第29話 群れ
階段の下の壁に手をついて、1つ目の的を土で固めた。泥団子を当てるための的だ。
初めての第11層だ。班に頼まれた中層の土を、来月頭の会議までに持って帰るために下りてきた。
空気が乾いていて、土の匂いが薄い。階段を下りきるころには、鼻の奥の湿り気がすっかり抜けていた。
床は人の通る筋だけが踏み固められていて、土が薄い。岩は1つも転がっていない。
岩がない分、通路の脇と壁際に土が溜まっている。
「《土操作》、《硬化》」
壁際の土が這い上がって壁に貼りつき、硬く固まる。
高さはおおかみの背より少し上で、右の壁に2つ、左の壁に1つ。
どっちへ走られても、どれかの的が向こうにある。
振り返ると、ハズレが階段の上から2段目に座っていた。上で見たときと同じ段で、下りてくる気はないらしい。
『ハズレ今日も上』
『高みの見物』
『下りてこいよ』
階段の下から十数歩の、人の通る筋の上に戻って、足首まで土で固定する。
踏ん張ると、胸の固定帯の下でひびが鳴った。
ひびを治してからにして、と陽菜には言われている。聞かなかったことにして下りてきた。
袋を開けて、6つの泥団子を腰より低い高さで体の周りに回らせる。《引力》で自分へ引き寄せ続けるかぎり、泥団子は落ちずに俺の周りを回る。低いうなりが6つ重なった。
通路の奥から、音が来た。
爪が岩盤を叩く軽くて速い音で、1つじゃない。
『来た』
『足音多くね』
『泥団子の出番』
苔の青白い光の中に、おおかみが出てきた。
大型犬より一回り大きい灰色の背が、次々に続く。
『6匹』
『多すぎ』
『囲まれてる』
おおかみたちは飛びかかってこないで、泥団子の外側をぐるりと走りはじめた。
いちばん大きいのが1匹だけ、走らずに離れた所で足を止めている。
ドローンが床すれすれまで降りてきた。
腰より低い所を泥団子が回り、その外側を5匹が逆向きに走っている。いちばん大きいのは、その向こうからじっとこっちを見ている。
目が回りそうだ。それでも、ここまでは予定どおりだ。
「走っていく先の向こうに的がある所で、飛ばします」
『頼む』
『実験の成果見せて』
初めての相手には、いつも小さく試す。飛ばすのは2つだけだ。
引き寄せる先を自分から壁の的へ切り替えると、泥団子は的へ飛ぶ。前の2つが離れたところで自分へ戻せば、残りは周りを回り続ける。
おおかみの体へ直接引き寄せることはしない。生き物へ向けて引くと、そいつの魔力で引く力が弱まって、体の周りの泥団子が散ってしまう。
右の壁にある的の手前へ、1匹が走っていく。
その走る先へ。
引き寄せる先を的へ切り替えて、すぐ自分へ戻す。
泥団子が2つ、列を離れて飛んだ。
着く所に、おおかみはもういない。
速い。切り替えてから泥団子が向きを変えるまでのひと呼吸で、おおかみはもう横へ抜けている。
2つとも誰もいない床の上を抜けて、的の土にめり込んだ。
「外れ。26回目」
階段の上から、ハズレの平たい声が降ってきた。俺の見込みが外れた回数を、あいつはずっと数えている。
左の的の手前を走る1匹へ、もう2つ。
おおかみは跳ねるように向きを変えた。2つとも空いた床の上を抜けて、壁の的を叩いた。
『外れた』
『また外れ』
『避けてね?』
『ウルフ速すぎ』
実験室で的にしていた柱は、もちろん逃げなかった。
体の周りに残った泥団子は、あと2つ。
周りを走っていた群れから、1匹が外れた。
まっすぐ、俺のほうへ跳び込んでくる。
宙にいるその肩を、回ってきた泥団子が真横から打った。
おおかみは床を転がり、起き上がらないまま、ほどけるように消えた。あとに小さな魔石が1つ残る。
『倒した!』
『1匹やった』
『泥団子つえええ』
