王都へ
ゴードンが見送りに来たのは、俺が思っていたより早い時間だった。
夜明け前、まだ空が暗い。荷馬車の支度をしているところに、畑の方から歩いてきた。
手ぶらだった。
「行くのか」
「はい、今日から」
ゴードンが馬車を一度見た。視線が荷を確認するように動いた。
「ガレットさんから聞いた。二週間か」
「長くなったとしても、一ヶ月ほどかと」
「……長いな」
「そうですね」
ゴードンが腕を組んだ。夜明け前の冷気が、まだ残っている。
「領地の方は大丈夫ですか」
俺が聞いた。
「まあ、やれる」
短い返答だった。
「今月の水路の確認、ヨムに段取り書いて渡してある。畑の方は、俺が見る」
「ありがとうございます」
「礼はいらん」ゴードンが俺を見た。「あんたが戻ってくるまで、畑は俺が持つ。行ってこい」
俺は少し止まった。
(領地を預けられる人間がいる。それが一番の成果かもしれない)
「……分かりました」
「なんか困ったことが起きたら、ガレットさんが言ってくれた連絡先に出す」
「はい」
「それだけだ」
ゴードンが背を向けた。そのまま歩き出した。
振り返らなかった。
馬車に乗った。
クロヴィスが先頭の馬を引く別の馬車に乗っている。往路も同行すると言っていた。
ガレットが御者台に上がった。マリスが荷を確認してから、俺の横に滑り込んできた。
「ゴードンさん、来てましたね」
「来てました」
「何か言ってましたか」
「行ってこい、と」
マリスが少し目を細めた。
「……それだけですか」
「それだけです」
「それで十分ですね」
俺は頷いた。
(そうだな)
馬車が動き出した。
ラングフォードの道が、後ろに流れ始めた。市場の角。水路の分岐。畑の端。ヨムが朝の作業を始めているのが、窓の外を過ぎていった。
(動いている。ちゃんと動いている)
最初の一日は、ほぼ何もなかった。
道が続いて、景色が続いた。テルミス王国の中央に向かうほど、村の数が増える。道幅も広くなった。
クロヴィスが時折後ろの馬車に声をかけてきた。今夜の宿、道の状況、明日の行程。手際がいい。
マリスは最初の二刻ほどは窓から外を眺めていた。
「……なんか、違いますね」
「何がですか」
「ラングフォードと。建物の感じとか、畑の大きさとか」
「そうですね」
「ここの畑、石垣がないですよ」
「この辺りは平地が続くので要らないんでしょう」
マリスが目を細めた。
「もったいない気がします。ラングフォードなら石垣に使うのに」
「まあ、土地が違えば必要なものも違いますか」
(それは確かにそうだ)
二日目になった。
道の舗装が変わった。石畳が続くようになった。
俺はスキルを使ってみた。
領地の感知範囲はとっくに外れている。代わりに、通り過ぎる土地の状態が薄くだが分かる。
(……薄い)
土壌の魔素が、低い。
ラングフォードを着任した頃——十二パーセントだった頃の感触に近い。いや、もう少し低いか。
(この辺りの土地、元々こういう状態なのか)
「クロヴィス殿」
窓から声をかけた。
「はい」前の馬車から返ってきた。「何でしょう」
「この道の沿道の畑、作付けしている様子があまり見えませんが」
「……お気づきになりましたか」
「以前から、こういう状態でしたか」
クロヴィスが少し間を置いた。
「この辺りも、昔は豊かでしたが」
それだけ言って、止まった。
「続きは」
「……王都で、改めてお話しする機会があると思います」
俺は窓から外を見た。
石畳が続いている。畑の跡らしき区画があったが、作物は見えない。村がひとつ過ぎたが、歩いている人が少なかった。
(ヴァンダール領だけじゃない)
(この土地の問題、もっと広い範囲に広がっている)
スキルの感触をもう少し向けた。
魔素が薄い。表土だけではなく、下の方も。水路の状態もあまり良くない気がした。
(それで農業が上手くいかない。人が減る。村が廃れる)
(うちと同じだ)
マリスが俺の顔を見た。
「どうかしましたか」
「いえ」
