俺しかいないの
図面室は、紙の匂いがした。
棚の上に資料が積まれている。テーブルの上には三枚の図面が広げられていた。そのうち一枚が遺跡の見取り図で、もう一枚が台帳から写したらしい文字の列だった。
イルデ先生が立ったまま、台帳の写しを見ていた。マリスが隅の椅子に座って手帳を開いていた。
俺が入ると、二人が同時にこちらを向いた。
「来られましたか、若様」
「昨日、報告をもらいましたよね」
「はい。夜分に失礼しました」
先生が台帳の写しをテーブルに置いた。
(どんな顔で話すんだろうと思ったら、いつも通りの顔だった)
先生はいつも同じ顔をしている。遺跡の核を見た時も、七百年分の術式を解読した時も、大体同じ表情だ。
「詳しく聞かせてもらえますか」
「はい。座っていただけると説明しやすいのですが」
「立ったままで」
「では立ったままで」
先生が図面を一枚手前に引いた。
遺跡の見取り図だった。核の間から右に向かって、破線で区画が示されている。以前は破線がなかった場所だ。
「別の区画への認証方式について、刻文から判断できたことをまとめます。刻文の記述は明確です。「区画は、核の持ち主が認めた者にのみ開かれる」という一行があります」
「核の持ち主」
「はい。この遺跡の設計において、「核の持ち主」とは核に直接干渉できる者——つまり、領主スキルを核へ向けられる者のことを指します。それ以外の解釈の余地はありません」
(余地がない、か)
「……認証の方法は」
「核の間に入り、領主スキルを区画の方向に向けて「通す意思」を示す形になると思われます。物理的な鍵ではなく、スキルそのものが認証の手段です。これは核の術式と対になって設計されており、七百年前から変わっていません」
「代替手段は」
先生が、ほんの少し間を置いた。
「ありません」
俺はその答えを、頭の中で一回転がした。
(ない、と)
「……つまり、俺しかいないの」
「はい。若様だけです」
マリスが手帳から顔を上げた。
ガレットが扉の近くで静かに立っていた。
(そうか)
(面倒くさ……)
窓の外で風が動いた。図面の端が少し持ち上がった。先生が手で押さえた。
「……分かりました」
「若様」
「やります。面倒くさいですけど、これは避けられない話ですね」
「はい。そのように判断しています」
(言い訳の余地がないのは、ある意味楽だ)
(逃げる方向がそもそもない時は、考えることが減る)
俺が「分かりました」と言ったのとほぼ同時に、廊下が少しざわめいた。
ガレットが扉を少し開けて、廊下を確認した。
「若様、昨日お伝えした各方面の方々が」
「来てるんですね」
「はい。昨日の段階で今朝の時刻を伝えておりましたので」
(伝えておいた、と)
(ガレット、仕事が早い)
「通してください」
「承知いたしました」
しばらくして、図面室の扉が開いた。
ドランク王が最初に入ってきた。後ろにヴェルナー、エンデ卿のカステル、内政局のクインが続いた。
学術院のリベリも隅の方に入ってきた。人数が多い。
部屋が急に狭くなった。
「ライル」
ドランク王が開口一番に言った。
「聞いた。認証が領主スキルだと」
「はい」
「なら、俺たちは外から協力する。必要なことを言え」
(早い)
(昨日の時点でもう答えを出していたのか、この王様は)
「……ありがとうございます」
「礼はいい。で、何が要る」
「先生の説明が終わってから、整理します」
「分かった。待つ」
ドランク王が図面室の隅に移動した。
次に、ヴェルナーが一歩前に出た。テルミス大国の使者だ。表情は読めない。毎回読めない。
「若様、テルミス政務院からの確認事項があります」
「はい」
「「別の区画への対応」について、当院も関与する意向です。今回の認証方式が領主スキル限定と判明した場合——」
「判明しました」
「……そうですか」
「はい。今、先生から確認したところです」
ヴェルナーが少し沈黙した。
「……検討します」
(「検討します」)
(何を検討するんだろう)
(認証がスキル限定なら、テルミス大国には手が出せない。検討することがあるとすれば……自分たちがどう関与するかの形式的な部分か)
「関与の形については、また後で確認します。今は先生の説明を聞きたいので」
