地下の音
朝食を終えた後、ノックがあった。
「若様、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
ガレットが入ってきた。手に、薄い巻物のような紙を持っている。
布でくるんであった。大切に扱っているのが分かる。
「持参いたしました」
「ありがとうございます」
机の上を空けた。ガレットがゆっくりと布をほどき、折りたたまれた紙を広げた。
大きかった。広げると机の半分ほどを占めた。
古い。紙の縁が茶色く変色していて、折り目のところが薄くなっている。でも破れてはいなかった。大事にしまっておかれたのだと分かる。
(地下地形の記録、か)
手書きだった。丁寧な筆跡で、水脈の流れを示す線と、岩盤の境界らしいハッチングが描かれている。一部に数字の注記がある。深さか、幅か。
「いつ頃の記録ですか」
「……正確には分かりかねます。父の代よりも前だと思います」
「父君が書いたわけではない、ということですか」
「おそらく。筆跡が父のものとは違います。ただ、父がどこから受け取ったのかは聞いておりませんでした」
俺は図面を少し前に引いて、スキルを使った。
(ラングフォードの地下を——今の状態と、この図面と、合わせていく)
スキルで感知できるのは現状だ。土壌の状態。水脈の流れ。地下の構造の大まか。
図面に描かれている水脈の位置と、今の感知を重ねてみた。
(ここは……ほぼ合っている)
幹線のすぐ下を通る横の水脈。図面では太めの線で描かれていた。今もその位置に流れを感じる。
「ここが幹線と並走している水脈ですかね」
「おそらくは、はい」
俺は指で図面の別の箇所を示した。
「ここが——詰まっている場所か」
ガレットが少し間を置いた。
「……おそらく、はい」
図面に「★」が記されている。その周囲に細かい注記がある。字が小さくて読みにくいが、「詰」とか「注意」のような文字が見える。
(「注意」)
(誰が書いたのか知らないが、何かを知っていて書いたんだろうな)
今のスキルの感触でも、その「★」の位置に引っかかりがある。重い。何かが詰まっているような感触——ずっと感じていた「引き」の源の一つが、そこにある気がした。
「ここの水脈、今は違うルートを通っています」
俺は図面の右端の方を指した。
図面上では北へ向かって流れているはずの水脈が、今の感知では——東の方へ迂回している。
「……なるほど」ガレットが静かに図面を見た。「父の代にもこの辺りの水脈は変わりやすいと聞いておりました。地形が少しずつ動くのかもしれません」
「地震みたいなものですか」
「そのような大きなものではないと思いますが——地下では、長い時間をかけて少しずつ変わることがある、と」
(長い時間をかけて少しずつ)
(この図面が父の代よりも前だとすると、どれくらい前なのか)
(注意、という文字が、頭に残った)
(この記録を書いた人間が、何かを知っていた。だから書き残した)
俺はスキルを少し深く向けてみた。
「★」の位置の下——地下の奥の方に、昨夜も感じた「引き」がある。振動は今朝はない。ただ、重さはある。
(昨夜と変わらない)
(図面と照らし合わせると、位置が——合っている)
「ガレット、この図面、しばらく借りていいですか」
「はい、もちろんでございます。ただ——できれば、外には」
「出しません。俺の机の引き出しにしまっておきます」
「……承知いたしました」
ガレットが少し姿勢を正した。
「若様」
「なんですか」
「この図面について、父は『必要な時が来たら出せ』とだけ言っておりました。どういう時が必要な時かは、教えてくれませんでした」
「今が、その時でしょうか」
「……そう判断しました」
俺は図面をもう一度見た。
丁寧な手書きの水脈。注意の記号。父の代より前の誰かが、地下のことを記録した。
(面倒くさいことが、また一つ増えた)
(ただ、放置したら——これはもっと面倒になる。それは経験上、分かっている)
「分かりました」
俺は短く言った。
「引き続き、確認します」
「御意に」
昼前、ゴードンが来た。
「水路の確認、終わりました」
ゴードンが玄関口に顔を出した。
「支線の三番が少し流れが細くなってる。詰まりの手前みたいな状態です」
「手前、というのは」
「泥が詰まりかけているが、まだ通ってはいる。今すぐ問題にはならないが、来月中には確認した方がいいと思います」
「分かりました。来月の作業に入れます。手順書の骨格を今週中にまとめますので、その後で段取りを確認しましょう」
「そうします」
ゴードンが頷いた。帰ろうとした足を一度止めた。
「手順書ですが」
「はい」
「ガレットが先月の台帳記録を添付すれば分かりやすいかと思います。どこが詰まりやすいかの傾向が出ているので」
「そうですね。ガレットに伝えます。ありがとうございます」
「まあ、それだけです」
ゴードンが去った。
(ゴードンは、自分でも手順書のことを考えていた)
(五領地に展開するとなれば、うちの農夫が知っている傾向データも役に立つ)
(「ありがとう」と言ったら「まあ、それだけです」と言って帰った)
(この人は、どこまでもこういう人だ)
昼を過ぎた頃、マリスが顔を出した。
「市場の方、商人が一軒増えたそうですよ。麦粉を扱うところが新しく来たみたいです」
「そうですか」
「来月もう一軒来そうという噂もあります。鍛冶屋です」
「鍛冶屋が来たら農具の修繕が楽になりますね」
「そうなんです!」マリスが少し嬉しそうな顔をした。「今まで一番近い鍛冶屋まで半日かかってたんです。その人が来たら——ゴードンさんも助かると思います」
「ゴードンに伝えておきます」
「あ、もう話しましたか?」
「さっき来ていたので」
