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核の前で

 前々室の奥の壁に、また術式盤があった。


 六角形。縁に線。内側が少し窪んでいる。さっきのものと同じ構造だ。


「同じですね」


 俺は先生に言った。


「……同じです」


 先生が帳面を開いて何かを書いた。「先ほどと同じ手順で起動できるはずです。ただ——」


「ただ?」


「……少し、大きい」


 先生が術式盤の縁を灯りで照らした。


 確かに、大きかった。さっきの術式盤より一回り以上大きい。縁の線の数も多い。中心の六角形が、顔の横幅よりもある。


「大きいと何か変わりますか」


「起動に必要な魔素の量が、少し多くなります。ただ——この程度の大きさの差なら、ここにいる皆さんの魔素で十分なはずです」


「分かりました」




 (同じ手順でいい)


 (それなら話が早い)




 マリスが「また三人でですね」と言った。


「はい」


「……ライルさんが上、私が左、陛下が右」


「そうです」


 ドランク王が「慣れてきた」と静かに言った。


 マリスが「陛下も慣れてきましたね!!」と言いかけて声を抑えた。「……陛下も、慣れてきましたね」と言い直した。


 ドランク王が「少し声を抑えるのも慣れてきた」と言った。




 (ドランク王が冗談を言った)


 (……いや、本当のことを言っただけか)




「行きます」


 三人が壁の前に立った。


 術式盤は大きかったが、手順は同じだ。三点を同時に押さえる。俺が上、マリスが左、ドランク王が右。


「準備ができたら」


 先生が帳面を持ったまま待機した。


「はい」


「……はい」


「来ました」


「では——ひとつ、ふたつ、みっつ」




 壁が、震えた。


 六角形の縁が光った。今度は赤みではなく——少し白みがかった光。さっきより色が違う。


「……反応しています」


 先生が静かに言った。「押さえ続けてください」


 光が縁に沿って広がる。さっきより広い面積。広がるのに少し時間がかかっている。


「ライルさん、スキルは」


 俺はスキルを向けた。


 引き——ものすごく強い。これまで遺跡の中で感じた中で一番強い。


「強いです。これまでで一番」


「あと少し——」


 光が、術式盤全体に広がった。


 そして——音がした。




 さっきとは違う音だった。


 石が動く音ではなく——何かが開放されるような、低い振動音。床が微かに揺れた。


 壁の中央が、ゆっくりと内側へ沈んだ。


 そのまま左右に——




 全員が止まった。


 向こうに、空間があった。


 ただ——




 (……広い)




 灯りを向けた。届かない。


 天井——高い。通路でも前々室でもない。空間の高さが、灯りの届く範囲を超えている。どこまで続いているのか、上が見えない。


「先生」


 声が出なかった。もう一度言った。


「先生」


「……」


 先生が答えなかった。


 (先生が答えない。珍しい)


 (さっきの前々室の時より、もっと止まっている)




 しばらくして、先生が一歩踏み出した。


 壁の向こうへ。


 灯りを持ち上げた。


 上を向いた。


 左右を見た。


 前を向いた。




「……」




 俺も入った。


 足が床を踏んだ。


 床の石が——また変わっていた。色が白い。さっきまでとは全然違う。


 (これが「中心の石」か)


 (前々室より、もっと白い)




 全員が中に入った。


 ドランク王が静かについてきた。ガレットが帳面を持ったまま立っている。マリスが——珍しく、黙っていた。


 (マリスが黙っている)


 (それだけで、ここが普通でない場所だと分かる)




 灯りを前に向けた。


 奥に——構造物があった。


 ただ、さっきの前々室の「中央の台」とは全然違う。


 柱ではなく、台でもなく——何かが、立っていた。


 石で作られた、高い構造物。高さは俺の倍以上はある。天井まで伸びているのかどうか、灯りでは見えない。太さは——両手を広げた人間が四人並んでも足りないくらいある。


 そして——その表面に。


 線が、走っていた。


 細い線が、無数に。螺旋を描きながら、表面を覆っていた。




 スキルを向けた。


 (これだ)


 (これまでずっと感じていた「引き」は——これだった)


 (地下から感じていた。領主スキルが反応し続けていた。俺の土地の地下にあったのは——これだ)




「……へえ」


 口に出ていた。




「ライルさん」


 先生が振り向いた。


「スキルで感知できますか」


「できます」


 俺は答えた。「これが、核ですか」


「……はい」


 先生が前を向いた。「これが——核です」


 先生が一歩、また一歩、構造物に近づいた。


 灯りを向けて、表面の線を見た。


 止まった。




「……」




 (先生が声を出さない)


