魔素吸収陣
夜が明けても、地下はまだそこにあった。
当然そうなのだが、朝起きてスキルを向けたら、まだあった。昨夜の感触がそのまま残っている——細長い通路。石積みの壁。奥の方の、あの違和感。
(消えてないか。そうか)
朝食をとりながら、ガレットに言った。
「今日の午前、もう一度スキルで確認したいです」
「承知いたしました。現場は昨夜のうちにゴードン殿に見ていただきましたが——崩れた壁の周囲は安定していると」
「分かりました」
「何か気になる点が」
「奥の方に、昨夜から気になっているものがあります。今日はそこを重点的に」
ガレットが静かに頷いた。何も聞かなかった。
マリスが朝食の椀を半分残したまま顔を上げた。
「昨夜また確認したんですか」
「寝る前に少し」
「……気になって眠れなかったんですか?」
「そういうわけではないです。確認してから寝た方が落ち着くので」
「それが気になってるってことじゃないですか!!」
俺は少し考えた。
「……まあ、そうかもしれないです」
マリスが「そういう素直さはあるんですよね」と呟いた。何が言いたいのかよく分からなかった。
午前の早いうちに執務室の椅子に戻った。
スキルを地下に向ける。いつもの感触——土の密度。水脈の細い流れ。支線の輪郭。
支線三番の崩れた壁の向こうへ。
(……ある)
通路だ。石積みの壁。細長い。昨日と変わっていない。
俺はゆっくりスキルを奥へ伸ばした。通路の輪郭を追いかけた。どこまでも細長く、まっすぐ。ほぼ一直線に、南西方向へ。
そして——奥の方に、あの感触。
(……これ、何だ)
昨日は「光のようなもの」と表現した。でも今日、もう少し注意して感知してみると——少し違う気がした。
光、ではない。
引きだ。
土壌の魔素が——ゆっくりと、一定の方向に動いている。
俺はスキルを引かずに、その感触に集中した。
魔素というのは、普通は土の中に留まっているものだ。水路が通れば流れるが、それ以外は静止している。少なくとも、俺がこれまで感知してきた中ではそうだった。
でも、今感じているのは——。
土の中の魔素が、通路の方向に向かって、ゆっくりと動いている。奥に向かって。一定の速度で。止まらない。
(……吸われてる?)
俺はスキルの焦点を奥の「何か」に合わせた。
ある一点に、重さがある。密度が高い。魔素が集まっている——というより、集め続けている。通路のさらに奥の方に、何かが稼働していた。
(稼働、という表現が正しい気がする)
(これ、機械みたいに動いてる)
目を開けた。
ガレットが机の横に立っていた。マリスは窓際に座っていた。
「魔素が動いています」
俺は言った。
「土壌の中の魔素が——通路の方向に向かって吸われています。奥に何か、稼働しているものがある」
マリスが「え」と言った。
「吸われてる? 魔素が?」
「そうです」
「それってどういうことですか」
俺は少し考えた。
「地下に何かが動いていて、それが土壌の魔素を引っ張り続けている——そういう感触です」
ガレットが静かに口を開いた。
「……若様、一つ確認してもよいですか」
「どうぞ」
「その「吸われている」感触は——今日初めて気づきましたか」
俺は考えた。
「……いえ。ずっと前から、地下の方向に「引き」みたいなものを感じていました。水路が通じると少し強くなる感触があって——着任してすぐの頃から」
「……そうでございましたか」
ガレットが何かを整理するような顔をした。
マリスが手を上げた。
「え、待ってください。それって——ずっと前から魔素を吸われてたってことですか」
「おそらく」
「どれくらい前から」
「分からないです。でも——」
俺は少し止まった。
通路の造りを思い出した。石積み。古い。図面の紙のかすれ具合。「内より、いまだ灯る」という文字。いまだ、という言葉。
「相当前から。数十年どころじゃないかもしれない」
「どれくらいですか」
「……数百年、とか」
マリスが椅子から立ち上がった。
「え? 何百年も?!」
「図面の紙の状態と、通路の造りを考えると——そのくらいの可能性があります」
「何百年も魔素を吸われてたってことですか!! それって——だったらラングフォードの土壌が回復しなかったのって!!」
俺は頷いた。
「これが原因かもしれないです」
「これが!!」
「はい」
マリスが両手で口を覆った。
俺は机の上の図面を引き出しから取り出した。
ラングフォードの土壌魔素が低かったのは——五年前から急に悪化したわけではなかった。父が来る前も、ずっと低かったはずだ。記録が残っていないから確認できないが、あの通路の造りを考えると、最初から——何百年も前から、土壌の底が抜けていたことになる。
水路を直しても、土壌の魔素が本来ほど回復しなかった理由。