「スキルで何か見てましたか」
「少し」
「何か気になることがありましたか」
俺は少し考えた。
「土が薄い感じがします。この辺り」
「薄い?」
「魔素が少ない。ラングフォードの、改善前に近い感触です」
マリスが窓の外を見た。
「……それって」
「まあ、移動中に詳しくは分からないです。気になっただけです」
「気になっただけ、でこういう顔はしないですよ領主様」
(どんな顔をしているんだ俺は)
四日目の夕方頃から、道が混み始めた。
荷馬車、旅人、騎馬の者。往来が一気に増えた。
クロヴィスが窓から顔を出した。
「王都まで、あと四刻ほどです。この道は王都の手前で合流するので、このくらいの混み具合になります」
「いつもこうですか」
「夕方が多いですね。昼間に移動してきた方々が集まります」
マリスが「四刻」と呟いた。
「そうしたら夜に着くじゃないですか」
「用邸には灯りを用意してあります。ご不便はないかと」
「そういうことじゃなくて」マリスが少し眉を寄せた。「暗い中で王都に入るんですか」
「夜のうちに入ることになります。見栄えは良くないかもしれませんが、明朝早くからお時間があるかと」
「ガレットさん」
「はい」
「王都って夜でもうるさいですか」
ガレットが御者台から答えた。
「大きい街は、夜も動いております。静かではないかと」
マリスが「うわ」と言った。
しばらくして、馬車が緩やかな丘の上に差し掛かった。
前の馬車が止まった。クロヴィスが手で「こちらを」という仕草をした。
俺とマリスが馬車から降りた。
夕暮れの空が広い。丘の向こうに、光が広がっている。
王都アルザスだった。
遠くまで明かりが続いている。建物が重なり合って、空を背景に稜線を作っていた。
(大きいな)
率直にそう思った。それだけだった。
マリスが隣で止まっていた。
しばらく黙っていた。
「……大きいですね」
声が、少し抜けていた。
「そうですね」
俺が答えた。
マリスがこちらを向いた。
「以上ですか」
「何がですか」
「感想が」
「そうですね、くらいしか」
「もっと言うことがあるでしょう!!」
「……規模がすごいですね」
「それは今私が言いました!!」
(何を言えばいいんだ)
(でかい、というのは分かった。それ以上に何があるんだ)
クロヴィスが微かに口の端を動かした。
「感慨はございましたか」
「感慨」
俺は少し考えた。
「でかいですね、という感想が主です」
「……そうですか」
「クロヴィス殿は、毎回ここを通るんですか」
「はい、王都への帰還の際は」
「慣れますか」
クロヴィスが少し止まった。
「……ある程度は。ただ、初めて見た時の感覚は少し残っているかもしれません」
「どういう感覚でしたか」
「遠いところに来た、という感覚でしょうか。私もこの大きさを目にした時は、少し声が出ませんでした」
マリスが「そうですよね!! 普通そうなりますよね!!」と言った。
クロヴィスが静かにマリスを見た。
「副官殿は、いかがでしたか」
「声が出なかったです。領主様に感想を求めたら「そうですね」と言われましたが」
「……そうですか」
クロヴィスが俺を見た。
俺は空を見た。
(二人から見られている)
(何か言うべきか)
「規模が想定を上回っていたとは思っています」
「……それは感慨として受け取ってよろしいですか」
「どうぞ」
馬車に戻った。
ガレットが来たことがあるか、聞いてみた。
「若いころに、一度」
「そうですか」
「父君のお供で参りました。その頃はまだ家令見習いで」
ガレットが続けた。
「今より街が狭かった気がしますが、この目で見ると分からなくなります」
「今と比べて、どうですか」
「大きい、という点では同じでございます」
マリスが「ガレットさんは動じないですね」と言った。
「年を取りますと、驚き方が変わります」
「変わりますか」
「驚かないのではなく——驚いた後の処理が早くなります」
マリスが「なるほど」と言った。
「私もそうなれますか」
