数字が変わった
「領主様! 今すぐ報告を——って誰もいない! ガレット様、領主様はどこですか!」
声が聞こえた。
水路の向こうから、かなり大きな声が。
俺は幹線三本目の残り三箇所のうちの最初の詰まりをスキルで確認しながら、その声の方向を見た。
ガレットが少し苦笑いをした。珍しい表情だった。
「副官のマリス・ローエンが参ったようです」
「ああ」
(副官。たしか騎士団長の娘さんとか言ってたやつか)
「今日から合流するはずでしたが、朝一番に館へ行ったようですね」
「そう」
俺は水路に向き直った。今日の最優先は残り三箇所の幹線と、支線の中で詰まりの密度が高い区画だ。副官が来ようと作業の手順は変わらない。
「若様、あちらを待たなくて——」
「ゴードンさん、ここから掘り出してもらえますか。幅が広い詰まりなので、二人で」
「わかりやした」
農民たちが動いた。
「領主様!!」
すごく近くなった。
振り返ると、水路沿いの道を走ってくる人影があった。二十代前半、明るい茶色の髪を後ろでまとめた女性が、こちらへ向かって全力で走ってくる。副官の制服が揺れている。
(あ、来た)
マリスが俺の三メートル手前で止まった。ものすごく息が上がっている。
「領主様、マリス・ローエン、ただいま着任いたしました! 遅くなって申し訳——」
そこで彼女の視線が止まった。
俺を見て。俺の服を見て。水路を見て。農民たちを見て。
「……え?」
「ああ、副官か。ありがとうございます」
「えっと……領主様、今なにを」
「水路の詰まりを取ってます」
「……はい?」
(反応が素直だな)
「三本目の幹線の、残り三箇所目までやってます。あとは優先支線を八箇所ほど」
「……水路の、詰まりを」
「はい」
「領主様が」
「正確には農民の方に掘ってもらってます。俺はスキルで場所を案内してます」
マリスが口を開いたまま、ガレットを見た。ガレットが静かにうなずいた。
「着任初日から続けておられます」
「……着任初日から?」
「はい」
マリスが俺を見た。また俺を見た。
「領主様、先ほど馬車でここまでの道を通ってきたんですが——水路に水が流れてました。先週は流れてなかったはずで」
「幹線二本が通ったので」
「……え?」
「先週からの作業で幹線二本目と、今日の分で三本目も通りますね」
「え……ちょっと待ってください」
マリスが手で「少し待って」の動作をした。
「先週——私が赴任前の最終確認に来た時には、この辺の水路は全部止まってたはずです。五年間一度も流れてない、って」
「そうですね。詰まりを取ったので流れてます」
「……それだけで?」
「はい」
マリスの目が大きくなった。
「え……え? 解決したんですか? それだけで??」
「詰まりが原因でしたから」
「でも五年間——」
「誰もやらなかったので詰まってた、ということです」
沈黙があった。
マリスがガレットを見た。ガレットが静かに視線を水路に向けた。
「……御意の通りでございます」
午前中に幹線三本目の残り三箇所を片付けた。
最後の詰まりが崩れたとき、水が勢いよく流れ込んだ。昨日より量が多かった。農民のひとりが「来たー!」と叫んだ。
ヨムが俺の隣でスキルを確認するように顔を向けてくる。
「数値は?」
「今は28%のままです。夕方から明日にかけて上がると思います」
「そうか……」
マリスが水路の隣に立って、流れていく水を見ていた。
静かだった。さっきまでのあのテンポが嘘みたいに、ただ水を見ている。
(……リアクションが多い人だと思ってたが、こういう顔もするのか)
「マリスさん」
「はっ、はい!」
「昼まで休憩しましょう。午後から支線に入ります」
「わかりました!」
昼食を食べながら、マリスが俺の隣に座った。
「領主様、少し聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「今の魔素って、どのくらいなんですか。この領地、来た時に数値を確認したんですが——」
