ヴァンダール、光る
地上に出た時、外はまだ昼前だった。
通路の出口から空を見上げた。雲が薄く、遠くに山の稜線が見えた。
(終わった)
(地下にいる間に、全部終わった)
「空気が違いますね」
マリスが出口の横に立ちながら言った。腕をさすっている。石を押した疲労がまだ残っているのか、それとも地下と地上の気温差に気づいたのか。
「違いますか」
「なんかさっきまでより、空気が柔らかい気がします」
「気のせいだと思います」
「……そうですか」
(気のせいではないかもしれない)
(スキルを向けてみた)
(魔素の感触が、確かに違う)
スキルを向けたまま、足元の土を確認した。
数値が変わっていた。
地下から地上へ、という流れが始まっている。まだ微かだ。七百年かけて枯れ果てた土壌が一日で回復するほど単純な話ではない。だが、方向は変わった。
(変わっている)
(これが続けば、土壌が回復し始める)
「ライルさん」
先生が帳面を抱えたまま俺を見た。
「どうですか、スキルで」
「変わっています」
「地表の魔素濃度が」
「まだ数値としては小さいですが、流れが逆になっています。地下から上に向かっています」
先生が少し口を開けて、閉じた。
(先生が何か言いかけた)
「……そうですか」
「はい」
「それは——」
先生がまた止まった。
「先生?」
「いえ——」
先生が空を見た。
「実感がなかなか追いつきません」
(先生は七百年分の話をしている)
(マルフ王国の設計者が作った核が七百年、この土地から魔素を吸い続けた)
(それが今日、変わった)
(感慨深い、と言った先生の気持ちは、まあ、そうだろうと思う)
「追いつかなくていいです」
俺は言った。
「結果が出たので、それでいいです」
「……ライルさんは、あっさりしていますね」
「そう?」
「七百年分の問題を、今日変えたんですよ」
「まあ」
(まあ、そうだが)
(面倒くさいことが片付いた、というのが正直なところだ)
「若様」
ガレットが声をかけてきた。
「はい」
「ランデル殿の従者が屋敷で待機中でございます。ランデル殿ご本人は——核の間からお戻りになった後、一度門の外に出られました。先ほど戻ってきたとの報告が」
(戻ってきたか)
(核の間で「確認が必要」と言って出ていったが——本当に確認しに行っていたのか、あるいは態勢を整えに行っていたのか)
(どちらでもいい。話を聞けばいい)
「場所は」
「屋敷の応接室をご用意しております」
「分かりました。先に顔を洗います。十分後に行きます」
「承知いたしました」
ドランク王が「私はどうする」と静かに言った。
「陛下は——同席いただけますか」
「構わないが」
「ランデル殿もシュタール国の王様がいると話しやすいかどうかは分かりませんが」
「話しにくかった方が——ヴァンダール領には都合がいいだろう」
(まあ、そうだ)
(ドランク王の存在が「話しにくい要素」になるなら、それは交渉の余地だ)
「ありがとうございます。では同席してください」
「来たからには、だ」
ドランク王がそれだけ言った。
マリスが「私は」と手を上げた。
「マリスは——腕は大丈夫ですか」
「大丈夫ですけど、少しだるいです」
「休んでいてください」
「え!! でも」
「あとはただの話し合いです。石を押す場面はありません」
「……それはそうですね」
「お疲れさまです」
「あ、はい、お疲れさまでした!!」
(マリスが大声を出す元気があるなら大丈夫だろう)
顔を洗ってから、応接室に向かった。
扉を開けると、ランデルが椅子に座って待っていた。従者が二人、後ろに立っている。
ランデルは俺を見て、立ち上がった。後ろにドランク王が入ってきた。ドランク王を見て、わずかに表情が変わった。
「ヴァンダール卿」
「お待たせしました」
「……いえ」
(いえ、と言った)
(核の間で「中断しろ」と言っていた人が「いえ」と言っている)
(状況が変わった、ということだ)