 (さっき前々室でも「予想していなかった」と言ったが——今はそれより止まっている)




 ドランク王が静かに言った。


「これが、核か」


「はい」


 今度は俺が答えた。


 ドランク王が構造物を見た。上から下まで。


「……大きいな」


「そうですね」


「書庫の写本に、核の図がある。手のひらに乗るくらいの図解だった」


「はい」


「——これが、その図と同じものとは」


 ドランク王が少し止まった。「思わなかった」




 (思わなかった、か)


 (俺もそうだ)




 ガレットが静かに俺の横に来た。


「若様」


「はい」


「……これが、核でございますか」


「先生がそう言っています」


「……なるほど」


 ガレットが構造物を見た。しばらく動かなかった。


「父の台帳に、核の記述がありました。「底にある」と書かれていた——それだけでした」


「それだけ、ですか」


「はい。もっと書けなかったか、あるいは——書けないほどのものだと知っていたか」




 (ガレットの父が、ここを知っていたのかもしれない)


 (知っていて、「底にある」とだけ書いた)




 先生がようやく振り向いた。


「見てください」


 俺たちを呼んだ。


 全員が先生の横に集まった。灯りを向けると——核の表面の線がはっきりと見えた。


「この線は——術式です。魔素を吸収し、循環させるための構造が、この石の表面と内部に刻まれています」


「内部にも、ですか」


「はい。表面の線は全体の——おそらく一割以下です。残りは内部に刻まれています」


 マリスが「内部に」と小声で言った。


「どうやって刻むんですか」


「それが——七百年前の技術です。現代では再現できません」


「再現できない……」


「はい。タルシア様式の中でも、これは最高位の構造体です。これだけのものが——完全な形で残っているとは、思っていませんでした」




 先生が一拍置いた。


「正直に言うと——」


「はい」


「資料で読んでいた核の「規模」と、実物が、全然違います」




 (全然違う、か)


 (先生が「全然」を使った)


 (先生はあまり「全然」を使わない。だいたい「想定より」「予想を上回る」と言う)




「どれくらい違いますか」


「……資料では、核は「大きな石柱」と書かれていました。人の背丈の三倍ほど、という記述がありました」


「三倍、ですか」


「はい。それが——」


 先生が上を向いた。


 核の頂上は、灯りでも見えない。


「——ここまでの規模とは、記述のどこにも書かれていませんでした」




 (人の背丈の三倍、と書いてあった)


 (俺の倍より高い、ということは——少なくとも四メートルはある。もしかすると五メートル以上かもしれない。灯りが届かない)


 (それが三倍、ではなかった)




「でかいですね」


 俺は言った。


「……はい」


「止め方は分かりますか」


 先生が帳面を開いた。


「今夜、分析します。ここで確認できたことと——ドランク陛下の複写資料と——照合します」


「今夜一晩で分かりますか」


「……何日かかるかは、正直分かりません」


「分かりました」




 (正直でいい)


 (先生が「分からない」と言う時は、本当に分からないのだ。そういう時に「なんとかなります」と言う人より、ずっと信用できる)




「陛下」


 俺はドランク王に声をかけた。


「書庫の写本に、核の起動と停止について書かれた文書はありますか」


「持参した複写の中に、それに近いものがある。ただ——どの記述が核に直接関係するかは、読み込まないと分からない」


「先生と今夜照合できますか」


「構わない」


「ありがとうございます」


 ドランク王が構造物を見たまま言った。


「どちらにしても——これを前にして帰れるか」




 (帰れるか、と言った)


 (王様が言うと、冗談のようで本気のようにも聞こえる)




 マリスが静かに言った。


「……すごいですね」


 俺は横を向いた。


 マリスが核の表面の線を見ていた。いつもの「!!」がない。声のトーンも低い。


「珍しいですね、マリスが静かに言うの」


「……なんか、静かになりました」


「そうですか」


「いや、びっくりしてますよ私も。ただ——声が出なくて」




 (そうか)


 (この場所は、マリスの「!!」を止める力がある)


 (それはかなり、すごいことだと思う)




 スキルを向けた。


 核——引きが強い。いや、「引き」という感触ではない。


 (これまで感じていた「引き」は——この核に向かって魔素が流れていたからだ)


 (地上の土壌から、地下へ、ここへ向かって——何百年もかけて、吸い続けていた)


 (それがヴァンダール領の土壌を枯らしていた)


 (俺がずっと「引き」と呼んでいたのは、これだったのか)


 (……へえ)




