目覚めた
三日後、ヴァンダール領の空気が変わった。
変わったというより、戻り始めた、という方が正確かもしれない。スキルで確認するたびに土壌の魔素濃度が少しずつ上向いている。まだ大きな数字ではない。ただ、向きは変わっていない。地下から地上へ、続いている。
朝食を終えた後、俺は執務室の椅子に座って茶を飲んでいた。
書類は昨日の分まで片付けてある。
テルミス大国の使者ランデルは帰った。本国に戻って方針を確認してから改めて連絡すると言った。ドランク王は三日前にシュタールへ帰った。
(……ようやく終わった)
そう思うのは、これで何度目だろう。核の間に入った日も思った。方向が変わった瞬間も思った。ランデルが「急がないで話しましょう」に同意した時も思った。
(まあ、今日くらいは平和でいい)
庭の方で鳥の声がした。珍しい。以前はあまり聞かなかった。
「若様」
ガレットが扉を叩いた。
「はい」
「来月の内政局視察の件でございます。今年は例年より人数が多い見込みとのことで」
「ガレットに任せます」
「……若様にもご確認いただく部分がございますので、書類にまとめてお持ちします」
「お願いします」
(ガレットはまとめてから持ってくる)
(それがガレットだ)
茶を飲み終えて、もう一杯頼もうかと思って立ち上がりかけた時、廊下の方から足音が来た。速い足音だ。もう少し軽い。先生の足音ではないか。
扉が開いた。
イルデ先生が、帳面を三冊抱えたまま立っていた。珍しく一冊が斜めになっていた。いつも几帳面に揃えているので、それだけで何かあったと分かった。
「ライルさん」
「はい」
「——少し、よろしいですか」
「どうぞ」
「刻文の解読が、少し進みました」
「前々室の柱の」
「はい。持ち帰って昨夜——」
先生が帳面を開いたまま止まった。
「ライルさん、今日、遺跡の方へ確認に行けますか」
「何かありましたか」
「あったかどうか、まだ分かりません。ただ——行った方がいいと思います」
(先生が「行った方がいい」と言った)
(先生は普通、「行けますか」と聞いてくる。言い方が違う)
「分かりました。急ぎますか」
「急ぎます」
「ガレット」
「はい、お呼びですか」
「準備してください。遺跡へ行きます」
「承知いたしました」
遺跡の入口に着いたのは、それから一刻ほど後だった。
先生は道中ほとんど話さなかった。帳面を手に持ったまま字を目で追っていた。馬で移動しながら帳面を読んでいる。
(先生は、よく落馬しない)
入口の前に立った。
スキルを向けた。
(何か、変わっている)
「先生、スキルで何か感じます。三日前と感触が違います」
「どう違いますか」
「還流が始まってから、核からは「逆方向の感触」が来ていました。それは続いています。ただ——それとは別の場所から、引きのような感触がします。もう少し横の方向です」
「……やはり」
「何か分かりますか」
「刻文です」
先生が帳面を開いて俺に見せた。解読の注釈が細かく並んでいる。
「核の間の横に——別の用途を持つ区画がある、という記述があります。核の間に入った時、右の壁が妙に厚いと感じましたが」
「ありましたね」
「あの向こうに、別の空間がある可能性があります。そして——刻文に「核の動きに連動する」という記述もあります」
(核の動きに連動する)
(核は今、七百年ぶりに方向を変えた)
(それで、何かが起きているということか)
「中を見ます。行きます」
通路の中に入った。
今日は——音がする。微かだ。自分の足音でほとんど聞こえない。ただ、確実にある。低い音ではなく、どちらかといえば高い。壁から来ているような、かすかなざわめき。
「……何か聞こえませんか」
マリスが小声で言った。
「聞こえます」
「三日前はこんな音しませんでしたよね」
「しませんでした」
中間区画に入った。
光っていた。
壁の一部が、青白く光っている。天井の文様に沿って細く走っている。見ていなければ気づかないくらい弱い。ただ、確実にある。
スキルを向けた。
核からの感触は続いている。そして——
「右の壁の向こうから、感触があります。三日前とは比べものにならないくらい強くなっています」