1匹。残りは5匹。
残ったおおかみの走り方が変わった。
1周するごとに、俺との間が詰まってくる。
また1匹が跳び込んできた。
泥団子は肩をかすめただけで、灰色の体に弾き飛ばされた。浅い当たりでは、泥団子のほうが負ける。
引き寄せていた重さが急に抜けて、体が横へ持っていかれる。固めた足首で踏ん張ると、胸の奥でひびが鳴った。
弾き飛ばされた泥団子が1つ、床を転がっていく。
拾いに行けない。足首は土で固めたままだ。
『やばい』
『弾落ちた』
『逃げて!』
次の1匹が来た。
最後の泥団子も鼻先をかすめただけで、床に落ちた。おおかみは首を一つ振って、周りを走る群れへ戻っていく。
また踏ん張る。また胸が鳴る。
息が吸えない。
体の周りの泥団子が、1つもなくなった。
『輪が消えた』
『足固めてるって!』
『逃げて逃げて』
『噛まれる!』
『土F兄!』
いちばん大きいのは離れた所に立ったまま、まだ一歩も動いていない。
泥団子のいなくなった所を、灰色の影が抜けてきた。
右のふくらはぎに、牙が入った。
熱い。
足を固めていた土をほどく。
床に手をつく。
「《土操作》、《硬化》!」
脇の土が跳ね上がって、俺とおおかみの間に壁が立った。
壁に押されて、牙が抜ける。
下がって、もう1枚。
床の泥団子は、もう拾えない。
また下がって、もう1枚。
かかとが階段の1段目に当たった。
壁の脇から、1匹が追ってくる。
「《土操作》、《硬化》!」
立ち上がった壁で、階段の下をふさいだ。
壁の向こうで、爪の音がする。
がり、がり、と土をひっかいている。
割れない。
ホブゴブリンなら一振りで割った壁だ。おおかみの爪では、表面が削れるだけらしい。
しばらくして、爪の音が遠ざかっていった。
『音消えた』
『助かった……』
『生きてる?』
『よかったああ』
階段に座り込んだ。
ふくらはぎの血が靴の中まで垂れていて、思ったより深い。
ポーチの包帯を、きつめに巻いた。
「生きてます。歩けます。走るのは、無理そうです」
『無理すんな』
『報告が実験っぽい』
同時接続数は28,000。
足音が戻ってこないのを確かめてから、階段の下をふさいだ壁を崩した。ほかの組も通る階段だ。
十数歩先の床に泥団子が転がっていて、壁の的にめり込んだままのものもある。
三島さんの試料の土で作った6つだ。使ったら全部持って帰る、と約束していた。
取りに行く足が、出なかった。
腰の瓶は2本とも空のままだ。
今日、俺が中層の土にいちばん近づいたのは、壁に貼りつけて的にした分だった。
階段を上がると、ハズレは上から2段目に座ったままだった。
その隣に腰を下ろす。
「実験室では7割当たったんだ。半分は当たると思ってた」
「外れ。27回目」
笑ったら、胸とふくらはぎが一緒に痛んだ。
配信を切る前に、題の末尾に1語足した。
題は〔第11層 中層の土を採る 外れ〕。
◇
その夜、居間のテーブルで包帯を巻き直していると、陽菜が横からのぞきこんできた。
「うわ、歯形くっきり」
「触るなよ」
「兄ちゃん、おおかみにもおいしそうに見えたんだ。土の味しかしないのに」
陽菜はけらけら笑うだけで、胸のひびのことはひと言も言わなかった。
代わりに、俺の手から包帯を取った。
訊きもせずにほどいて、巻き直していく。俺が巻いたのより、ずっときつくて、ずっときれいだ。
怒られたほうが、まだ楽だった。
テーブルの上でスマホが震えた。三島さんからのメッセージだ。
おおかみへ飛ばした4つが当たったかどうか、アーカイブで数えると言っていた、その結果だ。
画面には、0/4、0%です、とだけあった。
置いてきた6つのことは、ひと言も書いてなかった。