「着任時は12%でした」
「……12%。じゃあ今は」
「28%です」
またマリスが固まった。
「……28?」
「はい」
「着任から何日目ですか」
「四日目になります」
マリスが何かを計算しようとして、また止まった。
「……12%が28%に。四日で」
「そうなりますね」
「作物の最低ラインって——」
「30%です。もう少しです」
マリスが弁当の包みを持ったまま、動かなかった。
「……え? 本当に?」
「はい」
「いや待ってください」
マリスが身を乗り出してきた。
「五年間、土壌魔素がずっと10%台だったのを、四日で28%にした、ということですか」
「詰まりを取っただけですが」
「……詰まりを取っただけって言いますけど」
「言いますけど?」
「……いえ、なんでもないです」
マリスが息を吐いた。
「ガレット様、これ、おかしくないですか」
「……おかしい、とは」
「普通の水路修繕じゃ、こんな速度で数値は動かないはずで」
「若様のスキルで詰まりの位置を正確に把握できた分、無駄な作業がなかったのかと」
「……スキルで」
マリスがまた俺を見た。
「領主様、スキルって——土地感知ですよね。詰まりの場所が全部分かるんですか」
「大体は」
「大体、ってどのくらい」
「今日の午前の三箇所、全部ぴったりでした」
「……え、全部?」
「はい」
マリスが天を仰いだ。
(…………なんでそっちに向くんだろう)
午後、支線の作業に入った。
幹線と違って支線は細く、詰まりの規模も小さい。ただ数が多い。スキルで確認すると、優先して開通すべき八箇所が明確に見えた。
「ゴードンさん、今日の午後は西の分岐から順に八箇所やっていきます」
「了解です。今日中に終わりますか」
「たぶん五箇所は今日、残りは明日です」
「わかりやした」
マリスが農民たちと一緒に作業に加わっていた。副官の制服をたくし上げて、スコップを持っている。
(……働くんだな)
「マリスさん」
「はい!」
「無理しなくていいですよ。報告業務の方が——」
「大丈夫です! 体は動かせます!」
(そういう問題ではなかった気もするが、まあいいか)
午後の途中、ヨムが俺に小声で言ってきた。
「若様、住民の人たちが見てますよ」
水路から少し離れた場所に、四、五人が立っている。農民でも、作業員でもない人たちが、こちらを見ていた。
子どもが一人、高齢の女性が二人、あとは中年の男と女。
「……誰ですか」
「領都の方だと思います。水路の話を聞いて来たのかも」
俺は農民たちに声をかけた。
「続けていてください」
水路から離れて、見ている人たちの方へ歩いた。
近づいていくと、その人たちが少し緊張したのが分かった。子どもが母親の後ろに隠れた。
(あ、怖がられてる。まあ領主がいきなり来たら当然か)
「水路を見に来ましたか」
中年の男が、頭を下げた。
「はい……水が流れてると聞いて。自分の目で見たくて来ました」
「見ていってください。邪魔になる場所に入らなければ」
「……ありがとうございます」
高齢の女性の一人が、水路の方を見ながら何かを言いかけて、止めた。
俺は作業に戻った。
(…………なんだろう、あの顔。前世でも見たことがある感じがするが、なんだっけ)
日が傾く前に五箇所を解消した。
帰り際、ゴードンが俺に並んだ。
「若様、今日の数値は」
「さっき確認したら29%でした」
「……あと1%か」
「明日の作業分が効けば届くと思います」
ゴードンが少し間を置いた。
「若様、さっきの人たち——」
「あ、住民の方たちですね」
「ええ。あの中に、タルコという爺さんがいたんですが」
「知ってますか」
「ええ。五年前に家族を連れて逃げた人です。奥さんを先月亡くして、一人で戻ってきたらしくて——でも畑が死んでるから働けなくて、食いつなぎが大変だと」