全員が座った。ガレットが茶を運んできた。
ランデルが一度茶に目をやって、俺を見た。
「先ほどの作業の件——改めて確認させてください」
「どうぞ」
「遺跡の術式が——性質を変えた、ということでよろしいですか」
「はい」
「魔素吸収から、魔素還流へ」
「そうなります」
ランデルがしばらく黙った。
「……テルミスが共同管理権を求めていたのは、稼働中の「吸収陣」でした」
「はい」
「その前提が変わったということですね」
「そうなります」
(分かっている人だ)
(言い訳をしない。状況を整理している)
「これは——ヴァンダール卿が意図して行ったことですか」
俺は少し考えた。
「土壌が回復するのが目的でした。テルミスの要求の前提を変えることは——結果として、そうなりました」
「意図していた、ということですね」
「同時に考えていた、とは言えます」
ランデルが短く息を出した。
「……交渉が必要だな、とそちらも感じているでしょう」
「感じています」
「テルミスとしても、状況を本国に持ち帰り、方針を確認する必要があります」
「承知しました」
「ただ——」
ランデルが少し前に身を乗り出した。
「還流に転換したということは、この遺跡は今後も稼働し続ける、ということですね」
「そうなります」
「稼働している遺跡、という事実は変わらない」
「はい」
「ならば——学術的価値・管理の問題は、形を変えて残ります」
(そこを言ってきた)
(「吸収陣」でなくなっても「稼働中の古代遺跡」は残る)
(それを言いたかったのか)
「それはそうなりますね」
俺は言った。
「ただ、話し合いの前提が変わった分だけ——急ぐ必要は、なくなったかと思います。吸収陣であれば今すぐ対処が必要でした。還流になった今は、話し合いを続ける時間があります」
「……そうですね」
「急がないで話しましょう」
「……承知しました」
(急がなくていい、に同意した)
(大国の使者が「急がない」と言った)
(それだけでいい。今日はここまでで十分だ)
「本国に状況を報告し、改めて連絡させていただきます」
「お待ちしています」
「一点だけ」
ランデルが立ち上がる前に言った。
「核の間で「後で聞きます」を三回繰り返したのは——作業を優先する意図でしたか、それとも単に」
「作業中だったので、後で聞こうと思っていました」
「……それだけですか」
「それだけです。本当に後で聞くつもりでした」
ランデルが少し止まって、小さく頷いた。
「……なるほど」
(なるほど、か)
(まあ、本当にそれだけだ。焦らすつもりも、圧をかけるつもりも特になかった)
(ただ、作業中だったので後で聞こうと思っていた)
ランデルが従者を連れて出ていった。
扉が閉まった。
静寂が戻った。
ドランク王が茶を口にした。
「……うまい」
「ありがとうございます」
「ランデルは——思ったより話が早い男だった」
「そうですね」
「大国の使者でも、状況が変わったと分かれば引く。引ける人間だった」
「それは助かりました」
(引ける人間だった)
(そうでなかった場合を考えると、少し面倒だった)
「ライルさん」
先生が帳面を膝に置いたまま言った。
「はい」
「今、スキルで地表の状況はどうですか」
「確認します」
スキルを向けた。
土壌の魔素濃度が、少し上がっている。地下から流れてくる感触が、弱いながらも続いている。
「上がっています。少しですが」
「続いていますか、還流が」
「続いています」
先生がまた帳面を開いた。何かを書いた。
「……今後どれくらいかかると思いますか、土壌の回復に」
「分かりません。七百年分ですし」
「そうですね」
「ただ——向きは変わった。あとは時間だけだと思います」
「……そうですね」
先生が帳面を閉じた。
「一つ聞いていいですか、先生」
「はい」
「先生は——満足しましたか」
先生が少し考えた。
「……研究者として、やるべきことはやりました」
「そうですか」
