第45話 壁のくぼみ
配信を始めた踊り場に、天野さんが立っていた。
青緑の上着を着て、潜るときの鞄を背負っている。足元では、天野さんのまわりにいつも回っていて本人にも止められない風の渦が、砂を這わせていた。今日ここへ来るとは一言も聞いていない。
第17層でオーガを2体倒してから、ちょうど1週間がたった。今日も1人で第17層へ下りるつもりで、天野さんには、土曜は1人で潜ると前に言ってあった。
1人で潜る予定は、配信を始めて1分で崩れた。
天野さんが立つ横の岩の壁には、白く剥がれた跡がある。オーガを倒した日の帰りに、俺が小石を引き寄せて当てたら、表面が薄く剥がれた所だ。
平日の行き帰りに、剥がれた跡の割れ目へ指を当てて土を流した。割れ目に詰まった土が粉になってこぼれ、奥へ少し入って止まった。
粉が奥まで届かずに止まったから、この壁は割れ目のない一つの岩だと読んだ。剥がれたのは、壁の表に貼りついた、板のように薄い層で、ノートには『表の層が薄かった』とだけ書いた。
オーガを倒した日のノートの行『しまがまっすぐな壁なら、使える』に、粉が途中で止まることを1つ足して、俺の決まりにした。
『相方の澪さんきた』
『え、今日2人?』
『兄、聞いてない顔してる』
配信の題は〔第17層 岩の壁へ泥団子を引き寄せる〕だが、コメントは誰も題を見ていない。始めた時点の同時接続数は41,000。
「先週の配信、見てました」
天野さんは俺の顔より先に、膝のあたりを見た。
「オーガを倒したあと、膝をついてましたよね」
「あれはMPが切れただけで、怪我はしてないです」
「今日は、私も第17層に行きます」
自分の行き先を、そのまま言っただけの声だ。
風向きを見るために左の手首に結んだ布がある。迷うといつも見るその布にも、今日は目を落とさない。
「いや、今日は俺1人で――」
「1人で行くって聞いたので、私も1人で来ました。黒沢さんがどこへ行くかは黒沢さんが決めればいいし、私がどこへ行くかは私が決めます」
天野さんは俺の横を抜けて、先に中層への階段へ足をかけた。
階段の上から2段目では、俺の外れを数える、小石の姿のハズレが黙っている。天野さんの靴がすぐ横を通っても、小石のまま動かない。
止める言葉を探して、1つも出てこなかった。
それに、ここで別々に下りれば、天野さんは1人で中層の後半を歩くことになる。そっちのほうがよほど危ない。
だったら、一緒に行って、俺の後ろにいてもらうしかない。
「……一緒に行くなら、お願いがあります」
天野さんが2段下で振り返った。
「後ろにいてください。渦は、ミノタウロスのときと同じで、泥団子を曲げるのにだけ使ってください」
ミノタウロスを倒した日、天野さんの渦の縁をかすめた泥団子は、飛ぶ向きを曲げてあいつの頭に当たった。
「前には、出ないでください」
確かめていない使い方で、天野さんが傷つくのが怖い。
天野さんは、そこで初めて左の手首の布に目を落とした。
布を見ていたのは2秒くらいで、そのあいだに何を考えていたのかは、俺には分からない。顔を上げた天野さんの返事は、さっきより少しだけ小さかった。
「……わかりました」
『え』
『前に出るな、か』
『なんか空気変わった』
『兄、過保護?』
天野さんは何も言わずに、また階段を下り始めた。
◇
第13層の手前で、天野さんが後ろから声をかけてきた。
「あの、釣りましょうか。風で砂をかけて気づかせて、戦いやすい所まで連れてきます」
「いえ。今日は避けて通ります」
釣りは、天野さんが1人で前へ出ることだ。階段で、前には出ないでと頼んだばかりだから、断った。
第16層の角で、もう一度聞かれた。
「……釣りましょうか」
1回目より声が小さい。断られるつもりで聞いている声だった。
「いえ、避けます」
天野さんは返事をしなかった。
『空気重い』
『兄、何か話して』
『畑の魔法の《土壌改良》は?』
『今日は畑耕さないの』
話すことがないなら、聞かれたことに答えるしかない。
「《土魔法:土壌改良》は、土を作物がよく育つ柔らかい土に変える魔法です」
「ただ、魔法はダンジョンの中でしか使えなくて、ダンジョンに畑はありません。使い道は、今のところゼロです」
『真面目に答えるな』
『詰んでる魔法で草』
後ろで、小さく吹き出す音がした。
振り向いたときには、天野さんは顔の下半分を手で隠して、通路の壁のほうを向いていた。
笑うんだな、と思う。それだけで、下りる足が少し軽くなる。
『今の笑い声だれ』
『相方ウケてて草』
天野さんはそれきり、また黙ってしまう。
◇
第17層の奥へ続く通路は、オーガと戦った通路とは別の道だ。床は乾いた白っぽい岩で、壁際に乾いた土が溜まっている。
