第31話 口
通路の脇の土をありったけ集めても、壁は俺の腰に届かなかった。
第11層の、階段を下りてすぐの通路だ。第11層から第20層までは中層と呼ばれ、ここがその入口になる。前に潜ったとき、ここでおおかみの群れに噛まれた。
包帯の下でふくらはぎが脈を打ち、しゃがむたびに胸のひびが鳴る。来月頭の会議の前の、最後の土曜だった。
通路が狭まった所に、左右から低い土壁を立てて、真ん中におおかみ1匹がやっと通れるだけのすき間を残した。
奥から来るおおかみがこっちへ抜けるには、このすき間を通るしかない。
ただし、壁は跳べば越えられる高さだ。脇の土だけでは、これ以上は積めなかった。
すき間をくぐって、おおかみが来る側へ出る。通路の壁に手をつく。
「《硬化》」
土が壁に張りついて固まり、おおかみの背より少し上の高さに、拳ほどの的ができた。
泥団子をこの的へ飛ばせば、途中で必ずすき間を通る。
すき間の手前に戻って、両足を足首まで土で固定した。背中から十数歩先に上り階段がある。この前、土壁で塞いで逃げ込んだ階段だ。
階段の上から2段目にはハズレが座っている。石のヘルメットをかぶった小さなモンスターで、俺の読みが外れるたびに回数を言うから、視聴者にそう呼ばれている。今日も俺より先に来ていた。
逃げたときに置いてきた6つの泥団子は、見回してもどこにもない。
腰の袋には、昨日作った6つが入っている。三島さんが1つずつ重さを測った試料で、今度は持って帰ると約束してある。ここで作り直せばそのぶんMPが減って、泥団子を周りで回らせていられる時間が短くなる。
空の瓶も2本持ってきた。この6つで足りなければ、この前と同じで、瓶は空のまま上がるしかない。
そうなれば研究所は、また冒険者に土を頼む。上層の石ころを箱いっぱい持ってこられた、あの話に逆戻りだ。
『すき間作ってる』
『この前と違う』
『壁ひくくない?』
「低いのは分かってます。でも、すき間が空いてるうちは、わざわざ越えてきませんよ」
『脚大丈夫?』
「歩けます。走れないだけで」
『それ大丈夫じゃないやつ』
奥の暗がりから、床をかく爪の音が近づいてきた。階段の下にいた群れで、数は6匹。
袋から6つを出して、腰より低い所で体の周りを回らせる。
泥団子を浮かせているあいだ、MPは減り続け、なくなれば泥団子は床に落ちる。ここからが持ち時間だ。
『来た』
『6匹』
おおかみたちは壁の手前で散って、壁に沿ってうろつきだした。低い壁の上に、灰色の背中が見え隠れする。
まだだ。うろついているやつに飛ばしても、この前と同じで空を切るだけだ。
ひときわ大きい1匹だけは、うろつかずに離れて立っていた。この前も、ああして見ていたやつだ。
群れの頭はすき間をじっと見ている。
1匹がすき間の前で足を止めた。鼻先がこっちを向く。
来い。
おおかみがすき間へ走り出す。
まっすぐだ。
泥団子を引き寄せる先を、俺の体から向こうの的へ切り替えた。
すぐ俺の体へ戻す。
6つのうち2つだけが列を離れ、すき間へ飛ぶ。
すき間の中で、おおかみの頭と肩を打った。
ごっ、と重い音が2つ。
おおかみはすき間の中で転がり、そのまま消えた。
『当たった!』
『すき間で止まった』
『うおおおお』
『狙ってたのかこれ』
当たった。振り子の的と同じ所で。
2匹目がすき間を見つけた。今度は迷わずまっすぐ来る。
切り替えて、戻す。
1つが首に入り、もう1つは向こうの的にめり込んだ。
2匹目も横倒しのまま消える。
『2匹目!』
『わなじゃん』
『すき間に入ったら終わりなの草』
残りの泥団子は2つで、おおかみはあと4匹。
離れた所で、群れの頭がすき間から目をそらした。
3匹目はすき間へ来なかった。
手前で向きを変えて壁へ走り、壁の上を蹴る。
灰色の体が、壁を越えてくる。
すき間は空いていたのに。
「外れ。28回目」
階段の上から、ハズレの平らな声がした。すき間が空いていれば越えてこない、という俺の読みの外れを、また1つ数えたのだ。
『越えた!?』
『跳んだぞ』
『やばいやばい』
越えたおおかみが、泥団子の列の内側へ飛び込んできた。
右のふくらはぎに牙が入る。塞がりかけていた傷が開いて、熱いものが靴の中へ流れていく。
痛いと言う暇もない。
周りを巡っていた泥団子の1つが、おおかみの脇腹を真横から打った。おおかみは甲高く鳴いて牙を離し、壁を越えて外へ逃げ戻る。
泥団子は大きく揺れたが、それでも落ちずに周りに残った。
踏ん張った胸の奥でひびが鳴る。息が半分しか入らない。
『痛い痛い』
『噛まれた』
『血出てる』
まだ立っている。
MPはもう底に近く、こめかみが割れそうだ。
