父の話
その日の夕方、ガレットが執務室の扉を叩いた。
来客の対応は全て終わっていた。テルミス大国のヴェルナー、ドランク王、エンデ卿、内政局のクイン、学術院のリベリ——それぞれとの調整を書状と会談で一通り片付けた後だった。マリスが応接室の茶器を片付けに行っていた。
「若様」
「はい」
「少し、よろしいですか」
ガレットの声の調子が、いつもと違った。
書類の確認でも、来客の追加でも、視察の日程でもない。そういう時のガレットの声は、もう少し「事務的」だ。今の声は、それよりわずかに低い。
「……どうぞ」
ガレットが入ってきた。手帳は持っていなかった。
(珍しい)
ガレットが執務室に来る時、手帳か書類を持っていないことは、まずない。
「マリスを、下がらせてよいですか」
「……はい」
廊下でマリスの足音が聞こえた。ガレットが声をかけた。短いやり取りがあって、マリスの足音が遠ざかった。
ガレットが戻ってきた。
扉を、静かに閉めた。
「若様、一つ申し上げたいことがございます」
「聞きます」
ガレットが立ったまま、少し間を置いた。
(何だろう)
ガレットが口を開くまでに間を置くのは、珍しくない。ただ今日の間は、いつもより長かった。
「先代領主——若様のお父上の件です」
俺は何も言わなかった。
父が過労で急死したのは、俺がここに来る一年前のことだ。王暦三五一年。五年連続凶作の最中、対策に奔走して、成果が出ないまま死んだ。それは知っている。
「自動防衛術式が目覚め——「別の区画」が起動したと先生から伺った時から、私は迷っておりました」
「何を」
「申し上げるべきかどうか、を」
ガレットが、また少し間を置いた。
「若様はこの遺跡のことを——核の存在を、着任後にスキルで気づかれ、先生に確認を取り、調査を進めてこられました」
俺はうなずいた。
「ですが、先代領主は……お父上は、この遺跡の存在を、ずっと前からご存知でした」
(知っていた)
俺はその言葉の意味を、すぐには追えなかった。
父が知っていた。
着任後に俺がスキルで感知した「異常な引き」。核が七百年間吸い続けた魔素。イルデ先生が解読した刻文。中間区画の壁の光。あれを——父は、知っていた。
「……いつから」
「私が存じているのは、二十年ほど前からです。お父上が当主になられた直後に、台帳に記録が始まりました。ただ、実際にはもっと前かもしれません。先代の先代、あるいはさらに前の代から伝わっていた可能性もございます」
(二十年)
(核の調査記録が)
「ガレット、父の台帳に「連絡路」という記述があると言っていましたね」
「……はい。以前、お父上の台帳についてお話しした通りでございます」
「「知っている人間がいる」とも」
ガレットは小さくうなずいた。
(そういうことか)
(あの台帳は——単なる記録ではなかった)
「お父上は、遺跡の封印を——古代の区画を眠らせたままにするために、領主スキルを使い続けておられました」
「……」
「核の術式には、外部からの干渉を感知する仕組みがあります。先代から伝わっていた知識によれば——領主スキルを定期的に向けることで、区画の感知を「中和」するような効果があったようです」
「完全に止めるのではなく、眠らせたまま維持する、という方法です」
俺は椅子の背もたれに体重をかけた。
「つまり、父は——俺が去年まで放っておいた封印を、わざと維持し続けていた」
「はい。それが先代領主の、長年の密命でございました。どなたから受け取ったのかは、私には分かりません。ただ、お父上はそれを引き継ぎ、ずっと続けておられました」
(密命)
(十九歳で当主を継いだ父が、二十年間、それを続けた)
「封印の維持に、スキルを使い続けた」
ガレットは静かに目を伏せた。
「それが——過労の原因」
「……領主スキルは常時発動が基本でございますが、特定の目的に向けて持続使用する場合、消耗が生じます。通常の感知とは負荷が異なります。お父上は五年連続凶作の対策にも奔走されており——双方の消耗が重なっていたと考えております」
