専門家を呼ぶ
書状を出して、十二日が経った。
ガレットがルノー先生に宛てた書状は、王都を経由して古代文明研究の専門家に転送された——らしい。「ルノー先生自身ではなく、より専門に近い方をご紹介します」という返信が八日後に届いた。
「イルデ・マルクという研究者が行けると言っている」と、ガレットが読み上げた。
「どんな人ですか」
「……王都の学術院に籍を置く、古代言語と魔法構造の専門家とのことです。著作が三冊あります」
「知識はある人ですか」
「少なくとも書いていることには詳しいかと」
「来てもらいましょう」
そして今日、その人物が到着した。
門の前に馬車が一台止まった。御者台に誰かが座っていた——と思ったら降りてきたのが本人だった。御者がいない。一人で来ていた。
(……一人で来たのか)
マリスが隣でそっと俺の袖を引いた。
「御者がいないですよ」
「見えてます」
「先生が一人で運転してきたんですか?」
「そうみたいです」
「それは大丈夫なんですか?」
(大丈夫かどうかは俺には判断できないが、ここまで来たのだから大丈夫だったのだろう)
馬車から降りてきた人物は、四十代くらいの女性だった。
眼鏡をかけている。髪が後ろでまとめられているが、何本か飛び出して乱れている。旅装で荷物を両手に持っている。片手の荷物からは本が三冊、はみ出していた。
ガレットが前に出た。
「イルデ・マルク先生でしょうか。お迎えに上がりましたガレット・ハーンと申します」
「あ、はい、そうです、私がイルデです、えっと——あの、地図の書状に記されていた「ラングフォード」というのは、ここで合っていましたか? 山を越えてから案内板が一か所しかなかったので少し不安になりまして」
「はい。こちらがヴァンダール領ラングフォードでございます。お疲れになったかと思いますので、まずは館内へ」
「あ、ありがとうございます、でも——」
イルデ先生の視線が、俺の後ろへ向いた。
後ろには、支線三番の入口が見えていた。
水路工事の作業で人が往来している場所だ。別に特別なものが見えているわけではない。ただ、先生はそこを見た途端に眼鏡の位置を直して、一歩前に出ようとした。
「あの、あちらに——地面の傾斜が少し変わっているように見えるんですが——これは、地形的な変化ではなく、人工的な何かですか?」
ガレットが少し間を置いた。
「……地下に構造物がございます」
「地下、に?」
「はい。詳細は中でご説明します」
「……あのう、先に見せていただいてもよいですか」
(……なるほど、そういう人か)
ガレットが俺を見た。
俺は頷いた。
「案内します」
支線三番の入口まで歩く間、イルデ先生は左右を見続けていた。
地面を見て、土の色を見て、壁の石材を見て——館の壁の石を見た時に立ち止まった。
「この石の積み方……普通ですね」
「そうです」
「でも、地面の方は少し違う。土の色が境界から変わっています。ここが元々土壌が枯れていた領地という話でしたが、区画によって回復の差が出ているのは、水路の修復ルートによるものですか」
「はい。幹線を優先して直したので、支線の末端はまだ完全ではないです」
「……合理的な順序ですね」
(まあ、面倒だったので一番効果の出る場所から直しただけだが)
「先生、土壌の話は後でゆっくりお話しできます。今日まず見ていただきたいものがありますので」
マリスが言った。
「あ、はい、そうでした、ごめんなさい」
先生は少し早歩きになった。
入口の前に来た。
ゴードンが補強した板と杭。横幅は大人が一人通れる程度の穴。
イルデ先生がそれを見た。
「……これが」
「はい」
「中は——入れますか」
「灯りがあれば。ただし奥まで行くには時間がかかります」
「かまいません」
(この人、荷物を持ったまま入る気か)
「荷物は館に置いていただいた方が」
「あ、そうですね、ちょっとだけ待ってください」
先生が荷物をマリスに押しつけた。
「えっあの私が——」
「すみません、すぐ戻ります、先生と呼ばれているものなので、本の管理は慎重に」
「どれが先生ですか?」
「三冊とも先生です」
(本に敬称を使う人か。把握した)
俺・ガレット・イルデ先生・マリスの順で入った。
先頭は俺だった。灯りを持ったマリスが後ろ。