「核を実見し、術式を分析し、解法を見つけ——実際に変えることができた」
「はい」
「満足かどうか、というより——」
先生が窓の外を見た。
「まだ続きがある、という感覚です」
(まだ続きがある、か)
(先生は次を見ている)
「何か気になることがありますか」
「——魔素が還流し始めたことで、何が起きるか、まだ分からないことがいくつかあります」
「たとえば」
「七百年間、地下へ流れていた魔素が地上に戻る。それがヴァンダール領の土壌に与える影響は——段階を追って確認が必要です」
「それはそうですね」
「あと」
先生が帳面を少し開いた。
「核の間には、私たちが入った前々室の柱に——刻文がありました。あの解読が、まだできていません」
「……覚えていましたか」
「写してあります」
(先生は写していた)
(あの暗がりの中で、帳面に写していた)
(先生は見落とさない)
「刻文が何だったか、分かりますか」
「分かりません。まだ解読の途中です」
「解読できたら教えてください」
「はい。ただ、もし内容が重要であれば」
先生が俺を見た。
「また面倒なことが、出てくるかもしれません」
(面倒なことが出てくるかもしれない)
(先生が「面倒なこと」と言った)
(まあ、先生の「面倒なこと」は俺の「面倒くさいこと」より大規模な可能性がある)
「……そうですね」
俺は言った。
「その時はまた考えます。今は——今日終わったことで十分です」
「そうですね」
「先生も休んでください。昨夜から今日まで働きどおしです」
「……はい。そうします」
先生が立ち上がって、丁寧に頭を下げた。
「ライルさん、ありがとうございました」
「俺は指さしただけです」
「指さしていただかないと始まりませんでした」
「……まあ、それはそうか」
(それはそうだ)
(スキルがなければ収束点の位置を正確に感知できなかった)
(まあ、俺がやれることをやった、それだけだ)
先生が出ていった。
ドランク王が最後の茶を飲み干して立ち上がった。
「私も——今日中にシュタールへ戻る。書状を送る」
「お気をつけて。本当にありがとうございました。ドランク陛下の資料がなければ「変え方」に気づけませんでした」
「書庫に資料があっただけだ。十二年かけて集めた」
「それがあったことが、重要でした」
ドランク王が少し口を横に曲げた。
「次——何か出てきたら、また知らせろ」
「出てくる予定はありませんが」
「予定はなくても、出てくるだろう。お前の領地は」
(王様が正確なことを言った)
(予定はないが、今日を振り返ると確かにそうだ)
「……分かりました。何かあれば」
「うむ」
ドランク王が出ていった。
部屋に俺とガレットだけが残った。
ガレットが茶器を片付けている。
「ガレット」
「はい」
「今日の報告書はいつ出せますか」
「明日の朝には整えます。若様のご確認をいただいてから、王国内政局への定例報告に組み込む形で」
「遺跡の件は——どこまで書きますか」
「「術式の方向が変わり、土壌への魔素還流が開始した」という事実まで、かと存じます。核の詳細な構造については、王国内政局の判断を仰ぐ前に詳細を書きすぎると、また別の介入を招く可能性がございます」
(ガレットが先を読んでいる)
(事実は書く。だが詳細は絞る)
「それでいいです」
「承知いたしました」
ガレットが茶器を盆に乗せた。そのまま出ていくかと思ったが、扉の前で止まった。
「若様」
「はい」
「先ほど、スキルで地表の状況を確認されていましたね」
「はい」
「領地の様子は、どうでございましたか」
俺は少し考えた。
(どうだったか)
(魔素が上がり始めている。土壌が回復し始める。それだけだ)
「まだ少しです」
「はい」
「ただ——向きが変わっているので。あとは時間だと思います」
「……そうでございますか」
ガレットが少し頷いて、出ていった。
一人になった。
窓の外を見た。空が少し傾き始めている。