俺は水路の方を振り返った。
さっきの人たちはもういない。
「……そうですか」
「ええ。あの人、水路に水が流れてるのを見て、黙って立ってました」
(あの表情か。前世で——いつだっけ)
——あれは、残業が続いたプロジェクトでやっと進捗が出た夜だった。チームの新人が黙って資料を見てた。あの顔に、似てる。
「今日は以上です。明日も同じ時間に」
「はい」
館に戻ると、マリスが書類を抱えて待っていた。
「領主様、ご報告が二点あります」
「どうぞ」
「まず一点目。本日の作業で幹線三本目まで通水確認が取れました。残りは優先支線の三箇所です」
「はい」
「二点目。本日の夕方に領都の広場で水路の水流を確認した住民が——」
そこでマリスが少し口ごもった。
「……どうしましたか」
「数人、水路の横で泣いてたって報告が来まして」
俺はマリスを見た。
「泣いてた」
「はい。水が流れてるのを見て」
(…………そうか)
俺は窓の方を見た。水路のある方向は、もう暗くなっている。遠くで誰かが泣いている世界が、今ここにある。
「分かりました」
「あの……領主様」
「なんですか」
「これ、すごいことですよね。五年間誰もできなかったことを——」
「まあ、詰まりを取っただけなので」
「その『詰まりを取っただけ』が、五年間できなかったんです」
(それはそうだが、言っても仕方ない)
「明日の作業の段取りをお願いできますか。支線の残り三箇所の場所はガレットに伝えてあります」
「……はい、わかりました」
マリスが何か言いたそうな顔をしていたが、礼をして下がった。
夕食を済ませて、スキルを確認した。
土壌魔素——29%。
(まだ29か。でもあと1%だ)
今日の支線開通分がまだ加算されていないだけかもしれない。水が流れ始めてから数値が動くまで、ある程度の時間差がある。昨日もそうだった。
もう少し待ってみた。
数値を意識の端に置いたまま、窓の外を見た。暗い空の下、水路の方向から水が流れる音がしている。三日前に初めて聞こえた音が、今は当たり前になっている。
(……人間の適応力っておかしいな)
スキルに意識を戻した。
——30%。
(……あ)
静かに、数値が変わっていた。
(届いた)
作物成長の最低ライン。三日前は12%だった。それが今、30%に届いている。幹線三本と支線の一部が通じた結果がここに出ている。
大したことをした実感は、特にない。詰まりを取っただけだから。
でも数値は動いた。
窓の外から水の音がしていた。三日前には細かった音が、今夜は低く太い。
(……まあ、これでようやく土台はできた)
次は支線の残り三箇所。その後は、もう少し細かい支線の追加確認。
やることはまだある。面倒くさい。
でも一応、動いている。
スキルをもう少し先に延ばした。
水路の流れが幹線から支線に広がって、畑の土の下まで届いているのが分かる。全部通じた今、流れはさっきより太い。
そこで、また感じた。
水路の底より少し深い場所。あの黒ずんだ何か。
幹線と支線が全部通じたことで、引きが昨日より強くなっている。魔素の流れがそちら方向にわずかに傾いている感覚。数値には出ないが、確実にある。
(……また吸ってる)
詳しく確認しようとしたが、スキルがそこまで届かなかった。遠いか、深いか。
(まあ、今夜はここまでか。面倒くさ)
窓の外で水の音がしている。
翌日の朝、マリスが俺に報告した顔で来た。
「領主様、昨夜の数値を確認されましたか」
「30%でした」
マリスが固まった。
「……30%、ですか」
「はい」
「最低ラインに——」
「届きました。まだ余裕があるわけではないですが」
マリスが書類を持ったまま、何も言わなかった。
ガレットが静かに言った。
「……着任から四日でございます」
「……」
マリスの目がわずかに赤くなった。が、深呼吸して、表情を戻した。
