間に合え
核の間に着いた時、既に汗をかいていた。
行きとほぼ同じ時間だったと思う。ただ今日は急いでいたので、体感が少し違った。
灯りを持ち上げた。
核が——そこにあった。
螺旋の線、石の表面、天井まで届くかどうかも分からない高さ——昨日と同じだ。変わっていない。七百年分、変わらずここにある。
(今日、変える)
「先生」
「はい」
先生が帳面を三冊持ったまま前に出た。昨夜の分析が全部ここに入っている。
「準備は」
「できています。収束点の位置は——核の中央から少し右、高さは腰から胸のあたりになります。まず確認させてください」
「分かりました」
スキルを向けた。
引き——強い。昨日と同じ、いや、近くに来た分だけ強く感じる。
(中心点、か)
(先生は「中央から少し右、腰から胸のあたり」と言った)
(では——ここか)
「先生」
「はい」
「中心点の感触はある。右、もう少し右——これくらいの位置です」
俺は手を上げた。核の表面を指した。
先生が帳面を開いて、俺の指の先と書いてある図を見比べた。
「……ほぼ合っています。もう少し上です。三本分くらい」
「ここですか」
「——はい」
(あった)
(分かる。これがスキルで感知している点と一致する)
「石はどこですか」
「ライルさんが今指しているところに、一枚、埋め込まれています。表面の螺旋の線が、そこに向かって収束しているはずです」
灯りを近づけた。
確かに——見えた。螺旋の線が、俺の指した一点に向かって集まっている。その中心に、少し色の違う石が一枚ある。両手を広げたくらいの大きさ。昨日の暗がりでは気がつかなかった。
「この石ですか」
「はい」
「動かすには」
「周囲の石との境目に——楔を入れて、全員で左方向に押します。この方向に」
先生が帳面の図を見せた。矢印が左を指している。
「どれくらい動かせばいいですか」
「おそらく——手のひら一枚分ほどです。ただ、動かしながらライルさんにスキルで確認していただく必要があります」
(手のひら一枚分)
(スキルで確認しながら、少しずつ)
「分かりました。やります」
俺はマリスを見た。
「マリス」
「はい!!」
「楔、持ちましたか」
「持ってます」
「先生の指示した位置に入れてください」
「分かりました」
マリスが核に近づいた。楔を構えて、石の境目を確認する。
ドランク王も無言で隣に立った。
(王様が石を動かす)
(まあ、来たからには、と言っていたし)
「楔、入れます」
マリスが静かに言った。珍しく声が落ちている。力を使う場面だと分かっているのか、集中しているのか。
「はい」
楔が境目に当たった。
コン、という音。石が少し緩んだ気配。
「……入りました」
「では」
先生が「押してください。ゆっくり、左に」と言った。
マリスが体重をかけた。ドランク王が横から支えるように手を添えた。先生が「もう少し、ゆっくり——」と声を出した。
石が——動いた。
ほんの少し。微かに。
だが確かに動いた。
スキルを向けた。
(変わった)
(引きの方向が——わずかに変わった)
「少し変わっています。このまま続けてください」
「どのくらい動かしましたか」
「指の幅一本分くらいです、たぶん」
「あと九本分です」
(九本分)
(面倒くさいけど、やるしかない)
その時——
足音が聞こえた。
通路の方から。
一人ではない。複数。
(……来たか)
ガレットが入口の方を向いた。
「若様」
「分かっています」
俺はスキルを核から外さずに言った。
「先生、続けてください」
「はい」
足音が近づいてきた。灯りの光が通路から差し込んできた。
人が現れた。
見たことのある顔だった。
(ランデル)
(テルミス大国の使者だ。この人が「共同管理権」を要求してきた)
ランデルという名の男は、四十代くらいで、背が高く、服装が整っていた。後ろに従者が二人ついている。
核の間に入ってきて——止まった。
核を見た。天井まで届くかどうかの構造物、螺旋の線、収束する一点に手を当てているマリスとドランク王——
止まったまま、俺を見た。
「……ヴァンダール卿」
「はい」
「お待ちしていたのですが」
「知っています」
(知っている、と言った)
(まあ、知っているのは本当だし)
「作業中に失礼しますが——」
「はい」
「テルミス国の方針について、至急お話ししたいことが」
「後で聞きます」
(後で聞きます)
(今は手が離せない。というか、俺は手を使ってもいないけど)
ランデルが少し止まった。
「……今しばらくお時間を頂けませんか」
「後で聞きます。今は作業中です」
マリスが石を押しながら「ライルさん、少し動きました」と言った。
「どれくらい」
「……もう二本分くらいです」