(……そういうことか)
(水路を修復して魔素が上がったのは本当のことだ。でも、吸われ続けていたから上がりきらなかった)
ガレットが静かに言った。
「若様」
「はい」
「ということは——水路を修復したことで土壌の魔素が回復し始めたのは、確かなことでございます。ただ、吸引が続いていた分、回復が本来より遅かった、ということでしょうか」
「そうだと思います」
「ゴードン殿や皆さんが取り組んでこられたことは——その前提があった上での話、ということになりますね」
「……そうなります」
俺はそこで少しだけ止まった。
ゴードンが五年間、枯れた土地を見ていた。ヨムが収穫の時に泣いた。農民たちが土壌に種を入れた日の顔を、俺は覚えている。
それは意味がなかった、ということじゃない。水路を直したから魔素は上がった。上がったから収穫があった。それは本当のことだ。
ただ——底が抜けていた、ということは、ずっとそこにあった。
(……知らなかったとはいえ、それは少し、申し訳なかったな)
「ゴードンたちには」
俺は言った。
「今日は言わなくていいです。分かったことが全部揃ってから話します」
「承知いたしました」
「まだ確認できていないことが多すぎる。何かを判断するのは、もう少し後で」
マリスが窓際から戻ってきた。顔は少し落ち着いていた。
「……じゃあ、水路を直した意味はあったんですよね」
「あります」
「よかった」とマリスが言った。それだけだった。
「ありますよね!! と確認しないと心配だったんですが」
「ありますよ、普通に」
「その「普通に」という言い方が少し気になりますが——まあ、ありますよね」
俺は図面に目を落とした。
★が三箇所。通路がある方向に、この印が並んでいる。
「止めたら」——という考えが頭をよぎった。
通路の奥で稼働しているものを止めたとしたら。魔素が吸われなくなったとしたら。今まで吸われていた分が土壌に留まるようになる——いや、むしろ底が塞がるわけだから、回復のスピードが変わるかもしれない。
(……これ、止めたら魔素が一気に上がるんじゃないか)
(今が五十何パーセントかとして、止めたら数日で七十行くんじゃないか、これ)
(……さすがにそれは楽観的すぎるか)
(でも方向性としては間違っていない気がする)
「何か考えてますよね」
マリスが言った。
「まあ」
「教えてもらえますか」
「止めたら魔素が上がるかもしれないと思って」
「止めるって——あの稼働している何かを?」
「そうです」
「止めれるんですか」
「分からないです。でも、止めたら土壌が良くなる可能性はある」
マリスが「……なんかあっさり言いますね」と言った。
「あっさりしてますか」
「歴史的な発見みたいなことが起きてる気がするんですが、口調がいつもと同じなんですよね」
「内容が大きくても口調は変えないです」
「それは分かってます!!」
ガレットが静かに言った。
「若様、一つ——「後ほど」と申し上げたことを、今お話ししてもよいですか」
俺はガレットを見た。
「どうぞ」
「昨日、現場を確認していただいた際に、少し申し上げようとして——先に確認していただいた方が良いと思い、後回しにしていたことがございます」
「はい」
「以前お見せした図面の、★の印についてです」
ガレットが机の前に静かに立った。
「★の位置と——今日スキルでご確認いただいた「稼働しているもの」の方向が、重なっております」
「重なっている、というのは」
「三箇所の★は、通路上の、ある間隔で並んだ地点に対応しているかと思います。そして通路の最奥——一番深い場所にある★が、スキルで「稼働している」と感じていただいた地点に、近いのではないかと」
俺は図面を見た。一番奥の★。そこがスキルで感じた重さのある場所と、確かに方向が合っている。
「……なるほど」
「図面を書いた人が、ここに★を付けた理由が——これだということですか」
「おそらく。父は——その★について、何と言っていたか」
ガレットが一拍置いた。
「……「封印」と呼んでいました」
封印。
俺はその言葉を聞いて、少しの間黙った。
(封印……なんか大げさな言い方するな)
(でも、そう呼ぶしかなかった、ということでもあるか)
「ガレットの父上が、そう呼んでいた、ということですか」
「はい。正確には——父の父、私の祖父の代から受け継いだ、という話でございました。「封印がある」「触れてはならない」という言い伝えのようなものが、ヴァンダール家の家令職の中に残っていたようで」
「家令職の、中に」
「はい。文書として残っているわけではないのですが——代々、「地下に封印がある。手を出すな」という言葉だけが伝わっていたそうです」
マリスが手を挙げた。