「なれます。だいぶ成長されております、副官殿は」
マリスが「……ありがとうございます」と少し照れた。
(ガレットが褒めるのは珍しい)
(たまに言うから効くんだろうな、あの人は)
王都に入った。
大門が見えた。衛兵が立っていたが、クロヴィスが書状を見せると手早く通してくれた。
中に入ると、音が変わった。
石畳の音。人の声。荷車の軋み。何か焼いている匂いが混ざっている。
マリスが窓から顔を出した。
「……すごい数の人がいますね」
「夕方ですからね」
「夕方でこれですか」
「昼間は多分もっと多いかと」
「……やばいですね」
「まあ、慣れれば」
「まだ着いて五分も経ってないですよ!?」
(慣れるのに時間がかかるだろうとは思った)
王国政務院の用邸は、大門から少し中に入ったところにあった。
クロヴィスに案内されて、馬車が石造りの建物の前に止まった。
正面の扉が開いた。迎えの者が出てきた。三人ほど。きびきびと動いている。
「お荷物はこちらで」
「寝所はご用意できております」
「お風呂も火を入れておりますが、食事を先になさいますか」
次々と声をかけてくる。
マリスが「あ、はい、え、は」と同時にいくつかの方向に顔を向けていた。
ガレットが静かに割り込んだ。
「荷の整理は後ほど。寝所を先にご案内いただければ。食事は三十分後に」
「承知しました」
マリスが小声でガレットに「助かりました」と言った。
ガレットが「これが私の仕事でございます」と静かに言った。
内装は、想像より豪華だった。
廊下の床が磨かれた石。天井が高い。壁に燭台が等間隔に並んでいる。
ラングフォードの館とは段違いだった。
マリスが小声で「ここに泊まっていいんですか」と言った。
「用邸ですからね」
「でも、すごくないですか。廊下だけでうちの応接室より広い気がします」
「……まあ、大国ですから」
「領主様は驚かないですか」
「驚いてます、内心では」
「内心では!! また!!」
クロヴィスが振り返った。
「何か問題がございましたか」
「いえ」
「……あ、私もいないです。問題」
マリスが慌てて付け加えた。クロヴィスが静かに前を向いた。
寝所に荷を置いた後、食堂に通された。
テーブルに料理が並んでいた。
マリスがまた少し固まった。皿の数が多い。俺も何が何か、半分くらいは見ただけでは分からなかった。
「なんか食べましたか」
マリスに聞いた。
「……三日間の移動中の話ですか」
「いえ、今」
「今は、まだ手をつけてないです」
「食べていいですよ」
「でも、どれから手をつければいいか——礼儀とかありますか、順番が」
「ガレット」
「はい」
「順番は」
「外側から手をつけていただいて差し支えありません。ただ、すべてに手をつける必要はございません。お好みで」
「ありがとうございます」
マリスが外側の小皿から一つ取った。
「……美味しい」
「良かった」
「悔しいくらい美味しいです」
「何が悔しいんですか」
「王都料理に素直に感動したくないんですよ。気持ちの準備が追いつかないので」
俺は手近な皿を取った。
(美味しい。が、疲れているせいもあるかもしれない)
クロヴィスが向かいに座った。
「明日の朝、改めてご予定をお伝えします。明後日から王国政務院での会合が始まります」
「その前に確認しておきたいことがあります」
「何でしょう」
「聞かれることの範囲を、大体でいいので教えてもらえますか。土地回復の手法、というのは分かっているんですが」
「はい。土壌改良の経緯、魔素の変化の記録、湧き水についての詳細——それと、この地域の地形的な特性についてもご意見をお聞きしたいと王国政務院から伝えられています」
「地形的な特性、というのは」
「山脈の水脈の状態や、土の構成について。専門家も同席する可能性があります」
俺は少し考えた。
(専門家が同席する)
(地下の話に、ある程度踏み込んでくるかもしれない)
「分かりました。明日の朝、もう少し詳しく教えてもらえますか」
