封印日記
翌朝、ガレットが来た。
いつものように書類と手帳を持っていた。ただ、書類の下に、革表紙の冊子を一冊、抱えていた。
「若様」
「はい」
「昨夜申し上げた通り、お父上の台帳を持参いたしました」
ガレットが台帳を机に置いた。
革は古かった。どの色だったのか判断できないくらい、日焼けして黒ずんでいた。縁が擦れている。長いこと使われた跡がある。
(これが)
(父が二十年使っていた台帳か)
「先生に渡す前に、若様にご確認いただいた方がよいかと思いまして」
「……そうですか」
「読まれますか」
「……読みます」
ガレットが椅子を引いた。俺は座った。台帳を手に取った。
思ったより、重かった。
表紙を開いた。
最初のページに、日付が書かれていた。王暦三三二年。
(二十年前だ)
父がヴァンダール家の当主を継いだ年だ。俺が生まれる一年前。
字は、几帳面だった。一文字ずつ丁寧に、乱れなく書かれていた。父の字は、屋敷の書状で何度か見たことがある。ああ、これだ、と思った。
「若様、私は廊下に」
「いてください」
「……承知いたしました」
(ガレットを残す)
(別に、それほど深い意味はない。一人で読むのが少し嫌だと思った。それだけだ)
最初の数ページは、当主就任直後の記録だった。
農地の状態、水路の記録、住民の数。普通の台帳だった。父が最初にやったことが、淡々と書かれていた。
ただ、三ページ目の途中から、文体が変わった。
「今日、例の方が来られた」
(例の方)
「ガレット」
「はい」
「「例の方」というのは」
ガレットが少し目を細めた。
「……私には、分かりません。お父上が何と呼ばれていたかは、記録にも出てきません」
「つまり、父は名前を書かなかった」
「そのように見受けられます」
(意図的に書かなかった、か)
(それは、名前を記録することが危険だと判断した、ということだ)
先を読んだ。
「例の方」から、封印の詳細を教わったことが書かれていた。別の区画のこと。自動防衛術式のこと。そして——領主スキルで核に定期的に干渉することで、区画を眠らせたまま維持できるという方法。
「父は、「例の方」から直接教わったんですね」
「はい。台帳の記述から推察すると、着任後すぐに接触があったようです」
「誰なのか、全く」
「……お父上は「密命」という言葉を使っておられます。発信元については、ページの上の方をご覧ください」
言われた通りにページを戻した。
五ページ目の上端に、小さく一行、書かれていた。
「連絡路——知っている人間がいる」
(ガレットが以前言っていた記述だ)
(これだけで、どこへも繋がらない)
「この先は」
「続きをご覧になると、分かるかと存じます」
ページを進めた。
記録は続いていた。年に数回、核へ向けてスキルを使った記録が残っていた。「今日、例の作業を行った。問題なし」という短い文が、何十回も繰り返されていた。
(何十回も)
十数年目から、凶作の記録が混ざり始めた。
土壌の魔素濃度が下がってきた。作物が育たない。住民が逃げ始めた。対策のために動き回った記録が続く。それと並行して——「今日も、例の作業を行った」という一行が、変わらず記録されている。
(疲れていたはずだ)
(凶作の対策をしながら、封印の維持も続けていた)
五年目に差し掛かった頃、文字が乱れ始めた。
それまで一文字ずつ丁寧だった字が、わずかに崩れていた。圧が弱くなっている。
(体が、限界に近かったんだろう)
俺はページをめくる手を、一瞬止めた。
次のページは、空白だった。
その次のページも。
そして——最後のページが来た。
日付は書かれていなかった。
ページの真ん中に、数行だけ書かれていた。文字の乱れはなかった。最初のページの几帳面な字と同じだった。最後に、力を入れて書いたのかもしれない。
「息子よ、お前が来たなら——あとは頼む」
(……)
しばらく、その一行を見ていた。
(面倒なものを残してくれたな、親父)
(でも、なんか)
なんか、なんだ。
言葉が、うまく出てこなかった。怒っているわけでもないし、悲しいわけでもない。ただ、その一行が、胸のどこかに引っかかっていた。
(二十年間、封印を守り続けて、最後のページに一行だけ書いた)
(「あとは頼む」)
(それだけか、親父)
それだけなんだろう。
それ以上書く気力が残っていなかったか。それとも、それだけ言えば伝わると思ったか。
俺は台帳を閉じた。
「……ガレット」
「はい」
「父は、これを読まれることを想定して、書いていたんですね」
ガレットが、短く間を置いた。
「……はい。そのように思います。台帳の形式が途中から変わっています。前半は事務記録に近い形ですが、後半は——読む人間に向けた記述に近くなっています」
「誰が読むか、分からない状態で」
「はい。次の当主が読むかもしれない。ガレットが読むかもしれない。「例の方」が読むかもしれない。——どなたが読んでも内容が伝わるよう、書かれていたのだろうと」
(そうか)