先生が通路に入った瞬間、息をした。
違う種類の息だった。「……っ」という、声にならない音。
(息を呑む、というやつか)
先生は立ち止まって、壁に手を当てた。
ゆっくりと、石の表面を指でなぞった。
「……石の加工技術が……これは……」
灯りが揺れた。
先生の眼鏡に光が反射した。
「……五百年前どころではない……もしかして……」
声が途切れた。
俺はその場で待った。
マリスが俺の横に来て、小声で言った。
「泣いてますか」
「……泣きそうな顔をしています」
「なんで」
「分からないです」
(……専門家ってこんな感じなんだ)
先生が深く息を吸った。
「……すみません、取り乱しました。あのう——この石の加工精度、ご覧になりましたか」
「はい」
「目地がほぼ消えています。石と石が密着している。切り出しの角度も——これは専用の工具が必要です。現代では再現できない技術です」
「そう聞いています」
「五百年前どころか、もっと古い可能性があります。この工法は——三百年前の学術記録にも記述がない。七百年前に発展した「タルシア様式」という石積み技術に近い特徴があって……」
ガレットが静かに頷いた。
マリスが俺を見た。俺は「続けて聞きましょう」という顔をした。
「タルシア様式というのは、現存する記録が極めて少ない技術系統でして、文献ではマルフ王国の地下構造物に用いられたという記述が三か所——いや、四か所あったかもしれない、うち一か所はシュタール国の古地図に記されていた版ですが原本は失われていて——とにかく、この加工法が地下通路に使われているとすると、これはマルフ王国の支配領域に入る可能性があります」
「マルフ王国は」
「今から七百年ほど前に——あ、いえ、現在のテルミス大陸の版図では北方山岳地帯に当たる場所に栄えた王国です。当時の最大勢力の一つで、地下構造物の建設が非常に得意な文明でした。魔法的な構造体を地下に埋設して、土地のエネルギーを管理していたという記述が——」
先生が歩きながら説明し続けた。
俺たちは通路を進んだ。
先生の説明は続いた。
(……だいぶ長い)
マリスが小声で俺に話しかけてきた。
「どこから分からなくなりましたか」
「タルシア様式のあたりです」
「私はマルフ王国のあたりです」
「マリスの方が早い」
「でも「七百年前に地下に魔法構造物を埋めた」というのは聞こえました」
「それが大事なところです」
先生が立ち止まった。
壁の模様を見た。
「……これは——っ」
また声が途切れた。
「……波紋紋様と星紋の交互配置。これはマルフ様式の確認記号です。「ここは安全に通行できる」という意味の標識として使われた——という記述が、学術院に残っている原本文書に——」
「ガレット」
俺はガレットに言った。
「なるほど、という顔をしていますか」
「……多少」
「どこまで追えていますか」
「タルシア様式とマルフ王国の関係性あたりまでは」
「それ以降は」
「……追うのを一旦止めて、要点だけを待っておりました」
(ガレット先生も早々に方針転換していた。賢い)
先生の説明はさらに続いた。
碑文の字体について。マルフ王国の公用文字と現代文字の変遷について。「往く者、戻る者」の文句が王国内の交通路に広く使われた定型句であること。なぜ地下に構造物を作ったのか——マルフ王国が地下エネルギーを「土地の力」として管理していた独自の思想について。
マリスが限界を迎えたのは、「マルフ王国の第三代国王時代に整備された地下ネットワークのうち、現存が確認されているのは」というあたりだった。
「ちょ——ちょっと待ってください!!」
全員が立ち止まった。
イルデ先生が振り返った。
「はい?」
「す、すみません、大変申し訳ないんですが——情報量が多すぎて」
「あ」
「あのう、一回——整理してもらえますか。「何が一番重要か」を先に教えていただければ、その後の説明が頭に入ります」
先生が少し黙った。
「……ごめんなさい。興奮すると長くなる癖があって」
「知ってます」
「マリス」
「すみません」
先生が眼鏡の位置を直した。
「えっと——要するに」
少し間を置いた。
「要するに——これは現代では再現できません」
静かだった。