「あ——そうでしたか」マリスが少し間を置いた。「あの人、報告だけ来てすぐ帰りますよね」
「それがゴードンです」
(それだけを言いに来た。余計なことは言わない)
(俺と感覚が似ているのかもしれないが、ゴードンの方がずっと上手だと思う)
午後は手順書の続きを書いた。
ガレットが隣の部屋で台帳の整理をしている気配がした。
静かな時間だった。
窓から秋の光が差し込んでいる。庭の木が少し葉の色を変えていた。
(領地が動いている)
(土壌が回復して、水路が通って、市場に商人が来て、鍛冶屋が来るかもしれない)
(五領地への展開が決まった。シュタール国の話も動いている)
(それだけのことが起きた一年だった)
(そして——地下が、少しだけ動き始めている)
ペンを置いて、少し窓の外を見た。
(なんか、面倒くさいことが増えた気がする)
(でも、とりあえず今日のところは手順書を終わらせる)
夕方になった。
手順書の叩き台が一通りまとまった。
ガレットに届けた。
「お受け取りいたします。明後日に整理してお返しします」
「お願いします」
「若様、夕食は——」
「いつも通りで大丈夫です」
「承知いたしました」
夕食を終えた。
窓の外が暗くなり始めていた。
ラングフォードの夜だ。星が出る前の、少し青みがかった空。
俺は机の前に座って、昨夜の振動の記録をもう一度見た。
日付。時刻。強さ(小さい)。回数(二回)。継続時間(数秒×二回)。
来た。
最初の一回は——昨夜と同じくらいの強さだった。
数秒。止まる。
手元の紙が、ほんのわずかに揺れた気がした。
(また来た)
俺はそのまま動かなかった。
スキルを地下に集中させた。
重さは、ある。引きは、ある。
その奥で——
また来た。
二回目。
今度は少し長い。数秒ではなく、もう少し続く。五秒か、六秒か。昨夜の二回より確かに長かった。
止まった。
(長くなっている)
俺は机の引き出しから昨夜書いた記録を取り出して、今夜の分を追記した。
日付。時刻。強さ(昨夜と同程度)。回数(二回)。継続時間(一回目・数秒。二回目・五〜六秒程度)。
(昨夜の翌夜。今夜も来た)
(最初の振動は、夜だった。また夜だった)
(長さが変わっている)
スキルを再確認した。
振動は止まっている。重さは、ある。引きは——いつも通りだ。変わっていない。
ただ、振動があった事実は消えない。
(月に一回あるかないか、ではなくなった)
(二日連続で来た)
(そして、今夜の方が長かった)
ノックがあった。
「若様」
「どうぞ」
ガレットが入ってきた。夕食の後片付けの件かと思ったが、ガレットの手には何もなかった。
「書類のことではございません。今夜のご様子が気になりまして」
(気づいていた)
「……振動がありました」
「……今夜も、ですか」
「はい。昨夜の翌夜です。それと、今夜は少し長かったです」
ガレットが静かに立っていた。
窓の外を一度見た。
それから俺を見た。
「長くなっている、ということですか」
「今夜の二回目が——五秒か六秒でした。昨夜は数秒程度でした」
「……なるほど」
「頻度が上がっています。月に一回あるかないか、という感触ではなくなりました」
ガレットが少し間を置いた。
「若様」
「はい」
「今日見ていただいた図面の——あの「★」の位置と、振動の発生源は」
「重なっています、おそらく。正確には分かりません。ただ、引きが来る方向が同じです」
ガレットがゆっくりと頷いた。
「……そうでございましたか」
それだけ言った。
静かな声だった。何かを確認したような声だった。
「ガレット、あの図面を書いた人は——何か知っていたんですか」
ガレットが少し間を置いた。
「父は何も教えてくれませんでした。「必要な時が来たら出せ」とだけ」
「……そうでしたね」
「ただ——父が「表には出さないように」と言ったのは、誰かに知られることを避けたかったのかもしれません」
俺は机の上に記録の紙を置いた。
(知られることを避けた)
(何十年か前の誰かが、地下のことを記録した)
(ガレットの父が、それを大事に持っていた)
(そして今夜、振動が来た)
「地下の構造を、もう少し把握する必要があります」
俺は言った。
「図面と現状を照らし合わせて、どこが変わっていてどこが変わっていないか——時間をかけて確認します」
「急ぎますか」
「急ぎません。ただ——忘れないでいる必要があります」
ガレットが、手を膝の上にゆっくりと重ねた。それから、静かに言った。
「若様、これは——急がなくてよいです。ただ、忘れないでください」
俺はガレットの顔を見た。
六十三歳の老臣の顔だった。何かを、ずっと知っていたような顔だった。何かを、ずっと待っていたような顔だった。
(「忘れないでください」)
(ガレットが、こういう言い方をするのは珍しい)
「……分かりました」
俺は短く言った。
「忘れません」
「御意に」
ガレットが部屋を出た。
静かが戻った。
俺は机の引き出しに記録の紙をしまった。図面もその下に重ねた。
(面倒くさいことが増えた)
(でも今夜のガレットの顔を見て——放置できないとは分かった)
(だから急がないが、忘れない)
スキルで地下を一度だけ確認した。
重さ。引き。
振動は——止まっている。今夜は、もう来ない。
窓の外に、ラングフォードの夜が広がっている。
星が出ていた。
小さな領都の夜だ。静かで、暗くて、ただ星だけが多い。
(この一年、色々あった)
(領地が動いた。隣国の王様が毎月来るようになった。五領地に展開することになった)
(それはそれで、片付いていっている)
(でも——地下に、何かがある)
(振動は、また来る。たぶん)
引き出しの中の図面を、もう一度思った。
「★」の位置。「注意」の文字。
(誰かがそこに、何かを残した)
星が、静かに輝いていた。