「どういう感触ですか」
「引きではありません。押してくる感じというか……こちらを感知しているような」
先生が帳面を開いて、また閉じた。
顔が、普段より白い気がした。
「先生、蒼ざめていますか」
「……少し」
「何が分かりましたか」
「刻文の残りです。「核の方向が変わる時、眠っていた別の区画が目を覚ます。その区画は——外からの侵入に反応する」という記述があります」
「侵入というのは」
「おそらく、人間を含む生物全般です。区画を守るための仕組みが、別に設計されていた可能性があります」
(防衛の仕組み)
(七百年前の設計者が作った)
その時、振動が来た。
床からではなく、右の壁から。微かに震えた。音も変わった。ざわめきではなく、何か動いているような音が混じった。
「若様!」
ガレットが横に立った。
「落ち着いて」
「おります」
「マリス」
「は、はい!!」
「静かに」
「……はい」
マリスが口を閉じた。手が剣の柄に行きかけて、止まった。
俺は先生を見た。
「今の段階で何ができますか」
「壁の構造を確認します。術式盤の場所が分かれば、入ることはできると思います」
「確認してください」
先生が右の壁に近づいた。壁の表面を順番に見ていく。
振動は続いている。音も続いている。ただ、さっきより大きくはなっていない。
ガレットが小声で言った。
「若様、振動と音は地上にも伝わる可能性があります。領民が不安を感じるかもしれません」
「その対応はガレットに任せます。地上に上がったら動いてください」
「承知いたしました」
マリスが俺を見た。
「ライルさん……これ、また何か始まったということですか」
「そうなります」
「え——やっと終わったと思ってたんですけど」
「そうですね」
「そうですねじゃないですよ!!」
「静かに」
「……すみません」
先生が壁から離れた。
「ライルさん、灯りを上に向けてください」
灯りを天井に向けた。
あった。
天井の文様が、一点に向かって集まっている。前室で見た文様と同じだ。ただ——収束点が、青白く光っている。弱く、かすかに。
「「目覚めた」ということか」
俺は言った。
「……そうなります」と先生が言った。「七百年間眠っていた別の区画が——核の方向が変わったことで、起きた」
「今すぐ入った方がいいですか、一度出た方がいいですか」
「……今日のところは、出た方がいいと思います。自動防衛術式の段階が分からない状態で入ることは、判断材料が足りません」
「分かりました。出ます」
地上に出た。
空は昼前で、明るかった。スキルを向けた。土壌の魔素濃度がまた少し上がっている。遺跡の右の壁の向こうからは、まだ感触が来ている。
「ガレット」
「はい」
「来月の視察準備と並行して、今日確認したことを記録してください。先生の解読が終わったら共有します」
「承知いたしました」
「マリス、入口の外で待ってください。今日は誰も中に入れないように」
「……誰か来るんですか」
「来るかもしれません。来ない方が珍しい」
マリスが少し口を開けて、閉じた。
「……ですよね」
「はい」
「やっと終わったと思ったんですけど」
「終わっていません」
「そうですよね!!」
「静かに」
「……はい」
先生が帳面を抱えたまま俺を見た。
「ライルさん、一つだけ」
「はい」
「刻文に——「別の区画の術式は、核の術式と対になって設計されている」という記述があります」
「対に」
「核は魔素を扱う装置でした。この別の区画は——扱う対象が、核とは違う可能性があります」
「何を扱うんですか」
「……まだ分かりません。解読が進んだら報告します」
「急ぎすぎないでください」
「急ぎます」
(まあ、先生は急ぐだろう)
(帳面を閉じる気もないだろう)
「先生、帰りは文字を読まないでください。落ちます」
「……は、はい」
先生が帳面を閉じた。惜しそうに。
(面倒くさいことが、また始まった)
俺は屋敷に帰ったら茶を頼もうと思いながら、馬を進めた。
スキルを向けると、遺跡の右の壁の向こうから感触がまだ続いている。感知している。こちらを、確かに。
(まあ)
(なんとかなるか)




