、俺は足を止めた。
床が他の場所より白かった。特別な石を使っている。遠くから運んできた石だ。スキルがそう告げていた。
設計者が、ここを特別な場所と定めた。何百年も前に。
その瞬間、光が一点に集まった。壁の全ての線が、同じ一点へ向かって収束した。
「汝の名を告げよ」
声だった。どこから聞こえているか分からなかった。空間全体から来るような、でも一点から届くような。
平坦な声だった。感情がなかった。起伏がなかった。耳というより——胸郭が揺れた。
「ライル・ヴァンダール。ヴァンダール辺境領の領主です」
間があった。
「領主スキルを確認する」
スキルが引っ張られた。向こうが直接感知している。読まれているという感触だった。
(……読んでる)
「……確認した。認証が通った」
俺は少し息を吐いた。
通った。まずそれだけ分かった。次に何が来るか、ここからが本番だということも分かった。
「……それで」
「汝に問う」
声が言った。一拍の間があった。
「汝はなぜここへ来たか」
(……来た。本題が)
「……少し、考えてもいいですか」
「七百年間、待った。少しの猶予を与える」
(七百年)
(七百年、待ってたのか)
壁の光は静かに揺れていた。急かすわけでもなかった。ただ待っていた。
七百年待ち慣れているとすれば、これくらいの間は何でもないのかもしれない。
(……何と言えばいいんだ)
(まあ、正直に言うか。嘘つくと後で面倒になる)
「……面倒くさい問題を片付けに来ただけですが」
「それだけか」
「……はい、多分」
「前の訪問者も同じことを言った」
俺は少し止まった。
「……前の訪問者がいたんですか」
「百三十年前、一人来た。答えは似ていた。しかし去った」
「……問いに答えなかった、ということですか」
「答えた。しかし途中で引き返した」
(百三十年前。先代より前だ。先々代か、それ以前か)
(途中で引き返した、というのは——怖くなったのか。それとも別の理由か)
「……その人は、何を答えたんですか」
「「領地を救いに来た」と言った」
「……俺と似てますね」
「異なる。汝は「片付けに来た」と言った。前の訪問者は「救いに来た」と言った」
(……違いがあるのか、その二つに)
「……どう違うんですか」
「続けよ。汝の答えはそれだけか」
(……流した)
俺は少し黙った。
なぜ「救い」と「片付け」が異なるのか、聞こうとしたが答えてくれなかった。
俺に先に続きを言わせることを選んでいる。その理由も、分からなかった。
(他に、言えることがあるか)
「……あと」
「あと、とは」
「みんなが困ってたので」
「みんな、とは誰か」
(……聞いてくる)
「ここの住民。周辺の国々。それから——うちの執事が心配してたので」
間があった。
「心配、とは何か」
(……何か、って)
「問題が解決するまで、ずっと心配し続けるんです。そういう人なので」
「汝は、その心配が終わることを望んだか」
(……え、そういう聞き方をするんだ)
俺は少し考えた。
ガレットのことを思い出した。台帳を持ってきたときの顔を。普段は表情を出さない人だが、あのとき声が少し低くなっていた。
遺跡に向かう前日、「若様」と呼んだ。それだけで少し間を置いた。何か言いたかったが、言わなかった。
「……はい、多分」
「汝の答えを繰り返す」
声が、静かに言った。
「面倒くさい問題を片付けに来た。住民が困っていた。」
声が続いた。
「周辺の国々が困っていた。執事が心配していた。その心配が終わることを望んだ」
(……並べると結構ある)
(こうして繰り返されると、恥ずかしいな)
「……はい。大体そういうことです」
「汝は、権力を求めてここへ来たか」
「……違います」
「汝は、名誉を求めてここへ来たか」
「……違います」
「汝は、土地を広げることを求めてここへ来たか」
「……違います。面倒くさいので」
間があった。
「面倒くさい」
「……はい」
「その言葉を、汝は繰り返す。説明か」
(……説明か、と聞いてくる)
「説明というか、本当にそう思ってるので」
「七百年間で数十人が来た。問いに答えた者はいなかった」
「……え」
俺は少し止まった。
「……俺が答えたことになってるんですか」
「まだ問いの途中だ」
「……そうですか」
「問いの続きがある。汝の答えは以上か」
「……一応、そうです」
「全員、答えなかったんですか——と汝は聞いた」
「……はい」
「答えた者はいなかった。問いの途中で去った。あるいは答えが整合しなかった」
「整合しなかった、というのは」
「答えの内容が、行動の理由と一致しなかった。嘘があった」
「……なるほど」
(嘘を検知できるのか、この声は)
(……まあ、嘘をつく理由がなかっただけだが)
「汝の答えを検証する」
スキルが、また揺れた。向こうが何かを確認している感触だった。
さっきの「認証」とは違う。もっと深いところを——調べている。
答えの重さを、直接測っているような感触だった。
壁の光が一度強くなった。全面に広がって、それから静かになった。
「検証した」
「……どうでしたか」
「整合している。嘘がない」
(……まあ、嘘はついてない)
(面倒だから正直に言っただけだが)
「……それで」
「汝のスキルは七百年前の設計に適合している」
「……どういうことですか」
「認証は完全に通った。設計者は記した。」
間があった。
「「欲のない者が来たとき、この区画は応じる」と」
(欲のない者、か)
(……面倒だっただけなんだが)
「……よかったです」
「汝の一人称は「俺」だ」
俺は少し止まった。
「……そうですが」
「百三十年前の訪問者は「我が」と言った。七百年前の設計時には想定されていなかった言葉だ」
(……そういうことを記録してるのか)
「……まあ、俺はそう言いますね」
「確認した。汝の言葉は一致している。「面倒くさい」と「俺」は同じ人間から出た」
(……なんかそういう確認の仕方をするんだ)
「汝の答えは——」
壁の光が、一度大きく揺れた。
術式の線が一斉に収束した。空間全体が、息を止めたような静寂になった。
スキルが震えた。
これまでとは違う震え方だった。土地の感触が急に広がった。
遺跡の外——ヴァンダール領全体の感触が、一気に来た。
東の端の水路も、西の集落も、北の丘の上から見下ろす感覚も——全部、同時に来た。
(……領地全体を感知している)
「——十分だ」
(あ)
その声とともに、空間が変わった。
壁の術式が、一斉に動き出した。静かな動き方だった。急ぎ足ではなかった。
何かがほどけていくような感触があった。長い時間をかけて止まっていたものが、ようやく動き始めたような。
(……あっさりしすぎて逆に怖い)
スキルが、また震えた。今度の震え方は「広がる」感触だった。
壁を越えて、遺跡の外に向かっていくような。地下から地上へ向かうような。
(何かが来る)
(大きなことが、来る)
壁の光が静かに明るくなっていく。
でも怖いとは思わなかった。七百年分の何かが、ようやく動き出した感触だった。
ずっと止まっていたものが、動くべき方向へ動き始めている——ただそれだけだった。
父の台帳の最後のページが、頭の中に浮かんだ。
他のページより文字が細かかった。二十年分の記録の最後に、一行だけ書いてあった。
「息子よ、お前が来たなら——あとは頼む」
それだけだった。説明もなく。謝罪もなく。
親父が二十年かけて維持していたものが、今ようやく動き出そうとしている。
(……親父、これか)
(「あとは頼む」って、これのことか)
空間が変容している。術式が動いている。その中で、俺はひとり立っていた。
扉の向こうで何人かが待っているはずだった。マリスが。ガレットが。ドランク王が。
でも今、この空間の中に声はない。光だけがある。
(……来る)