「……承知しました。後ほど」
ヴェルナーが下がった。
エンデ卿のカステルが手を上げた。
「カステル・エンデです。うちも協力します」
「ありがとうございます。具体的に何ができますか」
「資金と人手。あとエンデ侯爵家の名義。使いますか」
「後で確認させてください」
「了解です」
クインが手帳を開いていた。内政局の代表だ。
「若様、内政局として一点確認させてください。今回の対応、若様が主体になることは承知しています。報告書の形式について——」
「ガレットと相談します」
「……はい。ガレット殿と」
「よろしいですか」
「はい」
(みんな、急に協力的だ)
「……みんな急に協力的じゃないですか」
その言葉が出た瞬間、マリスが立ち上がった。
「当然です!!」
(マリスは常に「!!」が多い)
「ライルさん一人に任せておくのはダメです。みんなで分担するのが当然でしょう。何でもかんでも若様が一人でやるから——」
「マリス」
「……はい」
「ありがとうございます」
マリスが少し止まった。
「……いえ!! 当然ですから!!」
(マリスは感情量が人の三倍ある)
(それが助かる時と、少し疲れる時がある。今は助かる方だ)
部屋の中が落ち着いてきた。
ドランク王が図面を覗き込んでいた。ヴェルナーが隅で何か書いている。カステルがリベリと小声で話していた。
(急に人が増えた)
(昨日まで図面室は先生とマリスだけだったのに)
「若様」
先生が静かに言った。
「続きを説明してよいですか」
「どうぞ」
先生が図面を指した。
「認証を行った後、区画の入口が開きます。ただし——」
先生が一拍置いた。
「開くのは認証した者に対してのみです。他の者は区画への入場が制限される可能性があります。「外からの侵入に反応する」という刻文の記述がありますが、これは認証を受けていない者への制限と読むこともできます」
(つまり、中に入れるのも俺だけかもしれない)
「先生、俺が認証して入った後——他の人も一緒に入れますか」
「断言はできません。「認証した者が連れて入る」形であれば、別の扱いになる可能性があります。ただ——」
「ただ」
「実際にやってみないと分からない、ということです」
(そういう答えが一番困る。でも正直な答えだ)
「……分かりました。やってみます」
「若様、準備がいくつかあります」
「聞きます」
先生が台帳の写しを一枚持ち上げた。
「お父上の台帳の記述と刻文を合わせると、別の区画への入口は核の間の右の壁からではなく——」
「別のルートがある、ですね」
「はい。台帳の断片と刻文の記述が一致しています。「南側の通路から迂回する形で区画の前室に至る」という記述があります。前々室から右手の通路を南に向かうと——ここです」
先生が図面の一点を指した。
破線の先に、小さく四角が書かれていた。
「ここが入口になると推定します。術式盤があるはずです」
「形式は同じですか」
「おそらく同じ形式です。ただし、認証が必要になる点で、これまでの術式盤とは手順が違います」
「……なるほど」
ドランク王がテーブルに近づいてきた。
「地図でいうとここか」
「そうです、陛下。ここから進むと——」
「書庫の資料にこの辺りの記述があった。「南の間」という言葉が出てくる文書がある。一度確認させてくれ」
「ありがとうございます」
(ドランク王の書庫は本当に役に立っている)
(毎月うちに来ていたのは、そういう理由もあったんだろうか)
(いや、それ以前から来ていたか。まあ、どっちでもいい)
「先生、他に必要な準備は」
「二点です。一つ目——中間区画から入る前に、核の間で改めてスキルを確認しておいてください。目覚めた区画の「感触」が今どの程度か、把握しておいた方が判断材料になります。二つ目——今回は、若様が区画の前室で認証を行う手前で一度止まる必要があります。「開くかどうか」を確認してから、次の判断をしてください」
「急がない、ということですね」
「はい。この区画が七百年間眠っていた理由が、まだ分かっていません。開いた後に何があるかも不明です。段階を踏む方が安全です」
(それは正しい)
(急いで痛い目を見た経験は、このアーク内だけで既に複数ある)
「分かりました。段階を踏みます」
ヴェルナーがそこで手帳を閉じた。