「スキルで見ます」
核に向き直した。
引きの方向——変わっている。少しずつだが、変わっている。
(いい方向だ)
(このまま続ければ——)
「ヴァンダール卿」
ランデルがもう一度言った。声のトーンが少し上がった。
「これ以上の作業は——中断していただきたい」
(中断)
「……後で聞きます」
俺は言った。
「今は作業中です。先生、続けてください」
「はい」
ランデルが「卿!」と声を張った。
マリスの手が一瞬止まった。
「マリス、続けてください」
「……は、はい」
ドランク王が静かに力を込めたまま、ランデルの方を見た。
(王様が横を見た)
(ランデルは——今、シュタール国の国王と目が合っている)
(まあ、それはランデルが勝手に気づくことだ)
「中断しろ、と言っています」
ランデルが今度は直接的に言った。
「……後で聞きます」
俺は答えた。
スキルを核に向けたまま。
(面倒くさいけど)
(今は先生の手順を追う方が先だ)
「先生、今どのくらいですか」
「あと——四本分ほどです」
「分かりました」
ランデルが後ろの従者に何か言った。従者が出ていく気配。
(援軍を呼びに行ったか)
(まあ、援軍が来ても核の間に入れる人数は限られている)
(それより今は——)
「マリス」
「はい」
「疲れましたか」
「……大丈夫です!!」
「静かに」
「す、すみません——大丈夫です」
ドランク王が「私も問題ない」と静かに言った。
(王様が「問題ない」と言った)
(本当に問題ないのか、見栄なのか、どちらかは分からない)
(どちらでもいい、やってもらうしかない)
「先生、方向は合ってますか」
「はい。このまま続ければ——もうしばらくです」
ランデルが「ヴァンダール卿、これ以上は」と言いかけた。
俺は振り向かずに言った。
「後で聞きます、と言っています」
「——これ以上作業を続けるなら、テルミスとしての正式な」
「後で聞きます」
(三回言った)
(三回言っても聞いてもらえない時は四回言う)
(それだけだ)
ガレットが「ランデル殿」と静かに言った。
「若様は現在、重要な作業の確認中でございます。今しばらく——」
「家令殿、これはヴァンダール領だけの問題では」
「承知しております。ただ、今しばらく——」
(ガレットが時間を稼いでくれている)
(ありがたい)
「マリス、スキルで確認します。少し止まってください」
「はい」
マリスが手を止めた。
スキルを核に向けた。
引きの方向が——
(変わっている)
(大きく変わっている)
(収束点が——今どこを向いているか)
「先生」
「はい」
「だいぶ変わってきています。あと——どれくらいですか」
先生が帳面の図と俺の指の先を見比べた。
「……あと二本分か、一本半かと思います」
「分かりました」
ランデルが「ヴァンダール卿!」とまた声を張った。
俺は少し間を置いてから振り向いた。
「ランデル殿」
「はい」
「もうちょっとだけ待ってください」
「……何を」
「作業が終わります。それから話を聞きます。今は聞けません」
「——今聞いてもらわないと困ります」
「困るのは分かります。ただ——後で聞きます」
(面倒くさいけど)
(もうちょっとだけだ)
ランデルが口を開こうとした。
ドランク王が振り向いた。
静かに、ゆっくりと。
「シュタール国国王・ドランク三世だ」と言った。声は低く、感情が乗っていない。
ランデルが——止まった。
(王様が名乗った)
(……効いた)
しばらく、沈黙があった。
ランデルが、何か言いかけて、止まった。従者が横で固まっている。
「先生、続けてください」
「はい」
マリスが静かに力を込めた。ドランク王が振り向いて、また手を添えた。
スキルを向けた。
(もうちょっと)
(もうちょっとだ)
石が動く感触。
微かだが、確かに。
「ライルさん」
先生の声。
「……どうですか」
スキルを向けた。
引きが——
(あ)
変わった。
方向が——変わった。
これまで「引き」として感じていたもの——地上から核へと向かっていたもの——その方向が、
逆に、なった。
(逆に)
(地下から、上に向かって——)
「先生」
声が出た。
「変わりました」
「……確かですか」
「確かです」
先生が帳面を持ったまま、少し目を閉じた。
そのまま、しばらく動かなかった。
「……先生?」
「——はい」
先生が目を開けた。
「……確認します」
先生が核の表面に近づいた。螺旋の線を見た。収束点を見た。帳面を開いて、書いてある図と見比べた。
(先生が時間をかけて確認している)
(ということは——そういうことだ)
「……方向、変わっています」
先生が静かに言った。
「術式の収束点が——別の方角を向いています」