「分かりました。では本日は支線の残り三箇所から——」
「はい、そのつもりです」
「領主様」
「なんですか」
「……なにも、ないです。参りましょう」
(なんかあったはずだが、まあいいか)
支線の残り三箇所を午前中に片付けた。
最後の詰まりが崩れたとき、ヨムが「これで全部ですか」と聞いてきた。
「幹線と優先支線は全部です。細かい支線はまだありますが、今すぐ全部やらなくていい。まず流れを確認して、詰まりのひどいところから順に」
「分かりました」
ゴードンが水路の流れを見ていた。
「若様——芽の方は、今どうなってますか」
「スキルで見ると、西の畑の端に出てた分が少し根を張り始めてます。ただ作物の成長には水と魔素だけじゃなくて土の状態も関係するので、すぐ収穫できるわけじゃないですが」
「分かってます。ただ、方向が変わったのが分かれば——」
「方向は変わってます。今まで枯れる一方でしたが」
ゴードンが静かにうなずいた。
(あの表情、なんか読めないな。嬉しいのか、まだ信じられないのか)
昼過ぎに水路沿いを歩いていると、領都の方から数人が来ていた。
昨日と同じような人たちだったが、今日は少し多い。子どもも何人かいる。
水路に近づいて、流れる水を見ている。声を出す人もいれば、黙って立っている人もいる。
老人が一人、水路の縁にしゃがんで、水に手を入れていた。
動かない。ただそこにいる。手の甲が少し震えているのが、この距離でも見えた。水が指の間を通り抜けていくのを、ただじっと見ている。
(……ああ、そうか。昨日ゴードンが話していた——奥さんを亡くして一人で戻ってきた人かもしれない)
俺は近づかなかった。
マリスが俺の隣に並んだ。
「領主様」
「なんですか」
「……あの人たち、なんで泣いてるんですか」
水路の縁で、老人の肩が震えていた。
「分かりませんが——まあ、長かったんじゃないですか。五年間」
「五年間、水が流れなかったのが——」
「詰まりがあったので」
「……領主様は、それだけですか」
「他に何かありますか」
マリスが少し黙った。
「ないですけど」
ヨムが俺の後ろからそっと言った。
「若様——あの方、昨日も来てました。一人でずっと水路を見てて——今日は少し来やすくなったのかもしれない」
「そうですか」
「ええ。水が流れてるって分かってから、昨日より今日の方が人が来てます。明日はもっと来ると思います」
(…………なるほど。口コミで広がってるのか)
(前世のプロジェクトと同じだ。最初の成果が出ると、見ていた人たちが動き始める)
その日の夕方、館に戻ると門の前に知らない男が立っていた。
四十代前後、農民の格好。笠を持って、俯いている。
ガレットが先に気づいて声をかけた。
「どちらの方ですか」
男がゆっくりと頭を上げた。
「あの——隣の村から参りました。ダルサ村の者です」
「はい」
「ここの水路が——直ったという話を聞いて。歩いて来ました」
ガレットが俺を振り返った。
俺は男を見た。
「うちの水路の話ですか」
「はい。その——うちの村も、五年前から土が死んでまして。お話を聞かせてもらえないかと思って——」
(隣の村か)
(……面倒くさいな)
「今日は遅いので、明日の朝来ていただけますか。話を聞きます」
「あの……本当に、よろしいんですか」
「はい。ただ何かできるかどうかは、話を聞いてから」
「……ありがとうございます」
男が深く頭を下げた。
(……また増えそうな予感がする)
マリスが俺の後ろで小声で言った。
「領主様、これって——」
「明日聞いてみます。話してみないと分からないので」
「……はい」
門の前で頭を下げたままの男の姿を見ながら、俺はスキルを流した。
土壌魔素——30%。
変わらずそこにある。
(まあ、なんとかなるか)
空はもうほとんど暗くなっていた。水路の音が遠くから聞こえた。