(分かっていたんだ)
(自分が最後まで守り切れないかもしれないと)
「先生に渡します」
「はい」
「最後のページも含めて」
「……承知いたしました」
台帳を持ち上げて、ガレットに渡した。
その時、廊下からマリスの足音が近づいてきた。扉を叩く音がした。
「ライルさん、朝の確認書類をお持ちしました」
「どうぞ」
扉が開いて、マリスが書類を抱えて入ってきた。台帳がガレットの手の中にあるのを見て、一瞬だけ目が止まった。
(マリスは、父の台帳のことは昨夜からある程度知っているはずだ)
「……台帳、先生に届けますか」
「はい」
「私が届けます」
マリスが書類を机に置いて、台帳をガレットから受け取った。
「今日の朝、先生が図面室にいるのを見ました。そこへ持っていきます」
「頼みます」
「はい!」
マリスが台帳を持って出ていった。
(マリスは、ああいう時に余計なことを言わない)
(それが助かる)
ガレットが手帳を開いた。いつもの朝の確認に戻る気配だった。
「若様、一点、昨夜追加で確認したことがございます」
「何ですか」
「お父上の台帳の後半部分に、自動防衛術式に関する記述がいくつかございました。今朝、私が整理してみましたが——その中に、別の区画への「入り方」に関する断片的な記述がありました」
(入り方)
「どういう内容ですか」
「術式盤の位置について、お父上が「例の方」から聞いた情報が記されていました。具体的な図は描かれていませんが、「核の間の右の壁から直接ではなく、別のルートがある可能性がある」という一行がありました」
「……先生が解読している刻文と、照らし合わせる価値がある情報ですね」
「はい。そのように考えております。マリスに先生へ伝えてもらうよう追加の伝言を出してよいですか」
「お願いします」
ガレットが廊下へ向かった。
俺は朝の書類に目を通した。視察対応の予定、ヴェルナーとの再会談の日程確認、内政局への暫定報告書の草稿——それぞれに対して、返答や指示を書き込んでいった。
(いつも通りの朝だ)
(台帳を読んだ後でも、やることは同じだ)
しばらくして、ガレットが戻ってきた。
「マリスに伝えました。先生に台帳と合わせて照合をお願いするよう頼みました」
「ありがとうございます」
ガレットが椅子に座った。手帳を開く。いつも通りだ。
「若様、先生からの刻文解読の中間報告が一点、追加でございます。昨日の夜に届いておりました」
「内容は」
「「別の区画への認証方式について、刻文に記述がある。詳細は直接説明するが、一点だけ先に伝えておく——認証は領主スキルの所持者にのみ反応する設計になっている可能性が高い」とのことです」
(……領主スキルの所持者)
「つまり」
「はい。先生のお言葉をそのまま申し上げますと——「現状ヴァンダール領で領主スキルを持つのは一名のみ」です」
(そうだな)
(俺しかいない)
「……俺しかいないの」
「はい、そういうことになります」
ガレットが静かに手帳を見ている。それ以上のことは言わなかった。
(面倒くさ)
(でも、まあ)
窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえた。
スキルを向けた。土壌の魔素が、今日も上がり続けている。右の壁の向こうから、例の感触がある。まだそこにある。
父がずっと向けていた土地だ。
俺も向けている。
(なんか、似てきたな)
(……まあ、なんとかなるか)
「ガレット」
「はい」
「先生に会いに行きます。午前中に時間を空けてください」
「承知いたしました。現在先生は図面室に。マリスも一緒にいるはずです」
「分かりました」
立ち上がって、書類を脇に置いた。
(父の台帳を読んで、先生の報告を聞いて、次にやることが決まった)
(早い方がいい。面倒くさいが、後回しにするともっと面倒くさくなる)
「ガレット、一つ聞いていいですか」
「はい」
「父が台帳を書き続けたのは——誰かに読ませるためだけでしたか。それとも、自分のためでもあったと思いますか」
ガレットが、少し間を置いた。
珍しく、答えを考えている顔をした。
「……私には、分かりません。ただ——お父上は、台帳を書くことを毎日続けておられました。凶作の対策で疲弊されていた頃も、やめることはありませんでした。書き続けることで、何かを整理されていたのかもしれません」
(そうか)
「……まあ、そうかもしれないですね」
「はい」
俺は扉に向かった。
廊下に出ると、遠くから先生の声が聞こえた。何か図に向かって、マリスに説明しているらしい声だ。
(認証は領主スキルの持ち主だけに反応する)
(つまり、俺しかいない)
(……親父は、それも知っていたんだろうな)
(だから「あとは頼む」の一行だったんだ)
(面倒なものを残してくれたな)
(でも)
廊下を歩いた。
足元の石の冷たさが、靴底から来た。この屋敷の廊下の感触だ。父も毎日歩いていた廊下だ。
(まあ、なんとかするか)




