第40話 一投
足首を固めていたはずの土が、なかった。
ミノタウロスに床ごと踏み割られて、背中が床に着いている。見上げた先で、あいつが両手で握ったおのが、肩の後ろへ上がっていく。
体のまわりを回らせていた6つの泥団子は、みんな床に転がっていた。
『逃げて』
『立って立って』
『無理だってこれ』
立てない。左の足首が熱くて、どこに力を入れればいいのか分からない。
刃は肩の後ろで上がりきった。あとは振り下ろすだけだ。
視界の端を青緑の上着が横切った。
天野さんだ。入口寄りの盛り土のそばから、広間の奥へ駆けていく。
段取りを決めたとき、1回目で倒れなかったら奥寄りの盛り土の上へ走ってほしい、と頼んだのは俺だ。
その盛り土がなかった。
親指ほどに盛った土は、床のくぼみの底で平たく潰れている。あいつの足の跡だ。最初に天野さんへ突っ込んだときに、踏んでいったんだ。
寝たまま、床を指した。
「そこで!」
天野さんはくぼみの手前でぴたりと足を止め、手のひらをあいつへ向けた。
手のひらから風が走り、床の砂を巻き上げて、あいつの顔にぶつかった。
振り下ろされるはずの刃は、上がったまま止まった。
あいつはゆっくりと、天野さんのほうへ向き直っていく。
『戻った!』
『澪さん!』
『止まるな、逃げて』
天野さんは動かない。前髪が上がったまま、手のひらを向けている。
盛り土は潰れても、くぼみの手前なら、天野さんのまわりで回る風の渦は、まだ俺の泥団子の通り道にかかる。だから、あそこを指した。天野さんは言われた所から動かない。
あいつが一歩踏み出せば、天野さんまでは数歩しかない。
あいつを正面から待つ気だ。俺なら、とっくに背を向けて走り出しているところだ。
床に手をついて、体を起こした。左の足首に重さが乗るたびに、熱が走る。
MPがほとんど残っていなくて、頭の奥に砂を詰めたみたいだ。6つの泥団子を集めて、また体のまわりを回らせる力は、もうない。
床の泥団子を手元へ引き寄せる手もある。ただ、戻ってくる道の真ん中に、天野さんとあいつがいる。引き寄せた泥団子が、天野さんの背中をかすめかねない。
手の届く所に、泥団子が1つ転がっていた。
拾う。
残っているのは、手で投げるこの1つだけだ。
顔を上げた。
向かいの壁に、さっき固めた拳ほどの土がある。奥寄りの盛り土に合わせたほうで、手を離れた泥団子はあの土へ引き寄せて飛ばす。あいつの頭は、ちょうどその手前にある。
泥団子をあいつの頭に通すには、あいつのおのが届く所まで入って投げるしかない。
あそこで振り回されたら、頭ごと持っていかれる。
左足に体重を乗せる。
足首の奥で、骨がぎしりと鳴った。
痛い。痛いけど、立っていられないほどじゃない。
一歩。
見上げる高さに、あいつの肩がある。汗と土の混じった、獣の匂いがした。
止まった人形になら、何度も投げた。動いている相手に、動きながら投げるのは、これが初めてだ。
横目で、天野さんの足元を見た。
床の砂は時計回りに這って回っている。
壁の土は、天野さんが盛り土の上に立つ前提で場所を決めた。けれど今、床の砂の筋は、盛り土の上にいたときより深く寝ている。このまま投げれば、泥団子は流されすぎて頭の向こうへ抜けてしまう。
渦から半歩離れて投げれば、泥団子は渦の縁を浅くかすめるだけで、曲がる幅が減る。
左足をもう一度踏み出した。足首がさっきより鋭く鳴る。
外したら、次はない。
投げた。
指を離れた泥団子を、《引力》で壁の土へ引き寄せる。泥団子は、あいつの頭の脇を抜ける向きへ飛び出した。
同じ瞬間、あいつが天野さんへ向けて、刃を肩の後ろへ大きく振りかぶった。
