灯の記憶
朝、階段を下りると、祖父はもう居間にいた。
「おう。起きたか。」
「うん。」
僕はいつもの場所に座った。
朝食を食べながら、昨日のことを何度も思い返す。
母さんに会った。
声を聞いた。
触れてもらった。
それなのに、時間が経つほど、あれが本当にあったことなのか分からなくなってくる。
「……じいちゃん。」
「なんだ。」
「父さんに、昨日のこと話していい?」
「ああ。」
祖父は味噌汁をすすった。
「だが、まずは飯を食え。」
「うん。」
朝食を終える。
食器を片付けてから、僕は電話の前に座った。
受話器を取る。
何度か呼び出し音が鳴ったあと、父さんが出た。
『もしもし。』
「父さん?」
『ああ。どうした。』
「昨日のことなんだけど。」
『昨日?』
「母さんに会った。」
電話の向こうが静かになった。
『……母さんに?』
「うん。」
僕は昨日の出来事を、一つずつ話した。
小さな靴を手に取ったこと。
靴から光が出たこと。
その中から母が現れたこと。
僕を見て、「大きくなったね」と言ってくれたこと。
そして、最後は星になって、空へ帰っていったこと。
「だから、もう母さんは大丈夫だよ。」
父は、何も言わなかった。
「母さん、父さんのことも気にしてた。」
「……俺のことを?」
「うん。元気かって。」
「……そうか。」
「これからは空で見守ってるって」
「……」
「『あの時はわがまま言ってごめんね』って、言ってたよ。」
しばらく返事がなかった。
『……母さんらしいな。』
父さんが、ぽつりと呟く。
「父さん。」
『ん?』
「父さんも、母さんに会いたかった?」
聞いてから、少しだけ怖くなった。
けれど、父はしばらく黙った後、静かに答えた。
『ああ。』
短い言葉だった。
『会いたかったよ。』
その声は、今まで聞いたことがないくらい小さかった。
『でも、会っても、何も言えなかっただろうな。』
「どうして?」
『何を言えばいいか、俺にはわからん。』
「……そっか。」
「だから、お前が会ってくれてよかった。」
父の言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
『母さんは……ちゃんと笑ってたか?』
「うん、笑ってたよ。」
『……そうか。』
父がほんの少しだけ笑った気がした。
『それなら、良かった。』
父さんはそれ以上、何も言わなかった。
でも、その沈黙が昨日までとは少し違って聞こえた。
「ねえ、父さん。」
『なんだ。』
「父さんは……店が嫌いなの?」
『……どうしてそう思った?』
「母さんのことを話してる時、辛そうだったから。」
『……』
「店に行かなかったのも、母さんのことを思い出すから?」
長い沈黙のあと、父さんが答えた。
『嫌いじゃない。』
「じゃあ、なんで?」
『あの場所にいると、あの夜のことを思い出すんだ。』
声が少し掠れていた。
『母さんに会ったことも。帰れなかったことも。』
「……そっか。」
『お前には関係ないと思って、話さなかった。』
「僕にも関係あるよ」
思ったことが、そのまま口から出た。
『ああ』
父さんが小さく笑った。
『そうだな。』
また少し沈黙があった。
『――ありがとう、色々。』
「……うん。」
『また、帰ったらゆっくり話そう。』
「うん。」
電話を切った。
受話器を戻す。
母に会ったことを伝えられた。
それだけで、胸の奥にあった重しが少し軽くなった気がした。
「……終わったか。」
振り返ると、祖父が立っていた。
「うん。」
「そうか。」
祖父は、それ以上何も聞かなかった。
僕もすぐには口を開かなかった。
けれど、昨日からずっと気になっていることがあった。
「じいちゃん。」
「なんだ。」
「昨日のことなんだけど。母さんが、帰れない星は忘れ物に宿ることがあるって言ってたよね」
「ああ。」
「じいちゃんは、知らなかったんだよね」
「そうだ。」
「他にも……帰れない星はいるの?」
祖父が少し黙った。
「何度か、見たことがある。」
「何度も?」
「ああ。」
「その人たちは、どうなったの?」
「分からん。」
祖父は静かに答えた。
「帰れないまま朝になり、いつの間にか姿が見えなくなった星もいた。」
「そうなんだ……。」
「ああ。」
祖父は頷くと、二階を見上げた。
「……来るか。」
「どこへ?」
「俺の部屋だ。」
「え?」
「少し、見せたいものがある。」
僕は祖父の顔を見た。
祖父の部屋。
昔から入るなと言われていた場所だ。
「入っていいの?」
「ああ。もういいだろう。」
祖父が階段を上がっていく。
僕もその後を追った。
二階の廊下を進み、祖父が一番奥の襖を開ける。
中には、古い本や書類が並んでいた。
机の上には、何冊ものノートが積まれている。
「……何これ。」
「昔の記録だ。」
祖父はそのうちの一冊を手に取った。
「星が来た夜のことを書いてある。」
「こんなに?」
「ああ。」
ページには、日付や星の様子、見つかった忘れ物などが細かく記されていた。
僕はページをめくる。
帰れた星には、そのことが書かれている。
けれど、途中で記録が途切れているものもあった。
「これ……帰れなかった星?」
「ああ。」
「こんなにいたんだ。」
「昔のも含めればな。」
「じいちゃん、ずっと調べてたの?」
祖父はしばらく黙っていた。
「見送ることしかできんのが、ずっと引っかかっていた。」
僕は黙って祖父を見る。
「どうすれば帰れるのか。何か方法があるのか。古い記録を探したり、今まで来た星のことを書き留めたりした。」
「母さんのためだけじゃなく?」
「ああ。」
祖父は少しだけ目を伏せた。
「だが……母さんのことがあってからは、特に調べるようになった。」
「……そっか。」
祖父は長い間、この部屋で何かを探し続けていたのだ。
僕が知らなかった時間の中で。
「……母さんが教えてくれたんだね。」
「ああ。」
祖父は静かに頷いた。
僕はノートを見つめる。
「――僕も、もっと星のこと知りたい。」
祖父が僕を見る。
「そうか。」
「うん。」
「なら、好きにしろ。」
祖父はそう言って、ノートを僕のほうへ押した。
その日の夜。
縁側に座って空を見上げていた。
母も、この空のどこかにいる。
しばらくして、一筋の光が夜空を走った。
僕は立ち上がる。
もう、祖父を呼ぶ必要はなかった。
ランプを取り出す。
火を灯す。
玄関を開ける。
軒先に掛ける。
その一つ一つの動作が、いつの間にか自分のものになっていた。
僕はランプの明かりを見上げた。
これから、いくつの星を見ることになるのだろう。
どんな忘れ物を抱えて、ここへ来るのだろう。
まだ分からない。
でも、少しだけ楽しみだった。
次回の投稿は 09/14 です。