「ちょっと待ってください。封印ってことは——あの地下のものは、誰かが意図的に作ったということですよね」
「おそらく」
「それを封印して「触れるな」って言い伝えた人がいたってことですよね」
「そうなります」
「じゃあ——なんで封印するのに、灯りが必要なんですか!!」
(……それは俺も思った)
「内より、いまだ灯る」。封印するなら、消せばよかったはずだ。消さなかった、あるいは消せなかった——どちらだろう。
「灯っているということは、今も動いているということです」
「そうですよね!! 封印してるのに動いてますよね!! それって封印できてないんじゃないですか!!」
「その可能性はあります」
「あります、じゃなくて——」
マリスが一度深呼吸した。
「……落ち着いて聞きますね。封印っていうのは、つまり、どういう状態にすることなんですか」
俺はガレットを見た。ガレットが少し首を傾けた。
「私には分かりかねます。ただ——父が「触れてはならない」と言っていたのは、止めるな、ということではなく——「近づくな」という意味だったのかもしれません」
「近づくな」
「はい。稼働しているものを止めることが、封印、ではなく——存在を知りながらも何もしないことが、封印という言葉の意味だったのかもしれない、と」
(なるほど)
(知っていて、手を出さない。それを「封印」と呼んでいた)
(つまり誰かが最初に「これを止めるな」と決めた、ということになる)
「……誰が、それを決めたんでしょうか」
俺は言った。
「ガレットの家令職に伝わっていた、ということは——少なくとも数百年は前の話ですよね。ヴァンダール家が今の場所に来た頃、あるいはそれより前」
「……正確には分かりかねます。ただ、父の代の前にすでに「伝言」として残っていたと聞いています。誰が最初にその言葉を伝えたのかは——分からないのです」
ガレットが少し目を伏せた。
「そのことは——ずっと、気になっておりました」
しばらく沈黙があった。
マリスが窓を見た。外は穏やかな秋の空だった。
「……なんで灯ってるんですかね」
誰への問いでもなかった。
「分からないです」
俺は言った。
「でも——灯っている理由と、誰が作ったかと、なんで封印したかは——全部、中を見れば分かるかもしれない」
「中?」
「通路の中。奥まで行けば、稼働しているものが何かが分かる」
マリスが俺を見た。ガレットも見た。
「……入るんですか」
「安全を確認してから。でも——外から感知するより、直接見た方が早いと思います」
「早い方が大事なんですか」
「分からないことを全部外から考えても時間がかかります。とりあえず、中を見た方が早い」
マリスが「とりあえず、って」と言いかけて止めた。
ガレットが静かに言った。
「若様、一点だけ確認させてください」
「はい」
「もしその、稼働しているものを「止める」ことが可能だとして——止めることの影響が分からない段階で、止めるべきかどうかは、慎重に考えた方がよいかと存じます」
「それはそうです」
「何百年も稼働していたものを止めることで、何が起きるかが分からない。土壌の魔素が回復する可能性がある一方で——別の何かが起きる可能性も、排除できないかと」
(ガレットが正しいことを言っている)
「分かりました。止めるかどうかは、中を見てから判断します。今日の話は——まず現状の把握まで、ということで」
「承知いたしました」
ガレットが頷いた。
「ただ——図面に記されたこと、父の言葉について——私が知っている範囲でお役に立てることがあれば、全てお話しします」
「お願いします」
マリスが少し間を置いてから言った。
「……なんか、すごく大きい話になってきましたよね」
「なってますね」
「何百年も動いてるものが地下にあって、封印されてて、灯りがついてて——それが土壌を吸い続けてたって」
「そうなります」
「領主様はそれを「とりあえず中を見た方が早い」って言ってるわけですよね」
「はい」
マリスが天井を見た。
「……まあ、見ないと分からないですよね。私もそう思います」
「そうです」
「でも、心の準備は必要ですよね!!」
(心の準備をしてから行く、というのがマリスらしいな)
「準備が必要なのは分かります。ただ、崩れた壁の補強と通路の安全確認が先です。入れる状態になってから、ということで」
「いつ頃になりますか」
俺はガレットを見た。
「ゴードン殿に確認していただければ、二日から三日かと存じます」
「そうですね」とガレットが言った。「安全を確認してから、ということであれば——崩壊箇所の状態を見て判断いたします」
「分かりました。それまでに——誰が作ったか、何のためか、の手がかりを図面から探せるかどうか、考えておきます」
ガレットが少し止まった。
