第26話 瓶
研究所が、俺にダンジョンの地質調査を任せたいらしい。
火曜の朝、出勤してすぐ、班長の席に呼ばれた。呼ばれた理由は席に着く前に分かった。
机の画面に、見覚えのある切り抜きが一時停止で映っている。膝をつくホブゴブリンと、その前で突っ立っている俺だ。
題は〔土Fなのに異常に強い人〕。
職場の画面で、題ごと見られるとは思わなかった。
「これ、黒沢くんだよね」
「……はい」
「昨日の会議で、これが回ってきてね」
班長は画面を消さずに、淡々と続けた。
「うちの研究員が、休みの日にダンジョンで配信して遊んでる。そう取られた」
言い返そうとして、画面の題が目に入った。
〔異常に強い人〕はどう読んでも研究の題じゃない。
「怒ってるわけじゃないよ。遊びのままだと、困るってだけ」
班長は切り抜きを画面の脇へ寄せた。
「うちはずっと、深い層の土と岩をやりたかった。でも、研究員じゃ深い層まで潜れない。冒険者を雇ってみたら、何を採ればいいか分からないって、上層の石ころを箱いっぱい持ってきた」
その箱なら覚えている。資料庫の隅に置かれたまま、まだ誰も開けていない。
「黒沢くんなら、潜れるし、何を採ればいいかも分かるでしょう。あれを遊びじゃなくて、業務の地質調査にしたい。慣らしの上層なら、今週の木曜と金曜にでも」
班長が指を1本立てた。
「ただ、1つ要る。来月頭の会議までに、中層の土を、瓶に1本」
「1本、ですか」
「それがあれば、調査を業務だと説明できる。間に合わなければ、調査の予算は冒険者を雇う方へ戻る。また箱いっぱいの石ころだね」
淡々と言われるほうが断りにくい。
「中層なら、層ごとの床の土と、壁の土と、水の染みた所と、あと崩れた所があれば断面も……」
言いかけて、口を閉じた。
訊かれてもいないのに、もう採る物を数えている。
「そう、それ」
班長は少しだけ笑った。
深い層へ、仕事で行ける。
うれしい話のはずなのに、返事が喉の手前で止まった。
FからDへ飛び級したといっても、まだ3日しかたっていない。ホブゴブリンとの決着でさえ、体の周りに回らせた岩を5つぶつけにいって、当たったのは2つきりだった。
実験室で半分を当てられたのも、的の柱が動かないときだけだ。
シャツの下の固定帯は、息を吸うたびに胸のひびを思い出させる。治るまで4週間。来月頭の会議までに中層へ下りるなら、治る前になる。
仕事で潜って俺がしくじれば、帰れなくなるのは俺でも、空振りになるのは班の調査ごとだ。
半分しか当たらない腕と、ひびの入った胸で、仕事として深い層を預かるのは重い。
「考えさせてください」
「うん。返事は週末までにちょうだい」
ひびのことは言わなかった。言うほどのことでもない。
班長はそれだけ言って、切り抜きを閉じた。
◇
夜、台所で夕飯を作った。
陽菜の分は皿に盛り、俺の分はフライパンから直接食べるつもりでいる。いつもどおりだ。
「兄ちゃん、手」
居間のソファから、陽菜の声がした。
見ると、まな板の玉ねぎはみじん切りを通り越して、粉に近くなっている。
「さっきから同じとこ、ずっと切ってるよ。何かあったでしょ」
「何もない」
「嘘。兄ちゃん、土の話以外で手が止まるの珍しいもん」
妹に見抜かれるくらい、手に出ていたらしい。
玉ねぎを鍋へ移しながら、研究所の話をした。深い層の調査を任されそうなことと、返事を保留したことだけだ。会議の期限は言わなかった。
「え、すごいじゃん。なんで保留?」
「仕事だからな。外したら、俺だけじゃ済まない」
ソファのほうで、スマホを打つ音が止まった。
「……前は、俺だけで済むって言ったよね」
振り向くと、陽菜がソファの背に顎を乗せて、こっちを見ていた。
「ホブゴブリンに1人で挑むって決めたとき。1人なら、外しても俺だけで済むって。あたし、済まないよって言ったじゃん」
「言った」
「で、今度は俺だけじゃ済まないから行かないの? どっちなの」
どっちに転んでも、言い返せない。
黙ってコンロのつまみをひねる。
終業後の実験室で、三島さんにも同じ話をした。測れる土が増えますね、と目を輝かせただけで、受けろとも受けるなとも言わなかった。
あの人は数字の出ていないことでは背中を押さない。
後ろで、ソファがきしんだ。
振り向くと、陽菜は居間の棚へ向かっていた。
陽菜の段は片付いていて、俺の段は土の瓶とノートで埋まっている。同じ棚とは思えない。
陽菜は俺の段の前でしゃがみ、瓶の列を指でたどった。
ふたには俺の字で層の番号が書いてある。
「第2層、第2層、第2層、また第2層。多くない?」
「行き止まりの土は、季節で水気が変わるんだよ。梅雨のと冬のじゃ、握ったときの締まり方が全然――」
「はいはい」
陽菜は俺の説明を聞き流して、列を右へ指でたどっていく。第3層、第4層、第6層、第7層と、番号が飛び飛びに大きくなる。
陽菜は列の端で指を止めた。
第10層。上層のいちばん下の層だ。
その先には棚の板しかない。
陽菜は段の下から俺の箱を引き出した。まだ何も詰めていない、予備の瓶の箱だ。
1本取って、テーブルのペン立てからペンを抜く。
「おい、陽菜」
返事はない。
ふたの上で、ペンがきゅっ、きゅっ、と鳴る。
陽菜は書き終えた瓶を第10層の隣に置いた。
空いていた板に、ふたを台所の俺へ向けて。
第11層。
俺の字じゃない。丸っこい、陽菜の字だ。中層の、最初の層。
陽菜が立ち上がって、俺を見た。
「ずっと下の土、見たかったんでしょ」
指先で、空の瓶の横をとん、と叩く。
「行けるじゃん。仕事で」
俺は鍋をかき混ぜていた手を止めた。
列の端を見る。
何年も並べてきた瓶なのに、どこで終わっているかを数えたことも、その先を見たいと口にしたこともなかった。
下の層の瓶は、1本もない。
火を止めて棚の前まで行き、陽菜の字の瓶を手に取った。
何も入っていない瓶は軽い。ふたの字だけが、もう決まったことみたいに書いてある。
「受ける」
「うん。知ってた」
陽菜はにっと笑って、それから、冒険者としては先輩の陽菜がダンジョンで俺を新人扱いするときの声で付け足した。
「あばらは、治してからね」
俺のひびを夜間の救急で聞いたのは、付き添った陽菜だ。
親指で瓶のふたの字をなぞった。
来月頭の会議はひびが治るより先に来る。陽菜はその日付を知らない。
「兄ちゃん、返事は?」
「……鍋が焦げる」
「火、止めたじゃん」
答えないまま、陽菜の字の瓶を列の端に戻した。
来月頭の会議までに中層の土を採るなら、第10層の広間から奥の階段を下りるしかない。階段の口には見えない壁があって、ホブゴブリンを倒した者しか通さない。倒したあの日から、俺はまだ一度も下りたことがなかった。
階段の上の踊り場は岩盤がむき出しだ。中層へ下りる冒険者が毎日踏んでいくから、土は薄く、体の周りに回らせる岩も転がっていない。
岩がなければ、俺はただ突っ立っているだけの人になる。
岩のない所で使える弾が要る。
ノートの端に、土曜の配信の題を書いた。
第10層 岩のない所で弾を作る