通路の右の壁に、人が1人立って入れるくぼみがあった。天野さんは、俺の3歩後ろにいる。
首筋がぞわっとした。《気配察知》が働いている。
通路の奥から、大きいのが2つ来る。遅れて重い足音が耳に届き、オーガの2体連れだと分かった。
「釣ります」
天野さんは、もう前へ出かけていた。
俺は天野さんの前に腕を出して、右の壁のくぼみを指した。
「くぼみに入っていてください」
くぼみの中までは、棍棒は届かないはずだ。
「でも、あの――」
天野さんは言いかけて、黙った。
そのまま背中からくぼみに入る。足元の砂が、くぼみの中でも同じ向きに這って回っていた。狭い所に入っても、渦は止まらない。
俺は通路を渡って左の壁際へ行き、右の壁と向き合ってしゃがんだ。壁際の乾いた土に手をつく。
俺の正面の壁には、オーガを倒した壁と同じしまが、横へまっすぐ通っている。そのしまの壁から右へ3メートルほどの所が、天野さんの入ったくぼみだ。オーガの来る通路の奥は、俺の左になる。
しゃがんだまま、くぼみのほうを一度見た。泥団子が飛ぶのは目の前のしまの壁までで、くぼみの前は通らない。
床についた手から、しまの壁の割れ目へ土を流した。
割れ目に詰まった土が粉になって、一筋こぼれていく。
粉は数センチ入ったところで止まった。ここも割れ目のない一つの岩だと読んだ。
いつもなら、ここから割れ目を端から端までたどる。
左の奥で足音がまた一つ大きくなり、棍棒の先が岩の床をこする音まで聞き分けられるようになった。一歩ごとの重さが、床についた手のひらまで響いた。
あいつらの歩幅なら、ここに着くまで十数秒しかない。割れ目をたどりきるには、その倍はかかる。
くぼみの中の天野さんにも、この足音は聞こえているはずだ。自分の行き先は自分で決める人だ。あと少し近づけば、きっと出てくる。
俺は割れ目をたどるのをやめて、泥団子をこのしまの壁へ引き寄せると決めた。
『兄、もう来る』
『隠れなくていいの』
『澪さん大丈夫?』
答える暇はなかった。
◇
オーガが2体、通路の奥から姿を見せた。
丸太のような棍棒を提げ、鼻を鳴らしながら、通路の真ん中をこっちへ来る。背は天井の半分に届きそうで、肩の幅は俺の倍ある。
においで探しているのか、先頭の鼻先が右の壁のほうへ一度向いた。くぼみのある側だ。
俺は腰の袋から泥団子を1つ出して、右手に握った。
『でか』
『オーガ2体』
『兄、しゃがんだまま?』
先頭のオーガとのあいだは、もう10歩もない。
先頭のオーガが、俺の目の前を横切りかける。
泥団子の通り道の上だ。
泥団子を投げ、指を離れたところでしまの壁へ引き寄せた。
泥団子が一本の筋になって通路を横切り、オーガの胸を打った。
オーガの体がくの字に折れて、棍棒が床に落ちる。
『当たった』
『胸いった』
次は2体目だと、袋へ手を伸ばしかけたときだ。
先頭の向こうで壁が動いた。
しまの壁の表面が、板を剥がしたように通路のほうへめくれてくる。
めくれた縁から、ひびが壁を横へ伸びていった。くぼみのほうへだ。
ひびは、そのまま天井へ上がっていった。
くぼみの上の天井から、岩が落ちてくる。
天野さんの入った、くぼみの開いた口の内側で、青緑の上着の裾がはためいて、くぼみの中へ引っこんだ。
その口を、落ちてきた大きな岩が1つふさいだ。小さな岩がいくつも、口の外で大きな岩のまわりに積もって、すき間を埋めていく。
『は?』
『崩れた』
『澪さんいたとこ!』
『え、埋まった?』
『澪さん!』
割れ目の土が粉になって舞い上がり、通路が白くなった。
岩の転がる音がまだ続いている。その音の向こうで、オーガの足音が2つ、通路の奥へ遠ざかっていった。追いかける気には少しもならない。
俺は手と膝で通路を渡った。
白い粉が目に入って、前がよく見えない。膝の下で、剥がれた壁の欠片が音を立てて割れる。
くぼみがあった所には、岩の山しかなかった。山は俺の胸の高さまで積もり、その上の天井には、岩の抜けた黒い穴が開いている。
泥団子の通り道は、くぼみから離したはずだった。
なぜ天井まで崩れたのか、今の俺には分からない。
「天野さん」
岩の山の向こうからは、何も聞こえない。すき間に耳を寄せても、自分の息の音しかしなかった。
さっきまで天野さんの足元で砂を回していた渦も、岩のすき間からは見えなかった。
『澪さん返事して』
『岩どかせないの?』
『協会に通報した、第17層って書いた』
『兄、呼び続けて』
同時接続数は52,000まで増えていた。
岩に両手をついて、もう一度呼んだ。
「天野さん!」
返事がない。




