第39話 運ぶ
今日、ミノタウロスを俺の前まで連れてくるのは天野さんだ。
ただ、天野さん本人にはまだ言えていない。
第17層の奥にある細長い広間の入口に、2人で立っている。入口の脇にある協会の中継器を通して、配信はもう始まっていた。
始めた時点の同時接続数は40,000。陽菜にもらったドローンは俺の肩の上だ。
天野さんが俺と組むのは今日の一度だけで、外したら終わりだと本人が決めている。
広間の奥の端に、ミノタウロスが座っている。
ミノタウロスの手前の床には、前回この広間で挑んだときに残してきた泥団子が6つ、散らばったままだ。拾いに行ける距離じゃない。
「天野さん。三島さんが、第2層で測った日の配信を数えてくれました」
天野さんは前髪を押さえたまま、こっちを見た。
天野さんの足元で、砂が今日も同じ向きに這っている。《つむじ風》が作る渦だ。
「同じ盛り土に立ってもらえば、渦を通った泥団子は、毎回同じだけ曲がります。ずれは指1本分」
少し迷ってから、残りも言った。
「俺の腕より、揃ってるそうです」
天野さんは口を開けたまま固まった。
「……え。あの、私の、渦が?」
「はい」
天野さんは自分の足元を見下ろした。回り続ける砂を、初めて見るような顔だった。
曲がる幅が毎回同じなら、その分を先に狙いに入れておける。
問題はその先にある。
前回この広間で挑んだときは、俺が自分で砂を蹴ってあいつを呼んだ。足首を土で固めて体の周りに泥団子を回らせているあいだ、俺は一歩も動けない。固めていないと、泥団子の勢いに体ごと持っていかれるからだ。
今日は、あいつを天野さんの渦のそばまで連れてきて、俺の前を横切らせなきゃいけない。
動ける人にしか、できない仕事だ。
言えばいい。奥まで行ってあいつに砂をかけ、戻ってきてください、と。
なのに、言葉が出てこない。
砂をかけた相手に、あいつは突っ込む。前回、天野さんが右の壁まで追い詰められたのを、俺はこの広間で見ている。
天野さんは何も言わずに、俺の顔を見て待っていた。
天野さんがふっと目を落とした先は、左の手首に結んだ細い布だった。
布の端が奥から流れてくる空気に揺れている。
天野さんは布から目を上げた。
「釣りは、私の仕事です」
敵の気を引いて、俺の前まで連れてくる役のことだ。中層でホブゴブリンを連れてきてくれたのも、この人だった。
「……天野さんの風なら」
泥団子をもっと遠くまで運べる。
そう言いかけて、口を閉じた。
その使い方なら、天野さんは今日よりもっと前に立つことになる。
「なんですか?」
「いえ。準備、します」
◇
あいつは奥に座ったまま動かない。離れているうちはこっちに気づかないのは、前回と同じだ。
俺は広間の中ほどまで進んで、向かって右の壁に手をついた。乾いた土が掌にざらつく。
「《硬化》」
壁際の土が集まって固まり、拳ほどの土のかたまりが2つ、壁に張りついた。入口寄りに1つ、奥寄りに1つ。手を離れた泥団子は、このかたまりへ引き寄せられて飛ぶ。
広間の真ん中の床には、《土操作》で親指ほどの盛り土を2つ作った。これも入口寄りと奥寄りに1つずつ。天野さんが立つ場所だ。
入口寄りの盛り土から吹く渦は、入口寄りのかたまりへ飛ぶ泥団子を曲げる。奥寄りどうしも同じ組だ。かたまりは、曲がった先があいつの胸になるようにずらしてある。
「1回目で倒れなければ、2つ目の盛り土へ」
「奥のほう、ですね」
天野さんはつま先で奥寄りの盛り土に触れた。
俺は右の壁のかたまりと向かい合う、左の壁際に戻った。土が溜まった所に立って、足首まで土で固める。奥から走ってくるあいつは、俺と右の壁のあいだを入口へ抜けていくはずだ。