この前なら、もう泥団子が床に落ちていた頃だ。3日前に取った《MP自動回復》で戻るMPは、1分に3。この減り方の前では何も変わらない。
残りの泥団子は2つ。次に飛ばしたら、体の周りは空になる。
『残り2つ』
『兄、顔色やばい』
『もう撤退して』
階段を上がれば、瓶はまた空だ。会議は明後日で、次の土曜はもうない。
4匹目がすき間の前に出た。
鼻先をこっちに向けて、すき間へまっすぐ。
『来た!』
『撃て!』
『今!』
『撃て撃て』
撃てる。さっきの2匹と同じ形だ。最後の2つを飛ばせば、4匹目はすき間の中で落ちる。
なのに、俺はすき間を見ていなかった。
群れの頭が走っている。
壁の向こうを、壁に沿って、階段のほうへ。
すき間ばかり見ていたあいつは、すき間には来ない。
今ここで2つを使えば、あいつが来るとき、俺の周りには何もない。
飛ばさない。
的へ切り替えかけたのを、奥歯を噛んで止める。
『なんで撃たない!?』
『兄!』
『来てる来てる』
『撃てって!』
4匹目がすき間に入った。
すき間の中で足を止め、低くうなる。牙まではたった3歩だ。
靴の中が自分の血でぬるい。
泥団子の列がぶれた。MPが削れて、こめかみがきしむ。あと何周もつのか、もう分からない。
飛ばしたい。飛ばせば、目の前の牙だけは消える。
あいつは壁を跳ぶ。
俺と、背中の階段の間に降りるために。
そこに降りられたら、前と後ろから挟まれる。
群れの頭が、壁を蹴った。
切り替えた。
灰色の巨体が、壁の上を越える。
その向こうに、俺が積んだ壁がある。
最後の2つが飛んだ。
ごっ。
1つが宙のあいつの頭を打った。もう1つは壁の縁にめり込む。
群れの頭は床に着く前に崩れて、消えた。
『は?』
『空中で落とした』
『跳んだのに!?』
『ボス落ちた!』
遅れて胸のひびが鳴った。
残りのおおかみは下がらなかった。
頭を落とせば群れは崩れる、というのは、俺の思い込みだったらしい。
すき間の中の1匹が一歩踏み出した。
泥団子のない俺の足元へ、もう一歩。
足は土で固定したままだ。ほどいたところで、この脚では階段まで走れない。
『弾ない』
『逃げて』
『兄!』
泥団子は、ない。
周りも、空だ。
階段は、遠い。
……違う。
すき間の中と、その向こうの的のそばに、さっき飛ばした泥団子が3つ転がっている。
残っているMPを、全部そっちへ向ける。床の泥団子を引き寄せて体の周りに戻す、いつものやり方で。
来い。
3つの泥団子が床を離れた。
すき間を抜けて、まっすぐこっちへ戻ってくる。
途中にいた1匹の背中を、後ろから打った。おおかみがぎゃんと鳴いて跳びのく。
泥団子は俺の腰のそばで弧を描いて、体の周りに並んだ。
回る。
『弾込めた!』
『戻ってきた』
『リロードした』
『うおおおおおお』
残りのおおかみが回り出した泥団子を見た。
1匹が背を向けた。続いて、もう1匹。背中を打たれたやつも、足を引きずって奥へ消える。
爪の音が暗がりの奥へ遠ざかっていく。
まだ落とすな。最後の1匹の尻尾が暗がりに消えるまで、3つを回し続けた。
音が聞こえなくなったところで、力が切れた。3つの泥団子が床に転がる。
足の土をほどいた途端、膝が崩れる。
岩盤に両膝をついたまま、しばらく息だけしていた。
『勝った』
『勝ったあああああ』
『ウルフが逃げてく』
『最後のなに!?』
『弾が帰ってきた』
コメント欄は読めない速さで流れていく。
『跳んだボス空中で落とすの何』
『撃たなかったの、これか』
『土F兄!』
「……倒したのは、すき間の2匹と頭だけですけどね」
『そこじゃない』
『群れ追い返したんだぞ』
そのうちコメントの流れが、妙な方へ曲がった。
『2つずつ撃ってたよな』
『撃ち尽くしたら込め直した』
『弾倉じゃん』
『6発の回転式』
『泥リボルバー』
「……もう、何でもいいです」
『採用』
『泥リボルバー決定』
階段の上のハズレは、座ったまま何も言わなかった。
開いた傷に包帯を巻き直す。きつく巻いても、まだ赤がにじんでくる。
しばらく座り込んで、MPが少し戻るのを待った。
それから、すき間のそばで床の土をすくった。
詰める瓶は2本。研究所のラベルを貼った瓶と、陽菜がふたに『第11層』と書いた瓶だ。
ラベルの層の欄にも、俺の字で『第11層』と書き込む。
瓶の中の土は、上層のどの瓶とも色が違った。家の棚に、こんな乾いた色の瓶は1本もない。
転がった泥団子を拾えるだけ拾って袋に戻し、すき間の壁と的を崩してから、階段を上がった。
スマホに出た同時接続数は38,000。
見たことのない数だ。
2本の瓶をポケットに入れた。
月曜の会議に、間に合った。
中層の土の分だけ、ポケットが重い。