 ガレットが「若様」と静かに言った。


「はい」


「……時刻は、夕刻に近いかと思われます。今日のうちに戻れますか」


 俺は考えた。


 来た道を逆に戻る。前々室、傾斜、前室、通路、中間区画——一時間以上はかかる。夕刻なら、急げば日没前には地上に出られる。


「先生」


「はい」


「今夜の分析はここでやりますか、それとも地上に戻ってやりますか」


 先生が少し間を置いた。


「……地上に戻ってやります。帳面の灯りが、ここでは足りません」


「分かりました。では、今日のところは——ここを確認したら戻ります」


「はい。ただ——少しだけ、記録させてください」


「どれくらいですか」


「十五分ほど」




 (今日は十五分か)


 (前々室でも、傾斜の下でも、十分か七分だった)


 (核の前では十五分になった)


 (先生にとっても、それだけの場所ということだ)




「待ちます」


「ありがとうございます」


 先生が帳面を開いた。


 素早く書き始める。核の形、大きさ、表面の線の走り方、床の石の色——


 ドランク王が複写資料を取り出した。先生の横に並んで、何かを探している。


 ガレットが図面を取り出して、書き加えている。


 マリスが核の近くに寄って、表面の線をじっと見ていた。




 俺はその場に立っていた。


 スキルを向けたまま。


 引き——強い。核が近い。これまで「引き」として感じていたものの正体が、今ここにある。


 (七百年分だ)


 (七百年かけて、この核が土壌の魔素を吸い上げた)


 (それを止める。止めるか、変えるかは——先生が今夜調べる)




 (面倒くさいやつだ、と最初に思った)


 (でも——ここまで来た)


 (核の前まで来た)


 (来るしかなかったからだが——まあ、来た)




 ガレットが「若様」とまた静かに言った。


「はい」


「実は——先生が出立される前に、書状が届いておりました」


 俺はガレットを見た。


「誰からですか」


「テルミス大国の使者、ランデル殿からです」


 (ランデル)


 (大国の使者。「共同管理権」を要求してきた男だ)


「何と書いてありましたか」


「……「近日中に再度参上する」と。日取りは——明後日、とのことです」




 (明後日)


 (今日が何日か正確には分からないが、遺跡の中に入ってから二日目だ。つまり、明後日には地上に出ていないといけない)


 (先生の分析が——間に合うか)




「分かりました」


 俺はそれだけ言った。


 (急ぐ必要がある。ただ急ぎすぎる必要もない)


 (先生が今夜分析する。明日中に判断できれば——)




「先生」


「はい」


「テルミスの使者が明後日来ます」


 先生の手が少し止まった。


「……分かりました」


「今夜の分析を急いでほしいです。方針だけでも、方向だけでも——明日の朝に教えてもらえますか」


「……やります」


「無理しなくていいです。ただ」


「いえ——やります」


 先生が帳面を見て、また書き続けた。




 (先生が「やります」と言った)


 (先生がそう言う時は、本当にやる)




 ドランク王が静かに言った。


「私も今夜付き合う」


「陛下が、ですか」


「書庫の資料を持ってきたのは私だ。照合は私がいた方が早い」


 先生が「助かります」と言った。帳面から目を離さずに。




 (王様と専門家が、今夜書類を並べて読む)


 (俺は寝ていていいのか)


 (……寝ていていいのだろう、俺にできることは明日の朝に判断することだけだ)


 (でも、なんとなく眠れない気はする)




 十五分が経った。


 先生が帳面を閉じた。


「記録しました。今日は、これで十分です」


「戻りましょう」


「はい」




 全員が核に向かって一度立った。


 マリスが「……また来ますね」と核に向かって小声で言った。


 (誰かに向けて言っているのか、独り言なのか)


 (まあ、来るのは確かだ。明日か、明後日か、それとも使者が来た後か——)




「行きます」


 俺は灯りを持ち直した。


 来た道を戻る。前々室、傾斜の下り、核への通路、術式盤の間——


 (来た道は分かっている。戻るだけだ)


 (そして明日——先生の答えを聞く)


 (止めるか、変えるか。どちらにしても、方法は先生が見つける)


 (俺がやることは——その後だ)




 ガレットが「御意に」と言った。


 先生が「はい」と言った。


 ドランク王が静かについてきた。


 マリスが「……覚悟、します」と小声で言った。「!!」はなかった。




 (珍しい)


 (マリスが、最後まで静かだった)




 核の前を離れた。


 スキルで、引きがゆっくり遠ざかる感触を確かめながら、歩いた。



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