「つまり」
「つまり——魔素の流れが、変わります」
ランデルが「何だ」と言った。声が少し変わっていた。
(何だ、か)
(まあ、説明はする。後でするつもりだったけど今でもいい)
「ランデル殿」
「……はい」
「今まで、この核が七百年間、ヴァンダール領の地表から魔素を吸い上げていました。それがこの領地の土壌が枯れていた原因です」
「……」
「今、その方向を変えました。これから魔素が地上へ還流します。土壌が回復します」
「……つまり」
「今から、この遺跡の状態が変わります。テルミス大国が「共同管理権」を欲しいと言っていた遺跡は——今から性質が変わります。何を管理したいのか、ご確認いただく必要があるかと思います」
ランデルが止まった。
(止まった)
(まあ、止まるだろう)
(「魔素を吸い上げる遺跡」と「魔素を還流させる遺跡」では——意味が違う)
「……確認が必要になりました」
ランデルが少し低い声で言った。
「分かりました。連絡します」
「承知しました」
ランデルが従者に何か言った。
足音。
来た時より早く、出ていった。
静寂が戻った。
(……いなくなった)
(後で聞きます、と三回言って、王様が名乗って、作業が終わったら向こうが帰った)
(なんかうまくいったな)
「ライルさん」
マリスが「腕が——」と言いながら俺を見た。
「お疲れさまです」
「いや! ライルさんずっと立ってただけじゃないですか!!」
「そうです」
「私たちが全力で石を動かしてる横で!!」
「はい」
「……まあ、スキルがないと意味がないんですけど……!!」
(まあ、そうだ)
(スキルで位置を感知して、確認して、指示した)
(それが俺の役割だ)
(面倒くさいけど、それが最小コストだった)
ドランク王が静かに言った。
「終わったか」
「はい」
「……茶が飲みたい」
(王様が茶が飲みたいと言った)
(まあ、俺も飲みたい)
「地上に出たら用意させます」
「それでいい」
先生がまだ核の表面を見ていた。
帳面を開いたまま、螺旋の線の収束点を見ていた。
「先生」
「……はい」
「どうですか」
「……感慨深いです」
(感慨深い、か)
(先生が感慨深いという言葉を使った)
「何かありましたか」
「いえ——」
先生が振り向いた。
「七百年間、ここにあったものを——資料と、ドランク陛下のお力添えと、皆さんの作業と——ライルさんのスキルで、今日変えられた、ということが」
「……そうですね」
「感慨深いです」
(感慨深い、と二回言った)
(それだけ先生にとってのことだったんだろう)
(俺は——まあ、終わったのでよかった)
(面倒くさいやつだったが、終わった)
「ガレット」
俺は入口の方を向いた。
「はい」
「戻りましょう」
「承知いたしました。地上への道は、全員で確認しながら参ります」
(ガレット、来てたのか)
(来てたのか——というか、ずっとここにいた。いつの間に入ってきたのか分からない)
(まあ、ガレットはいつもそうだ)
「お前、ずっといましたか」
「はい」
「ランデル殿が来た時から」
「はい。その少し前から、おりました」
「使者の応対はどうするつもりでしたか」
「若様が「後で聞きます」とおっしゃるだろうと思っておりましたので——時間を稼ぐ準備は、しておりました」
(準備してたのか)
(ガレットが、俺が「後で聞きます」と言うと読んでいた)
「……信頼されてますね」
マリスが言った。
「何に」
「ライルさんが「後で聞きます」と言うって、ガレットさんが読んでたことに」
「ああ」
(そうか)
(ガレットが読んでいたことが正しいのか、俺が読まれていることが問題なのか、判断が難しい)
「まあ、行きましょう」
俺は灯りを持ち上げた。
スキルを向けた。
核——引きの感触が、変わっている。「引き」ではなく——何か、違う感触。
うまく言葉にできないが、
(逆に、なった)
来た道を振り返った。
通路が奥に続いている。
(戻るだけだ)
(地上に出たら——また面倒なことがあるかもしれない)
(でも、ここの問題は終わった)
(面倒くさいけど、終わった)
「行きます」
全員がついてきた。
ドランク王が静かについてきた。
先生が帳面を抱えて歩いた。
マリスが腕をさすりながら「……石、重かった」と小声で言った。
ガレットが灯りを持って後ろから来た。
(全員いる)
(全員で来て、全員で終わらせた)
スキルを向けながら歩いた。
核の引きがゆっくり遠ざかっていく。
(ただ——今は「引き」の感触が、以前と違う)
(地上に向かっている気がする)
(七百年ぶりに、逆になった)
(ヴァンダール領が——変わる)
それだけ分かれば、十分だった。