腰の袋から泥団子を6つ出して手を離すと、6つは腰の高さで俺の周りを回り出す。いつもの分だけ、MPが減った。
『壁に2つ』
『澪さんが前?』
『前回ここで澪さん追い回されてたじゃん』
『突っ込まれたらどうすんの』
「突っ込んできたら、ぶつかる前に足の土を崩して、よけます」
『軽く言うな』
天野さんが奥へ歩き出した。
座っている巨体へ、1歩ずつ近づいていく。青緑の上着の裾がばたばたと鳴り、足元の砂も一緒に回りながらついていく。
俺はここから動けない。
あと数歩の所で、天野さんが手のひらを前へ向けた。
床の砂が巻き上がって、牛の顔に叩きつけられる。
これで、あいつは天野さんしか見なくなる。
天野さんは背を向けて駆け出した。
ミノタウロスが立ち上がる。角が天井をこすりそうな高さだ。床に立てていたおのをつかんで、肩の後ろへ振りかぶった。
天野さんは入口寄りの盛り土に跳び乗って止まり、振り向いてあいつを待つ。
あいつが走り出した。
まっすぐ、天野さんへ。
『動かない!?』
『来る来る』
『澪さん逃げて』
天野さんは逃げない。あの盛り土の上にいなければ、泥団子の曲がる幅が変わってしまう。
突進の道が俺の前へ伸びてくる。あいつは走り出したら曲がれない。だから、どこを通るかは分かる。
分かるのに、怖い。
天野さんの足元で、砂が回っている。
巨体が、俺の目の前を横切りはじめる。
俺から入口寄りのかたまりへ泥団子が飛ぶ線に、天野さんの渦の縁が重なった。
俺は周りを回る泥団子のうち2つを列から離して、そのかたまりへ引き寄せた。
2つはあいつの前の、何もない所へ飛んでいく。
渦に流されて、曲がった。
曲がった先に、胸があった。
どっ。
巨体が、よろめいた。
天野さんが最後の一歩で横へ跳ぶ。
ミノタウロスは天野さんのいた所を抜けて、何歩も先でやっと止まった。
『曲がった!?』
『曲がって当たった』
『胸いった』
『今の風?』
『澪さん!』
当たった。
前回、外れていったのと同じ曲がり方で。
床に手をついた天野さんが、こっちを見て口を開けている。
ミノタウロスが振り向いた。
天野さんには目もくれず、あいつはまっすぐ俺を向く。打ったのが俺だからだ。
右の壁の側から、あいつが走り出した。壁のかたまりを背にして、俺へ一直線。
今度は曲げなくていい。
また2つ、離す。
1つが肩に、1つが側頭に入った。
巨体が揺れる。
揺れただけだった。
『効いてない?』
『止まらない』
『4発当たってるのに』
泥団子は岩より軽い。当たっても、あの巨体を倒すだけの重さがない。
残る泥団子はあと2つ。MPがずしりと減った。
跳ぶ構えをする。ぶつかる寸前に足首の土を崩して、横へ逃げる。前回、あいつを壁にぶつけたときと同じやり方だ。
あと、5歩。
4歩。
あいつが、止まった。
泥団子の列の、すぐ手前で。
突っ込んでこない。
牛の顔が俺を見下ろしている。見ているのは俺の足元だ。
あいつが片足を持ち上げた。
――踏み下ろされた。
床が、割れた。
足首を固めていた土ごと、砕ける。
支えが消えて、回る泥団子の勢いに体を持っていかれ、足首がねじれる。
割れた土の下から出た岩の床に、肩から落ちた。
周りの列がばらけて、泥団子が床に跳ねる。
『割られた!?』
『足元!』
『兄!』
『立って立って』
『やばいやばいやばい』
影が、かかった。
見上げた先で、おのが肩の後ろへ上がっていく。
周りを回る泥団子は、もうない。
足元の土は砕けて、足首が熱い。
床の上で、泥団子が2つ、まだ揺れていた。




