第47話 釣り役の誘い
包帯を巻いた右手を胸に抱えて、俺は階段を上っていた。
一段下を天野さんが黙ってついてくる。青緑の上着はまだ粉で白い。足元の砂だけが、いつもの向きに這って回っていた。
第17層の崩れた岩の下から天野さんを掘り出して、ここまで2人とも口をきいていない。
這い出した直後の天野さんに、「閉じ込められてからしか、私の風、使いませんでしたね」と言われた。俺はまだ、何も返せていない。
『澪さん無事でほんとよかった』
『土F兄の手は大丈夫なの』
胸のカメラの向こうは、まだ天野さんの無事で持ちきりだった。
無事、の文字を読んでいるうちに、肩に入っていた力がやっと抜けた。
手がどうなっているのかは、俺にも分からない。握ろうとしても、指が言うことを聞かないのだ。
『てかオーガはじいたあの石なに』
話が、崩れた岩の欠片を固めた石の団子に移った。第17層で体の周りに3つ浮かべて、オーガの棍棒をはじいた石だ。
『粒が固まってて岩おこしみたい』
『岩おこしだ』
『泥団子の次は岩おこし』
俺の知らないところで名前が決まっていく。
「……岩おこしより先に、俺の爪が2枚割れましたけどね」
自分の口で呼んだ以上、もう取り消せない。
苦笑いした拍子に、包帯の下でずきんと脈が鳴る。
『澪さん、次も土F兄と潜るの?』
『また2人で中層行ってほしい』
左手で、腰の泥団子の袋に触れた。また一緒に下ります、と口が先に答えかける。
その前に、崩れた岩で埋まったくぼみが頭に浮かんだ。天野さんはあの暗い奥で、俺が岩をどけるのを待っていた。
あれだけ怖い思いをして、また中層へ下りたい人はいない。
一段下の天野さんに聞こえるのは、分かっている。振り向かないまま答えた。
「天野さんは、もう中層には来ないと思います」
天野さんの足音が止まる。
振り向くと、天野さんは俺が胸に抱えた右手を見ていた。
何も言わずに、天野さんはまた上りはじめる。
第10層の踊り場に出ると、首に赤いタオルをかけた若い男が手を上げた。
ミノタウロスを倒した日に、「次、うちと組みません?」と声をかけてきた、4人のパーティをまとめている代表だ。転移陣の白線の脇で、仲間の3人も待っていた。
階段の上から2段目で、俺の予想が外れるたびに回数を言うハズレが、人がいるので小石の姿のまま黙っている。
「天野さん!」
代表が先に駆け寄ってきた。
「配信、ずっと見てました。出てこられて、ほんとよかったっす」
「……ご心配を、おかけしました」
天野さんが小さく頭を下げる。
代表は次に俺を見て、言葉の途中で顔をしかめた。
「あの岩おこし? オーガはじいたやつもすごかったっすけど。それより黒沢さん、その手」
「指が曲がらないだけです。たぶん」
「たぶんて」
代表はタオルの端で首をかいて、言いにくそうに続けた。
「で、この前の、うちと組まないかって話なんすけど。手が治ってからでも全然――」
「この手なので」
代表が言い終わる前に、断りが先に出ていた。
今日、崩れないと踏んだ壁が崩れて、天野さんを岩の下に閉じ込めたばかりだ。これ以上、誰も巻き込みたくない。
「……っすよね。そりゃそうだ」
代表は苦笑いで一歩下がって、天野さんのほうへ向き直った。
「じゃあ、天野さんに。うち、あのあと4人ともCに上がって、今は中層の後半に潜ってるんすけど。釣りができる人がいなくて」
代表は、粉で白い天野さんの上着をちらっと見た。
「戦いには出なくていいんで、うちで釣り役をやってもらえませんか。モンスターを連れてきてもらえたら、あとは俺らがやります」
『え、引き抜き?』
『澪さんにスカウトきた』
『このタイミングで?』
天野さんはすぐには答えず、代表ではなく俺の顔を見た。
俺は思った。4人のパーティの後ろなら、俺みたいに天野さんをくぼみへ入れる者もいない。
「いいと思います」
天野さんの目が、左の手首に結んだ細い布へ落ちて、迷うといつも見るその布の上で、少しのあいだ止まった。
それから顔を上げて、代表のほうを向く。
「……お願いします」
「よっしゃ!」
代表がタオルの端をつかんだまま、片手を突き上げる。後ろの3人も顔を見合わせて笑っている。
「週明けから、どうすか。うち、平日の夕方も潜ってるんで」
「はい。週明けから」
『え』
『澪さん移籍!?』
『相方取られた』
『土F兄、今いいって言ったよね』
『止めないんだ』
コメントが一気に流れていく。
パーティの3人は軽く頭を下げて、第11層への階段を下りはじめた。
代表は最後に振り向いた。
「天野さん、週明け、入口で。黒沢さんは手、お大事に」
足音が階段の下へ遠ざかっていく。
天野さんは転移陣の白線の内側へ入って、こっちを振り返った。
「掘り出してくれて、ありがとうございました」
それだけ言って、天野さんは頭を下げた。風の話も、掘り出した直後の一言の続きも、出てこなかった。
足元から光が上がり、天野さんの姿が白線の中で薄くなっていく。青緑の上着の肩から先に光にまぎれて、手首に結んだ細い布だけが最後まで残って見えた。
手を振ろうとして、振る手が包帯に巻かれて胸の前にあるのを思い出した。
左手を上げればよかったと気づいたのは、光が消えてからだ。
踊り場に残ったのは、俺と、階段の小石だけになった。
その小石から、短い足が2本出る。石のヘルメットの下で、半分閉じた目が開いた。人がいなくなると、こいつはいつもこうだ。
ハズレは段を上がって、踊り場の床をこっちへ歩いてくる。
そのまま、俺の靴に体をくっつけて座った。階段で冷えていた石の体の冷たさが、靴の革ごしに足の甲へ伝わってくる。
「外れ。35回目」
『え、何が?』
『今日の外れって、壁のやつ?』
「……何の外れだ」
ハズレは答えず、見上げてくるだけだ。
その場で聞いた外れしか数えないこいつが座っていたこの階段で、俺が口に出した予想は1つしかない。
天野さんは、もう中層には来ない。
配信の題の末尾に「外れ」と足して、配信を切った。
ハズレは俺の靴の横から動かなかった。