風を切る音が頭のすぐ上を払って、肩の上に浮いていた、陽菜のお下がりのドローンが砕けた。
白いプロペラの羽根が頬をかすめて飛んでいく。
『え』
『画面!?』
『低っ 胸カメ?』
『何が起きた』
そのあいだも、泥団子は壁へ飛び続けていた。天野さんの渦の縁に入って、曲がる。
曲がった先で、あいつの側頭に吸い込まれた。
鈍い音。
刃が、振りかぶったまま止まった。
あいつが、膝から崩れていく。
床に着く前に、輪郭がほどけて消えた。
ころん、と魔石が1つ転がった。
『倒したああああ』
『勝った!?』
『澪さああん』
『2人で倒した』
『最後の何? 曲がった?』
『ドローン……』
体のまわりを回らせて飛ばす泥団子と同じくらいの手応えだった。それで倒れたのは、先に当てた4つが効いていたからだ。
「……最後のは、当たっただけです」
『それが一番すごいんだよ』
『足ひねって踏み込んだ人が言うな』
『当たっただけ(死にかけ)』
Lvが上がったと知らせる天の声が、頭の中で何度か続けて鳴った。耳には入ってこない。
天野さんはくぼみの手前に立ったまま、自分の手のひらを見ていた。
今になって、膝を小刻みに震わせている。くぼみの手前で足を止めてから、最後まで一歩も動かなかったのだ。
「……最後のも、私が曲げたんですよね」
「天野さんが、曲げました」
天野さんは手を握って、ゆっくり開いた。
それから、何か言いかけて、やめた。
足元に、羽根の欠片が散っている。
少し低ければ、俺の頭だった。
陽菜に、何て言えばいいんだ。
◇
泥団子は袋に、ドローンの欠片は鞄に拾い集めた。壁際の第17層の土は、研究所の瓶と自分の瓶に詰めた。
帰りは、天野さんが転移陣を指した。第10層の踊り場まで歩いて上がれば、入口の近くへ一瞬で出られる。
足首をかばいながら階段を上った。踊り場の階段の上から2段目では、ハズレが石のヘルメットに体を引っ込めて小石になったまま、何も言わなかった。
転移陣の白線の手前で、俺は足を止めた。
「黒沢さん、後ろ、つかえてますよ」
押されるように踏み込むと、もう入口の近くの床に立っていた。
何も起きなかった。かえって、そのほうが足首より落ち着かない。
入口の建物の買い取り窓口で、魔石と冒険者証を出した。職員が端末で照らし合わせ、奥から新しいカードを持って戻ってくる。
「おめでとうございます。Cランクです」
受け取ったカードのランクの欄には、Cと刷ってあった。
何度見直しても、Cの字は変わらなかった。
天野さんが横で、自分の冒険者証をひらひらさせる。
「私は、Cのままです。同じランクの相手でしたから」
窓口の前で配信を切った。同時接続数の最大は51,000と出ていた。
「あの」
振り向くと、首に赤いタオルをかけた若い前衛が立っていた。
第10層の踊り場で俺を「土F兄」と呼び、組むと何が起きるか分からないからと、苦笑いで断った組の代表だ。
「配信、見てました。最後の、あれ」
代表はタオルの端で首をかいた。
「何が起きるか分かんないのは、やっぱり分かんないっすけど。分かんないまま勝つ人なら、話が別なんで」
そこで一度、息を吸い直す。
「土F兄……あ、いや。次、うちと組みません?」
答えが出てこなかった。
俺は新しいカードを持った手を、胸の前で止めたままだった。
何が起きるか分からないと言われた戦い方は、今日もそのままだ。最後なんか、自分から刃の下へ入っている。
「次は、第20層ですね」
俺より先に、天野さんが言った。
「行きましょうよ、一緒に」
組むのは一度だけ、という言葉は、もう出てこなかった。
鞄の中で、ドローンの羽根の欠片がからりと鳴った。
「……はい」