スキルを向けた。
ヴァンダール領全体の土壌の魔素濃度が、地域によって差はあるが、全体的に上向き始めている。まだ数値としては小さい。ただ、方向は全域で同じだ。地下から地上へ。
(全域で変わっている)
(核一つで——領地全体の方向が変わる)
(七百年前の設計者は、それだけの規模のものを作った)
スキルを向けたまま、窓の外を見た。
特に何も見えない。空と山と、遠くに畑。
(光る感じはしないな)
(ドラマチックには光った方が見栄えがいいのかもしれないが)
外から声が聞こえた。マリスが誰かと話している声だ。
「——ライルさんのスキルで地表が変わるって、本当ですか!!」
「本当です。少しずつですが」
「じゃあこれから土壌が回復するってことですか!!」
「そうなります」
「それって、なんか光りそうじゃないですか!!」
「光るかどうかは分かりません」
「でも魔素が増えたら光ったりしないんですか!!」
「通常の魔素濃度では、光りません」
「じゃあ光らないんですか!!」
「……光りません」
(マリスが光ることを期待している)
(先生が丁寧に否定している)
(まあ、光らなくてもいい)
(土壌が回復すれば、それでいい)
椅子に座ったまま、目を閉じた。
スキルが領地全体の状態を拾っている。変化は小さいが、確実に続いている。地下から地上へ。
(面倒くさいことが、一個終わった)
(また面倒くさいことが来るかもしれない——先生が「刻文がまだある」と言っていたし、テルミスとの交渉も続く)
(まあ、その時はその時だ)
(なんとかなったか)
目を開けた。
窓の外、ヴァンダール領の空の端が——少しだけ、明るい気がした。
気のせいかもしれない。
スキルで数値を確認した。土壌の魔素濃度が——ほんのわずかだが、また上がっていた。
(気のせいではなかった)
まあ、それくらいでいい、と思った。
感動するほどでもないし、叫ぶほどでもない。
終わったから、終わった。
それだけだ。
ガレットが扉を叩いた。
「若様、夕食の準備が整いました」
「今行きます」
「はい」
(飯か)
(腹が減った)
立ち上がった。スキルを向けながら歩いた。
廊下を進むと、マリスがまだ外のそばにいた。
「ライルさん!! 光りましたか!!」
「光りません」
「え——」
「でも土壌が回復し始めています」
「……それはすごいことですよね」
「まあ、そうですね」
「光った方がドラマチックだと思うんですが」
「そうですね」
「光ってほしかったです」
「……次はなにか光るものを用意します」
「え、本当ですか!!」
「冗談です」
(マリスが「光ってほしかった」と言い続けている)
(まあ、俺も少しだけ、そう思わなくもない)
(でも、光らなくてもいい)
(変わったのは確かだから)
食堂に入った。先生がもう座っていた。茶を持ったまま帳面を見ている。
「先生、休んでください」
「……はい。夕食が終わったら」
「夕食の間も休んでください」
「帳面を見ているだけです」
「それが休んでいない状態です」
「……」
(先生は帳面から離れられない)
(まあ、それが先生だ)
(刻文の件は——いつか答えが出るだろう)
(その時、また考えればいい)
(今は——今日終わったことで、十分だ)
席に着いた。
ガレットが「いただきます、という前に一点」と言ってきた。
「何ですか」
「先ほど、内政局の定例文書の写しを確認しておりましたところ、来月、視察の予定が入っておりました」
「内政局の視察ですか」
「はい。例年のものですが、今年は少し人数が多い模様でございます」
(多い)
(まあ、テルミスの件が広まれば、そうなるかもしれない)
(面倒くさいな)
「……分かりました。準備はガレットに任せます」
「承知いたしました」
「飯にしましょう」
「はい」
(また面倒くさいことが来る)
(まあ、その時はその時だ)
(今日は今日のことで、十分働いた)
飯は、普通においしかった。




