31 二頭
悲鳴は一度だけ。
女性のものだった。
バッツは声のほう。
道という道ではなく、木々の間を通る。密集していて見通しは悪い。
それ以上声は聞こえなかった。
なにか被害にあったのだろうか。それはどういったものだろうか。
徐々に歩調をゆるめ、歩いていくと急に、ぬっ、と木の間から男女が現れた。
男二人、女ひとり。いずれも二十歳近くの年齢だろう。
男のひとり、頭から一筋、目の横を通ってあごへと血が伝っていた。
「だいじょうぶですか」
バッツが言うと、彼らはぎょっとして立ち止まった。
「なんだ君は」
「おい」
もうひとりが言うと、口をつぐむ。
そして声をひそめた。
「いいか。この先に大きなブラック・ベアがいる。逃げてきたところだ。君もここにいると危ない」
と血を流している彼は言った。
周囲を確認する視線も、体の動きも、特に大きな問題はなさそうだとバッツは思った。
「君も仲間をやられたのか?」
ひとりでいるバッツにそう言いつつも、落ち着き払っているのを不審そうにしている。
「ちょっと、もう行かないと」
じれったそうに女性が言うと、男ははっとした。
「ほら、行こう」
とバッツの肩に手をかけようとしたが、バッツはすり抜けるように前に出た。
「おい!?」
「ちょっと見てから行きます」
「はあ!?」
「もう行こう!」
バカ野郎、と誰かが言うと、三人は走り去った。
バッツは彼らを見送り、反対方向に歩いた。
木の間隔がすこしずつ開いていく。
土ばかりだった足元が徐々に草原に変わっていく。
そしてぱっと視界がひらけた。
ひらけたといっても訓練場ほどの広さなどなく、せいぜい教室くらいだったがそれでもバッツは広く感じた。
しかし感覚が歪む。
バッツは見上げていた。
通常の1・5倍ほどの大きさのブラック・ベアがいた。
しかも二頭。
1・5倍ともなれば、リーチの長さもあるが体積は3倍以上になる。その大きさで感覚がくるったのかもしれない。
開けた草原に、二頭が、バッツを見ていた。
バッツは剣をさぐり、柄をつかんだ。それから離す。柄を持つには早すぎる。
しかし、一度に一頭しか相手ができない、そう英雄学校で指摘されたことが、バッツを焦らせていた。
距離は5メートルもない。大きく一歩出て、体を屈めながら前足を振り下ろせばバッツに届くだろう。
逃げるしかない。
そう思ったとき、ブラック・ベアが一歩前に出ようとした。反射的にそちらの動きを止める。
するともう1頭が動く。
急いでそちらに対応する。だが情報が混ざる。
嫌な感覚だ。
ぐちゃぐちゃと頭に入り込んできて、そう、気持ちが悪い。
対応はする。
ブラック・ベアたちは前に出てこない。
だがバッツも動けない。どんどん頭が働かなくなっていく。
徹夜明けに似ていた。
気を抜くと頭が思わぬ方向を向いてしまうような気がする。
父の姿がなぜか頭に浮かんだ。
すこし、右のブラック・ベアが前に出た。
そうバッツが思ったら、どちらとも半歩動いた。
いけない、と急いで集中を高める。
しかしさっきまでだって、別に手を抜いていたわけじゃない。
頭がぐっと重くなる。
視界がゆがむ。頭がくらっと、まるで眠りに落ちる寸前のように気が遠くなりかけた。
足をふんばる。
初めての状態だ。
だが止めること自体はできている。
ならば父ならできるのだろうか。
逃げることはできないだろう。
だが相手をすることもおそらくできない。
剣を抜いてみようとしたが、またブラック・ベアが半歩出てきた。
頭が重い。
家の近所の森では二体同時に出てくることなどなかった。父も練習をさせようともしていなかったから、それが通常なのだろう。
では、これはやはり異常なのだ。
いや、考えてみればいまこのときも、この森に同時にブラック・ベアが現れているはず。
なら、これ自体は普通のことなのか?
できることといえば、このまま誰かが来るのを待つことだ。
アースラが通りかかればすぐなんとかしてくれるだろう。
さっきのような参加者ではだめだ。いや、でも自力で逃げることはできていた。
バッツは参加者の中では下の方なのだ。
父の作っている薬湯の水面を思い出した。
吊ってある人形の糸が切れるように、倒れる自分が想像できた。
頭がくらくらして、ぐらりと体が傾き、二頭のブラック・ベアがつながった。
一頭に見えた。
急に意識がはっきりした。
バッツは前に向かって歩いてき、いつものように、ただ順番に、ブラック・ベアを始末した。
手こずった部分はあった。
通常、前足と後ろ足は二本ずつ。それが四本ずつになった。
それに対応する自分の体の動かし方が、やや難しかった。
ただそれだけだった。
二頭を一頭だと思えばいい。
思わぬ解決法だった。




