第48話 包帯を巻き直す
包帯は左手では巻けない。
3周目でほどけた包帯が、右の手首から居間の床へ白く伸びている。テーブルの上では、病院でもらった湿布の箱が口を開けたままだ。
先週の土曜に、第17層の崩れた岩から天野さんを掘り出して、今日は金曜の夜だ。岩を支えた右手は手の甲まで腫れたまま、まだ握れない。陽菜は出かけていて、家には俺1人しかいない。
箱の注意書きには『患部を清潔にしてから貼ってください』とある。言われたとおり左手を台所で2回洗ったのに、爪の間には土が黒く残った。
この注意書きを書いた人は、土を相手に暮らす手を知らないらしい。
ソファに移って、左手でスマホを開いた。
第10層の踊り場で天野さんを釣り役に誘った、首に赤いタオルをかけた代表のパーティが、中層の後半から配信している。今週から、天野さんはこのパーティの釣り役だ。
どんな顔で潜っているのか、気にならないと言えば嘘になる。
『金曜はこれ見て寝る』
『今日も澪さんいる』
『新しい釣り役、待ってた』
代表が、仲間と通路の角で待ち構えている。
通路の奥から、天野さんが早足で戻ってくる。そのすぐ後ろから、オーガが1体ついてきていた。
天野さんは走らない。オーガが近づくと少しだけ足を速め、離れると緩める。オーガとの間合いは、角に着くまで1歩も狂わなかった。
角の手前で、天野さんは横の壁際へよけた。入れ替わりに、パーティの前衛が前へ出る。
『澪さん釣りうますぎ』
『距離ずっと一定なの何』
『オーガが散歩してる』
『いい釣り役入ったな』
画面の端の天野さんは、いつもの青緑の上着だった。裾が、今日も同じ向きにはためいている。
戦いが始まっても、天野さんは壁際から動かなかった。
パーティの4人がオーガを囲む。4人とも動きに慣れていて、見ていて危なげがない。
オーガが大きくよろけて、囲みの外へ出てきた。
よろけた先は、壁際にいる天野さんのすぐ前だ。
天野さんが、右の手のひらをオーガへ向けた。
前髪がふわりと浮く。風を使う気だ。
誰かに頼まれたふうではない。自分で上げた手だった。
俺はスマホを持つ左手に、知らないうちに力を入れていた。
天野さんの風が出るより先に、前衛がよろけたオーガに追いつき、オーガと天野さんのあいだへ横から体を入れて押さえこんだ。天野さんをかばったように、俺には見えた。
「天野さんは、下がってて大丈夫っす」
代表が振り向いて、笑っていた。
天野さんは左の手首の布を見て、手を下ろした。
『代表やさしい』
『澪さんの風、味方の魔法まで曲げるしな』
『釣りだけで十分えらい』
『ケガしたらもったいない』
それから黙って、壁際の元の場所へ戻った。
オーガはパーティの4人が囲んで倒す。
『今日も澪さん100点』
『釣り役って地味だけど大事』
天野さんは、画面の端で小さく頭を下げていた。
試しに、自分の声で言ってみた。
「前には、出ないでください」
崩落の日の朝、配信を始めた踊り場で、俺が天野さんに頼んだ言葉だ。声に出すと、「下がってて大丈夫っす」と同じくらいやさしく聞こえた。
スマホは画面を下にしてソファに伏せた。
代わりに、ステータス画面を開く。
先週は、最後の岩の前でMPが尽きた。
《MP自動回復》は、魔法を使っている間もMPを少しずつ戻すスキルだ。スキルptを5払えば、Lv2に上がる。
払うことにした。
【《MP自動回復》がLv2になりました】
レベルが上がったときと同じ頭の中の声が、散らかった居間でも鳴る。
これでMPの戻りは1分に5ほどになり、今までの3ほどより半分以上速くなった。
それから、明日の調査の支度をした。
研究所のラベルが付いた空き瓶2本は、調査の土を詰めて研究所に納める分だ。家に持ち帰る自分の瓶1本と泥団子5つの袋も入れて、鞄のファスナーを左手で閉めた。
居間の棚にある俺の段には、潜った層の土を自分の瓶に詰めて並べてある。上層の瓶がずらりと続き、その端に中層の瓶が2本だけある。第11層と第17層だ。
下層の瓶はまだ1本もない。
下層へ下りる階段は、第20層の中間ボスがいる広間の奥にある。その中間ボスを倒したことのない人間は、階段を通れない。
その広間を、俺はまだ一度も見ていない。
玄関の鍵が開いたのは、10時を過ぎたころだった。
「ただいまー」
居間に入ってきた陽菜は、まず床に伸びた包帯を見た。
それから伏せたスマホと、ふくらんだ俺の鞄を見る。
最後に、陽菜は俺の右手を見た。
「兄ちゃん、包帯へたすぎ」
声はいつもどおり、兄をからかう調子だった。
陽菜は肩の鞄を床に下ろし、伏せたスマホを脇へよけて俺の隣に座った。
よけたスマホに、陽菜はもう一度目をやる。
「天野さん――」
陽菜はそこで止まった。
天野さんの名前のあとが、出てこない。
陽菜は黙って、俺の右手を取る。
自分の膝に載せて、俺の巻いた包帯をほどいていく。端を留めてもいない包帯は、すぐに手から抜けた。
ずれていた湿布を一度はがし、腫れのいちばん高い所に貼り直す。外から帰ったばかりの陽菜の指は、まだ冷たかった。
それから新しい包帯を、手首から巻きはじめる。
陽菜は1周ごとに包帯をぴんと張って、たるみを潰した。
俺が3周で投げ出した包帯を、陽菜は時間をかけて、何周も重ねていく。
「……ちょっと、きつくない?」
陽菜は答えなかった。
手も止めない。次の1周も、同じ強さで張る。
巻いている間、陽菜は一度も顔を上げない。
伏せたスマホの横で、俺の右手は陽菜の膝の上にあった。
陽菜が笑っていない。
何を言いかけたのか、俺は訊けなかった。
冗談の1つでも言えば、陽菜はたぶん笑ってくれる。それが分かっていても、言葉が出てこない。
最後の端を留めて、陽菜はやっと顔を上げた。
「ゆるいと、治んないから」
それだけ言って、陽菜は立ち上がった。
鞄を拾って、自分の部屋へ入っていく。ドアは静かに閉まった。
右手を持ち上げてみる。
固い。指が1本も曲がらない。自分で巻いたときは、少なくとも指先くらいは動いた。
それでも、ほどいて自分で巻き直す気にはなれない。
左手で、土のことを書きためている方眼ノートを開いた。
『第20層 中間ボス』と見出しだけ書いたページの下は、まだ白い。
見出しの下に、左手で『10月19日』と書いた。明日、土曜の日付だ。
字が右下がりに傾いている。
陽菜の部屋のドアは、閉まったままだ。
包帯で固まった右手を、ノートの上に置いた。
「明日、1人で第20層の中間ボスの広間を見てくる」