通路の奥から、魔素が流れてくる気配だけがあった。
「再現できないのは、どういう意味ですか」
俺は聞いた。
「技術が失われているという意味です。タルシア様式の石積みも、魔法構造体の埋設技術も——現代には設計図も職人も残っていない。この通路を今から作れと言われても、材料はあっても方法が分からない」
「その技術が、魔素吸収陣を作った技術と同じですか」
「はい。おそらくです」
「要するに何が困るの?」
俺は言った。
先生が少し目を細めた。
「……止め方が分からないんです」
(なるほど)
沈黙が少しあった。
マリスが「……あ」と小さく言った。
ガレットが手を膝の上に重ねるような姿勢で静かに立っていた。
「止め方が分からない、か」
俺は言った。
「はい。作った人間の設計思想が分からない。どこに核があって、その核がどういう仕組みで動いているのか——現地を見て、記録を読んで、推測はできます。でも、推測で止めようとして失敗した場合、どうなるかが分からない」
「失敗した場合、最悪何が起きますか」
「……分かりません。ただ、何百年も稼働している構造体を誤った方法で止めようとした場合——その反動がどこに出るかは、現代の研究者には予測できない」
「先生は正直な人ですね」
俺は言った。
「……そうでもないですが」
「分からないことを「分からない」と言えます。それは正直です」
先生が少し困ったような顔をした。
「褒められるようなことではなくて、単純にこれが本当のことなので」
「それが正直です」
マリスがそっと手を挙げた。
「では——止める前に、核を見つける必要があるということですか」
「はい」
「核の場所は分かりますか」
「まだ。この通路を奥まで進んで、実際の構造体を確認しなければ——設計図がないので、現物を見るしかない」
「現物を見れば分かりますか」
「……見てみないと分かりません」
「それはつまり」
「はい。奥まで行かないといけないということです」
マリスが俺を見た。
俺は少し考えた。
(核を探す必要がある)
(それは最初から分かっていたが——「止め方が分からない」という前提が加わった)
(つまり、ただ行けばいいわけではない。何をしてはいけないかを理解してから、行かないといけない)
「先生、一つ確認です」
「はい」
「核を見つければ、止め方の手がかりになりますか」
「なります。現物の術式構造を直接確認できれば——設計者の意図が読めるかもしれない。読めれば、逆算できる可能性があります」
「可能性、ですか」
「……はい。保証はできません」
「分かりました」
俺は先生を見た。
「先生に来てもらってよかったです」
先生が少しぽかんとした顔をした。
「えっ……その——まだ何も解決していませんが」
「解決していなくていいです。何が分からないかが分かった。それで十分です」
「……研究者には、あまりそういうことを言ってもらえないので」
「そうですか」
「だいたい「なぜ解決できないのか」と言われます」
「それは変な質問ですね。分からないから研究しているんでしょう」
先生が眼鏡の奥で目を細めた。
何かを言おうとして、やめた。
(……泣きそうな顔をしている。さっきと理由が違う気がする)
マリスがまた小声で俺に言った。
「フォローしたんですか今」
「そういうつもりはないです」
「領主様にしては珍しい」
「そうですか」
「うん。珍しいです」
帰り道、先生は静かだった。
行きとは違う。通路の壁を見ているのは同じだったが、今度は立ち止まらなかった。考えながら歩いている顔だった。
出口近くで、先生がつぶやいた。
「……七百年」
「はい?」
「七百年——もしかしたらそれ以上——動き続けている。止まらずに。誰も気づかずに」
「はい」
「それって、すごいことですね」
「そうですね」
「……すごいんですけど——困りましたね」
(言い方がちょっと面白いな、とは思った。ただ、そこを指摘しても何も解決しないので黙っておいた)
館に戻った。
執務室に全員で入った。
マリスが先生に渡していた荷物を——本三冊を含む荷物を返した。先生は受け取って、すぐに一冊を開いた。
「えっ今すぐ読みますか」
「確認したいことがあって」
「座ってから読んでください、先生」
「あ、はい」