「はい、もちろんです」
食事が終わった。
マリスが「疲れました」と正直に言った。
「三日間の移動ですからね」
「移動より、着いてからの方が疲れました。情報が多すぎて」
「まあ、今日は寝た方がいいです」
「はい……あ、でも」
「なんですか」
「礼儀の確認、ガレットさんに聞くの忘れてました。明日でいいですか」
「明日以降に聞いておいてください。俺も聞きます」
「二人でガレットさんに教わるんですか」
「一緒に聞いた方が効率いいです」
「……まあ、そうですね」
マリスが廊下に出ていった。
ガレットが静かに俺を見た。
「若様も、お休みになった方が」
「少しだけ確認したいことがあります」
「スキルの件ですか」
「はい」
ガレットが頷いた。
「何かありましたら、お声がけください」
「ありがとうございます」
部屋に戻った。
窓を少し開けた。王都の夜が入ってきた。人の声と、石畳の音。馬の蹄の音が遠くにある。ラングフォードとは全然違う夜だった。
椅子に座って、スキルを使った。
領地からは遠く離れている。ラングフォードの状態はもう感知できない。
俺がスキルで確認できるのは、今いる場所の周辺だけだ。
この用邸の足元、地面の状態を探った。
石畳の下、基礎の石、その先の土——
(薄い)
道中で感じたのと似た感触だ。魔素が少ない。
(王都の土も、あまり状態が良くないのか)
(まあ、大きい街の下は土が締まって循環が悪くなるとは思うが)
もう少し深く向けた。
地下の構造が、薄ぼんやりと浮かぶ。水脈がある。下水の石管らしきものがある。岩盤の層——
俺は止まった。
何か、ある。
岩盤の下に、何かがある。
ラングフォードの地下で感じたのとは、また少し違う感触だ。でも、引き寄せられるような感覚は同じだった。
(引き、か)
もう少し意識を集中した。
黒ずんだ、というよりは——重い、感じだ。質量があるような、密度のある何か。
(ここの地下も、何かある)
思った以上に、大きい気がした。
ラングフォードの地下で感じているものより——範囲が広いかもしれない。
(……面倒なことを見つけた)
しばらく確認した。
振動は、今のところない。ラングフォードの地下で感じたような規則的ではない揺れは、今夜はない。
ただ、重さは確かにある。
(これは偶然か)
(それとも、ラングフォードと繋がっているのか)
俺は確認をやめた。
今夜一晩で答えが出ることではない。
ガレットに、明日伝えた方がいいかもしれない。王国政務院との会合でも、地下の話が出るならば——少し、気をつけて聞いておく必要がある。
(向こうが知っている可能性がある)
(それを知った上で、俺に話しかけてくるかもしれない)
窓の外を見た。
王都の夜は明るい。燭台の光が建物の間から漏れている。遠くに大きな建物の影が見えた。王宮だろうか。
(テルミス大国の王都か)
(ここに来た理由は土地回復の話だが——地下の話は、どこまで向こうが知っているのか)
(ドランク王が「山脈の地下」と言っていた。クロヴィスが「地形的な特性」と言っていた)
(二人とも、地下に何かあることは知っている、か分かっている、か、少なくとも関心を持っている)
俺はもう一度スキルで地下の感触を確認した。
重さは、まだある。
(ここの地下も、何かある)
(ラングフォードとここが繋がっているとしたら——範囲は俺が思っていたより全然広い)
記録帳を引っ張り出した。
「王都。地下に重さの感触あり。振動は今夜はなし。ラングフォードとの関連、要確認」
それだけ書いた。
(明日から記録を続ける)
灯りを落とした。
ラングフォードは遠い。ゴードンが畑を持っている。ヨムが水路を確認している。ガレットが書いてくれた段取り通りに、動いている。
(大丈夫だ)
(たぶん)
王都の夜音が、窓の外から続いている。石畳の向こうで誰かが笑っている声がした。
俺はそれを聞いたまま、目を閉じた。
地下で何かが、静かに、重くある。




