第34話 風
しゃがんだ女の人の手のひらから、床の砂が一筋、こっちへ走ってくる。
踏み固められた踊り場の床に、こんな量の砂が残っていたのか。砂は細い筋になって、階段に座り込んだままの俺の靴の先で止まった。
女の人の前髪は、そのあいだずっと風にあおられてはためいていた。
まっすぐだ。
砂は筋の途中で、一粒も横へこぼれていない。土の人間の悪い癖で、人の顔より先に砂の流れ方を目で追ってしまう。
俺の《引力》は、触った物へほかの物を引き寄せる。それで砂を集めると、砂は引き寄せた先で山になる。この砂は風に後ろから押されて、細い線のまま俺の足元まで来た。
古参のパーティに断られたのは、ついさっきだ。ハズレにまで、小石の姿から出てきて「29回目」と言われた。
ハズレはヘルメットをかぶった小さなモンスターで、俺の読みが外れるたびに回数を言う。
中層から上がってきた女の人に「あの」と声をかけられたのは、その直後だ。
落ち込む暇もない。
『誰』
『え、今の風?』
女の人は立ち上がって、膝の砂を払った。肩はまだ小さく上下している。
耳の下で切りそろえた黒髪に、青緑の薄い上着。手のひらはもう下りているのに、上着の裾はまだはためいている。忙しい上着だ。
足元の砂も止まっていなかった。靴のまわりを薄く這って、上から見て時計の針と同じ向きに、ぐるりと回っている。
見ているあいだ、その向きは一度も変わらなかった。風の吹き残しにしては律儀すぎる。
「風魔法C、天野澪です。中層の前半を1人で回りながら、黒沢さんの配信、ずっと見てました」
『C!?』
『澪さんっていうのか』
Cランク。陽菜の1つ下で、俺の1つ上だ。
第2層で砂をいじる配信の何を面白がって見ていたのかは、ちょっと怖くて訊けない。
「あの、いつも隣にいる、ヘルメットの子は……」
天野さんが踊り場をきょろきょろと見回す。
階段の上から2段目では、ハズレが小石に化けたまま動かなかった。
「中層なら、私、案内できます。それで、黒沢さんと一緒に――」
「いえ、大丈夫です」
天野さんが言い終わる前に、俺は断っていた。
『また断った』
『兄の悪い癖』
『妹ちゃんにもやってそう』
『最後まで聞いてあげて』
天野さんはぱちりと一度まばたきした。
「今、私が言い終わる前に断りましたよね」
「……はい」
「まだ何も頼んでいません」
……確かに。
俺は頼まれてもいないものを断っていた。
天野さんは俺の顔を一度うかがってから、口を開いた。
「あの。階段を上がってくる途中で、聞こえたんです。さっきの人が、黒沢さんを断るの」
踊り場で俺を断った、あの短い声のことだ。
下から聞かれていたとは思わなかった。言い返さずに引き下がったところまで、全部聞かれていたことになる。耳の後ろが熱くなる。
「そのあと、片桐さんたちが下りてきたので。壁に背中をつけて、やり過ごしました。それから、走ってきました」
『かたぎりさん?』
『さっきの傷の人か』
天野さんは上着の背中を払った。壁に付いていた白い粉が少し落ちた。
「私も、あの人に、何をするか分からないって言われてきたので」
『え』
『同じ人に?』
言い方は軽いのに、天野さんはこっちから目を逸らさなかった。
「何をするか分からないって言われた同士だから、来ました」
天野さんは小さく首を横に振った。
「黒沢さんがかわいそうで来たんじゃないです。私が、来たかったので」
「かわいそう」のほうは、言われてみると少し刺さる。
さっきまで階段でしょげていたのは、確かに俺だ。
俺は階段の下を一度だけ見た。
青白い苔の光の中へ、段が続いている。あそこへ、誰かと一緒に下りる。
「それに、あの。私も第20層の先へ行きたいんです。でも、第20層には中間ボスがいて、1人じゃ越えられなくて」
2人なら、中層の後半まで行ける。俺はそう踏んだ。
「何があって、あの人に――」
「前は、あのパーティにいました」
天野さんはそれだけ言って、左の手首に結んだ細い布へ一度目を落とした。
『元パーティ?』
『あの傷の人の?』
訊くのはやめた。
布を見たときの天野さんの顔で、この話はここまでだと分かった。
天野さんは黙って、俺の返事を待っている。
さっきは布を見ていたのに、今は俺の顔から目を離さない。
『受けろ兄』
『今度は最後まで聞いたぞ』
喉の奥で、言葉を1つだけ選んだ。
「……組みましょう」
天野さんがぱっと顔を上げた。
「はい! じゃあ、いっぱい外しましょうよ。2人で」
『相方きた』
『組んだ!』
『兄が受けた!?』
『土と風だ』
『澪さんよろしく』
同時接続数は31,000に跳ね上がっていた。
これまで組んだ相手の人数を指折り数えてみたら、折ったのは親指1本だった。
それだけで、さっきまで座り込んでいた階段が少し低く見える。
外すのを楽しみにされたのも、生まれて初めてだった。
「中層の後半なら、第17層のミノタウロスを見ておきたいんです。協会の資料で、部屋の場所と、おのを持って突っ込んでくることまでは調べました」
「あの、資料に載ってないこと、言っていいですか」
いいも何も、聞きたいに決まっている。
俺がうなずくと、天野さんは少しだけ胸を張った。先輩の顔だ。
「あいつ、突っ込んでくるのはすごく速いです。でも、走り出したら曲がれません。よけられると、いったん止まって、向き直ります」
跳びかかったおおかみが宙で向きを変えられないのと、同じだ。
まっすぐ来るものなら、来る道の上に泥団子を置いておける。
「部屋の広さは」
「細長くて、狭いです。横に逃げる幅は、あんまりないと思ってください」
「それ、どの動画にも映ってませんでした」
名前を調べた夜は、陽菜が言い当てたとおり、あいつの動画ばかり見た。どれも部屋の入口から撮った遠い画だった。
「映るくらい近くまで行く人、少ないので」
さらっと言われた。
『澪さん先輩だ』
『ミノ曲がれないの初耳』
「月曜、祝日ですよね。まず中層の前半を、2人で歩きましょう。私が案内します」
「案内」のところだけ、声が少し大きい。
先輩風、というやつだ。風魔法の人が吹かせると、言葉どおりになりそうで怖い。
「下りるのは、こっちから――」
天野さんは先輩らしく階段の下を手で指して、勢いよく一歩踏み出した。
指した手のひらから風が漏れて、壁で跳ね返った分が本人の前髪を派手にあおった。
「わっ」
先輩の風に、先輩があおられた。
「え、あ、今のは、外れに数えないでください」
「数えるのは、俺じゃないです」
外れを数えるのは、階段の上の小石のほうだ。
『自爆した』
『かわいい』
天野さんは前髪を直さないまま、何もなかった顔で振り向いた。直さないのか。
月曜は2人で中層の前半を歩く。
配信を切る前に、方眼ノートの新しいページを開いた。
何年分もあるノートの中で、自分以外の名前をページの頭に書くのは、これが初めてだ。
見出しには『天野さん 風魔法C』と書いた。
書いた字が少し跳ねた。