「医師には」
「凶作対策の過労、という診立てでございました。スキルの持続使用については、確認できる者がおりませんでしたので」
(そうか)
窓の外で、鳥が鳴いた。
最近、よく鳴くようになった。魔素の還流が始まってから、領地の空気が変わってきた。父が二十年間守り続けた封印を——俺は三ヶ月かけて、ひっくり返した。
「若様が継がれた時、私は……告げるべきか迷いました」
ガレットの声が、一音だけ低くなった。
「お父上が急死され、若様が着任された直後のことでございます。詰み状態の領地、借金、凶作。若様には既に、十分すぎるほどの問題がございました。そこへ加えて「実は地下に古代遺跡があり、先代は封印のためにスキルを使い続けて過労で亡くなりました」と申し上げることが——正しいかどうか。判断しかねました」
「……」
「ご報告が遅れました。申し訳ございません」
ガレットが頭を下げた。
俺は何も言わなかった。
(……親父)
(面倒なものを残してくれたな)
叱る気は、なかった。
ガレットの判断が間違いだったとも思わなかった。着任直後の俺に、あの話を聞かせていたとして——何が変わったか。たぶん、何も変わらなかった。詰み領地の問題を一個ずつ潰すことしか、できることはなかった。
ただ。
父が「いつもどこか遠くを見ていた」と、屋敷の古参の使用人が言っていたのを、俺は着任後すぐに聞いていた。
その意味が、今、分かった気がした。
(二十年間)
(毎日スキルを向けながら、遠くを見ていた)
俺は天井を見た。
息を一つ吐いた。
「……分かりました」
俺はそれだけ言った。
ガレットが顔を上げた。
何かを言いかけて、止まった。
「ガレット」
「……はい」
「で、どうすれば止められるんですか」
ガレットが少し目を細めた。
「……若様」
「俺が封印を維持する必要は、今はもうないですよね。区画は目覚めてしまっている」
「はい。その通りでございます」
「父がやっていたのは「眠らせたまま維持する」方法でした。区画が起きた今、同じやり方は意味がない」
「……御意でございます」
「ということは、次の手を考えないといけない。先生の解読を待ちながら、俺は何を準備すればいいですか」
ガレットが、今度はしっかり顔を上げた。
「……若様がそのようにおっしゃるなら、まず私が知っていることをお伝えします。お父上の台帳に、区画の自動防衛術式について断片的な記録があります。どこまで読めるか分かりませんが——先生に渡せば、刻文の解読と合わせて参照できるかと」
「それは今すぐ出せますか」
「はい。既に用意しております」
(既に用意している)
(ガレットは、この話をするつもりで来た)
(台帳も、持ってきていた)
「……ガレット」
「はい」
「報告が遅れたこと——気にしなくていいです」
ガレットが、わずかに止まった。
「……若様」
「あの時点で言われても、俺には扱えなかった。今だから聞ける。そういうことも、あります」
「……恐れ入ります」
(親父が二十年かけて守ったもの)
(ガレットが一年間迷い続けたもの)
(それが今、俺の手元に来た)
(……面倒くさ)
「台帳、持ってきてください。先生に渡します」
「承知いたしました」
「マリスに戻ってもらって、今夜の報告を整理します」
「はい」
ガレットが礼をして、扉に向かった。
扉が閉まる直前に、ガレットが少しだけ立ち止まった。
「……先代領主は、最後まで若様を心配しておられました」
俺は何も言わなかった。
扉が閉まった。
静かになった。
窓の外が、少し暗くなってきた。夕方だ。
スキルを向けた。
土壌の魔素濃度が、また少し上がっている。全域で、方向は地下から地上へ——続いている。
(親父がスキルを向けていたのと、同じ土地だ)
遠くから、マリスの足音が聞こえてきた。
廊下が近づいてきた。
(まあ)
(なんとかなるか)