「若様、一点だけよろしいですか」
「どうぞ」
「テルミス政務院として——今回の対応の記録について、共有をお願いしたいのですが」
「記録はガレットが取ります」
「……政務院への——」
「ガレットが取ります。後でまとめて共有します。それでいいですか」
「……検討します」
(また「検討します」)
(ヴェルナーは「検討します」が多い人だ。決定権が本国にある分、その場で答えを出せない。仕方ない)
「では後ほど、ガレットに連絡先を伝えてください」
「……承知しました」
カステルが手を上げた。
「一点確認です。探索チームの構成は」
「先生、俺、マリス——それと」
俺はドランク王の方を向いた。
「陛下、今回も同行されますか」
「当然だろう。書庫の資料を持って入る」
「……ありがとうございます。ガレットは地上で記録と連絡を担当してもらいます」
ガレットが手帳に書き込んでいた。
「カステル卿は地上で待機してもらえますか。何かあった場合の対応を」
「分かりました。遺跡の外ですね」
「はい。何かあった時にすぐ動ける位置で」
「了解です」
クインが手帳から顔を上げた。
「内政局として、探索には同行しなくていいですか」
「今回は見送りでお願いします。人数が増えると制限の判断が難しくなるので」
「……承知しました」
部屋が少し静かになった。
俺は先生の図面を見た。破線の先の四角を見た。
(俺しかいない、か)
(まあ、だからこそ、向こうも「当然協力する」になるんだろう)
(一人しかできないことを一人でやる——それは面倒くさいが、役割分担としては分かりやすい)
「先生、出発はいつが適当ですか」
「準備が整えば明日でも可能です。ただ、陛下の書庫資料の確認と、中間区画の現状把握を先に済ませてからの方が——」
「明後日にしましょう」
「はい、それで問題ありません」
ドランク王が頷いた。
「明後日なら書庫の写しを取り寄せる時間がある。今夜連絡する」
「ありがとうございます」
「礼はいい。それより——」
ドランク王が少し声を落とした。
「お前の親父が守り続けたものだ。粗末にするなよ」
(……そういうことを、この王様はさらっと言う)
「……分かってます」
「よし」
それで会話が終わった。
ヴェルナーがまた何か言いかけた。
「若様、政務院としての関与の形式について——」
「ガレット」
「はい」
「ヴェルナー殿のご要望を、後で整理してください」
「承知いたしました」
ヴェルナーが少し間を置いた。
「……承知しました」
(「検討します」から「承知しました」に変わった。進歩だ)
マリスが手帳に書き込みながら、少し顔を上げた。
「ライルさん、今日の夕方に全員で確認の場を設けた方がいいですか」
「そうしましょう。準備の分担と明後日の段取りを合わせます」
「分かりました。場所はこの部屋でいいですか」
「先生、いいですか」
「構いません」
「では夕方にここで。人数が多いので、ガレットに椅子の手配を」
「既に手配しております」
(既に手配している)
(ガレットは本当に先を読んでいる)
(……まあ)
部屋の中に、少し空気が落ち着いてきた。
各自が手帳や書類を整理し始めた。ドランク王が先生と図面を覗き込んでいる。カステルとリベリがまた小声で話していた。
マリスがこちらに歩いてきた。
「ライルさん」
「何」
「……大丈夫ですか」
(大丈夫かどうか)
「大丈夫じゃない理由がないので」
「……でも、また一人で行くんじゃないですか」
「マリスも来るでしょう。先生も。陛下も」
「認証は一人ですよね」
「……そうですね」
マリスが少し黙った。
「……一人で開くの、頼みます」
「任せておいてください」
「絶対戻ってきてくださいね!!」
「戻ります」
(マリスの「絶対」は本当に重い)
(この子は宣言したことを曲げない)
「……まあ、なんとかなるか」
「ちゃんとなんとかしてください!!」
「はい」
図面室の外から、廊下の足音が通り過ぎた。
スキルを向けた。
土壌の魔素濃度が、今日も続いている。右の壁の向こうから、例の感触がある。相変わらずそこにある。
(親父が守り続けたもの)
(俺が引き継いだもの)
(面倒だが、避ける理由も、ない)
(なんとかするか)