(また、何か言いかけている顔だ)
「ガレット、何か」
「……若様、一点だけ」
「はい」
「父が「封印」と呼んでいた、ということは——父はその場所に意味があると思っていた、ということでもあります」
「意味、というのは」
「触れてはならない理由が、あると。稼働していることに——何らかの意図があると、考えていたのかもしれません」
(意図)
(誰かが何かのために作った。そして何百年も動かし続けた)
(その目的が、土壌の魔素を吸い取ることだったとしたら——それは意図的なものだ)
(なんのために、土壌の魔素を吸い取り続けるのか)
「……分からないですね、それは」
俺は言った。正直なところ、まだ何も見えていない。見えていないものについて考えても、外れることの方が多い。
「中を見ます。それが一番早い」
「御意に」
ガレットが静かに頭を下げた。
マリスがぽつりと言った。
「「内より、いまだ灯る」——って、誰かが今も、そこにいるって意味じゃないですよね」
「……それは分からないです」
マリスが「そこだけ「分からない」って言いますね」と呟いた。
「他のことも分からないです」
「でも他は分かった後に言いますよね。これだけ最初から「分からない」って言いますよね」
俺は少し考えた。
「……そっちは、考えたくないので」
マリスが静かになった。
ガレットも何も言わなかった。
俺は図面を引き出しにしまった。
「内より、いまだ灯る」。灯っている、というのは今も続いているということだ。何百年も前に誰かが書いた言葉が、今もそのまま正しい——それがどういうことなのかは、まだ分からない。
ただ、行けば分かる。
(安全を確認してから)
(それが一番早い)
午後になって、ゴードンが確認に来た。
「崩れた壁の周囲、石の状態を見てきた。当面これ以上崩れる感じはない。ただ入る前に入口を少し補強した方がいい」
「補強するのに何日かかりますか」
「二日あれば」
「お願いします。それと——通路の中に入る可能性があります。安全の判断はゴードンに頼んでいいですか」
ゴードンが少し俺を見た。
「……通路の中に入るのか」
「確認が必要なことがあります」
「誰が入る」
「俺とガレット、マリス。他に必要な人がいれば」
「俺も行く」
「ゴードンが来てくれるなら助かります」
ゴードンが短く頷いた。
「二日後。その前に一度状態を見に来てくれ」
「分かりました」
ゴードンが館を出た。いつもと同じように、短い言葉だけ残して。
(二日後か)
俺は窓の外を見た。空が少し翳っていた。
何百年も動き続けている何かが、地下にある。それが土壌の魔素を吸い続けていた。止めれば回復するかもしれない。誰が作ったかは分からない。なんのためかも分からない。
分からないことが多い。
(多いけど、全部中に答えがある可能性が高い)
(二日後に行けば、少しは分かる)
(……まあ、待つか)
(それよりゴードンに灯りを余分に用意してもらわないといけないな。地下は暗い)
(それだけ今日のうちに頼んでおくか)
俺は立ち上がって、ゴードンを追いかけた。
「ゴードン、灯りを多めに」
「分かってる。用意してある」
「……早い」
「地下に入るなら必要だろう」
ゴードンが振り返らずに言った。俺より先に分かっていたらしい。
(やっぱり分かってる人だ)
夕方、ガレットが書類を持って来た。
「若様、今夜は早めにお休みください」
「まあ、いつもと同じです」
「二日後の確認に備えて——体力的にも、考える時間という意味でも」
「はい」
「それと——一点だけ」
ガレットが書類を机に置いて、少し間を置いた。
「父が「封印」という言葉を使っていたこと——今まで若様にお話ししていなかったのは、確証がなかったからです。図面の★が何を指すかが分からない状態で、伝えることが正しいかどうか判断できなかった」
「分かりました」
「ただ——今日のスキルの結果を聞いて、お伝えすべき時が来たと判断しました」
俺はガレットを見た。
(ガレットはずっと、このタイミングを測っていたんだな)
(図面を出した時も、昨日の現場でも、「後ほど」と言った時も——全部、確認が揃うのを待っていた)
「ありがとうございます」
俺は言った。
ガレットが少し止まった。珍しい顔をした。
「……いえ。お伝えが遅くなりまして、申し訳ございませんでした」
「遅くなかったと思います。順番として、これが正しかったと思います」
「……御意に」
夜、スキルを向けた。
通路はまだある。奥の感触も変わらない。魔素が一方向に、ゆっくりと、吸われ続けている。
(二日後か)
(何百年も待ったものが、二日くらいは待てる)
(いや待ってるのは俺の方だけど)
ラングフォードの夜は静かだった。
地下では、今夜も何かが灯り続けていた。