先生が椅子に座って本を開いた。
その間、俺はガレットを見た。
「整理します」
「はい」
「核を探す必要がある。核を見つければ、止め方の手がかりが見つかる可能性がある。そのために遺跡の深部へ行く必要がある」
「おっしゃる通りかと」
「ただし、誤った方法で干渉するのは危険。先生に設計思想を読み解いてもらいながら、慎重に進む必要がある」
「……先生が現地に同行される形になりますね」
「はい。先生、来ていただけますか」
先生が本から顔を上げた。
「もちろんです」
「奥まで行くのに時間がかかります。一日では終わらないかもしれません」
「かまいません」
「足元も悪いです。本は持ち込まない方がいいかもしれない」
先生が一瞬だけ固まった。
「……考えます」
(考えるということは、持ち込む選択肢を捨てていない)
(まあ、先生の判断に任せよう。本が傷んでも俺の責任ではない)
「マリスも来ますか」
俺は言った。
「行きます!」と即答が返ってきた。
「大変になるかもしれないですよ」
「分かってます。でも——先生の説明を聞いて」
マリスが少し言いにくそうにした。
「……核を見つけないと、この土地が回復しないんですよね」
「可能性としてはそうです」
「じゃあ行きます。ゴードンさんたちのためにも」
(まあ、マリスはそういう人だ)
ガレットが静かに言った。
「日取りを決めましょう。先生が今日到着されて、旅の疲れもおありでしょうから——三日ほど置いた方がよいかと」
「そうですね」
「その間に通路の現況確認と、先生への情報共有を——」
「あの」
先生が手を挙げた。
「明日でいいですか」
「……早くないですか」
「七百年待っているものを、三日余分に待たせる必要はないと思います」
マリスが「先生、かっこいいことを言いましたね」と言った。
「そうでもないです、単純に早く見たいだけなので」
(それが正直なんだな、この人は)
「では明日」
俺は言った。
「準備は今日中に。ガレット、今夜のうちに図面を先生と共有してもらえますか」
「承知いたしました」
「先生、今夜は館に泊まっていただいて、ガレットから手元の資料を見てもらってください。質問があれば今夜のうちに」
「ありがとうございます。あのう——」
「はい」
「本を三冊、持ち込んでもいいですか。防水の布に包みます」
(やっぱり持ち込む気だった)
「かまいません」
「ありがとうございます!」
先生が初めてはっきり笑った。
眼鏡の奥の目が細くなった。
(喜ぶとこうなるのか。まあ、嫌な人ではなさそうだ)
夕方、ガレットが資料を持って先生の部屋に向かった。
マリスが執務室に顔を出した。
「……なんか、いい人でしたね、先生」
「そうですね」
「最初は説明が長すぎてどうなるかと思いましたが」
「まあ、専門家ですから」
「「止め方が分からない」は正直に言ってくれてよかったです。分かってるふりをされる方が怖い」
「同意します」
「領主様は、怖いとは思わなかったんですか」
「何が怖いですか」
「止め方が分からない、って」
俺は少し考えた。
「分からないなら探せばいいです」
「そんなに簡単に言えますね」
「探す方向が決まった方が楽です。「何が分からないか分からない」より「どこを調べれば分かるか」の方が手を動かせます」
「……それが「核を探す」ということですか」
「はい」
「遺跡の深部へ」
「はい」
マリスがまた窓の外を見た。
もう夕暮れだった。秋が深くなってきていた。
「明日から、また大変ですね」
「そうですね」
「……頑張りましょう」
「面倒くさいですが、やれることからやります」
「それ、領主様の口癖ですよね」
「そうですか」
「最初からずっとそれです」
(まあ、それ以外の方針を持っていないので)
夜、スキルを向けた。
地下通路はそこにあった。石の壁。魔素の流れ。変わっていない。
奥の感触。まだ遠い。
(明日、もっと近づく)
(先生と一緒に、核がどこにあるかを探す)
(「止め方が分からない」——それはそうだ。でも「核がある」ことは分かっている。「深部に向かえば近づける」ことは分かっている)
(まあ、一つずつやれることをやるだけだ)
窓の外、秋の夜風が揺れていた。
遺跡の深部へ——方向は決まった。




