帰る場所
「じいちゃんが言ってた帰れない星って、母さんなの?」
「……ああ。」
祖父は静かに答えた。
「そうだ。」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「やっぱり、そうだったんだ。」
「お前には、まだ話さんでもいいと思っていた。」
「どうして?」
祖父は少しだけ目を伏せた。
「知ったら、お前は自分を責めるだろう。」
その言葉に、僕は何も言えなかった。
いつもどこか飄々としている祖父が、今は少しだけ苦しそうだった。
しばらく沈黙が続く。
それから、祖父がふと店の方を見る。
「……母さんが、置いていったものがある。」
「母さんが?」
「ああ。」
「何?」
「見てみるか?」
僕はすぐに頷いた。
「見たい。」
祖父は立ち上がった。
「ついてこい。」
二人で廊下を歩く。
いつものように店へ向かう。
引き戸を開けると、店の中はしんとしていた。
祖父は灯りをつけ、棚の前で足を止めた。
「これだ。」
棚に置かれていたものを、祖父が手に取る。
それは、小さな靴だった。
「……靴?」
「ああ。」
差し出された靴を、僕は両手で受け取った。
驚くほど軽かった。
片手に収まってしまいそうなほど、小さい。
「これ……母さんが?」
祖父は靴を見つめた。
「あの夜、お前の母さんに届いたものだ。」
父から聞いた話が頭をよぎる。
僕のために買おうとしていた靴。
「……これを、ずっと取っておいたの?」
「……ああ。」
僕は手の中の靴を見つめる。
写真でしか知らない母さん。
会ったこともない。
そんな人が、僕のために選ぼうとしていた靴。
なんだか不思議だった。
「……僕が履くには、もう小さすぎるね。」
「当たり前だ。」
祖父が少しだけ笑った。
「お前が生まれた時に履かせるつもりだったんだからな。」
「……母さんは、今もどこかにいるのかな。」
「どうだろうな。」
祖父は静かに答えた。
「俺にもわからん。」
僕は靴の中を覗き込んだ。
何もない。
当然だ。
そう思って棚へ戻そうとした。
その時。
「……ん?」
指先に、かすかな温かさを感じた。
僕は靴を持ち直した。
「じいちゃん。」
「どうした?」
「これ……温かくない?」
祖父が手を伸ばす。
靴に触れる。
「……いや。」
祖父は首を振った。
「普通だが。」
「そっか。」
僕はもう一度、靴を見た。
気のせいだったのかもしれない。
けれど、なんとなく手放したくなかった。
靴を胸元へ寄せる。
「母さん……。」
名前を呼んだところで、返事があるはずもない。
そう思った。
その時だった。
靴に、小さな光が灯った。
「……え?」
それはとても小さく、淡い光だった。
「じいちゃん……。」
祖父も気づいた。
「……そのまま持っていろ。」
光が少しずつ強くなる。
靴の中から、光がこぼれる。
僕の指の間をすり抜け、掌を包んでいく。
「……あったかい。」
今度は、はっきり分かった。
冷たい夜の店の中なのに、そこだけが温かかった。
光は、僕の腕を伝って胸の前まで届く。
怖くはなかった。
むしろ、不思議と懐かしさを感じるような安心感があった。
僕は目を閉じた。
何かが聞こえた気がした。
遠くから。
とても小さな声。
「……誰?」
自分でも分からないまま、そう呟いた。
返事はなかった。
けれど、光の向こうに誰かがいる。
そんな気がした。
頬に、何かが触れた。
温かい。
僕はゆっくり目を開けた。
目の前に、一人の女性が立っていた。
涙を浮かべながら、僕を見つめている。
「……大きくなったね。」
声が震えている。
会ったことなんてない。
なのに。
この人が誰なのか、すぐに分かった。
「……母さん?」
女性は泣きながら笑った。
「うん。」
僕の頬を撫でる。
「やっと、会えたね。」
その手は、ちゃんと温かかった。
僕は何も考えられなくなって、ただ泣いた。
母さんも、僕を抱きしめるように腕を回した。
初めてだった。
母さんに抱かれたのは。
ずっと会いたかったのかどうかさえ分からない。
会えるなんて、思っていなかった。
でも。
この腕の中にいると、ずっと足りなかった何かが、ようやく埋まっていくような気がした。
母さんの胸に顔を埋める。
「……僕、ちゃんと大きくなったよ。」
「うん。」
「じいちゃんもいる。」
「うん。」
母さんが少し笑う。
「父さんは?」
「父さんは、今仕事で遠くにいて……。」
「元気?」
「……うん。元気だよ。」
「そう。」
母さんはほっとしたように目を細めた。
「よかった。」
しばらくして、母が祖父を見る。
「お義父さん。」
「……なんだ。」
「ごめんなさい。」
「謝るな。」
祖父は母を見つめながら言った。
「俺は何もしてやれんかった。」
「そんなこと、」
「お前を、帰してやれんかった。」
母は首を振った。
「違うんです。」
母は僕を見る。
「私は、あの時どうしても帰れなかった。」
「帰れなかった?」
「どうしても、手放せなくて……。この子を一目見たいって、そう願ったんです。」
「そうしたら、気づいたらこの靴のそばにいた。」
「じゃあ……あれからお前はずっと。」
「……はい、ここにいました。」
祖父は呆然と靴を見つめた後、小さく呟いた。
「……そうか。」
その顔は、安心したような、少し泣きそうにも見える表情だった。
その顔を見ていると、僕もまた涙が出てきそうだった。
「母さん。」
「なあに?」
「じゃあ、帰れない星は、みんななにかに宿ってるの?」
母さんは少し困ったように笑った。
「私にも、よく分からないの。」
「そっか……。」
母さんは僕の手の中にある靴を見る。
「でもきっと……忘れ物に宿ることがあるんだと思う。」
僕は靴を見つめた。
帰れなかった星。
消えてなくなると思っていた。
でも。
母さんは消えていなかった。
ここにいた。
ずっと。
「母さんは、帰れないの?」
母さんは少しだけ黙った。
「分からない。」
その答えは、祖父と同じだった。
「でも」
母さんは僕の髪を撫でる。
「もう大丈夫。」
「どうして?」
「あなたに会えたから。」
胸の奥が熱くなった。
母さんは僕を抱きしめる。
「ごめんね。」
「何が?」
「何もしてあげられなくて。」
「……」
「抱いてあげたかった。」
母さんの声が震える。
「顔も見たかった。声も聞きたかった。」
僕は母さんの服を握った。
「でも、こうして会えた。」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
「僕、ちゃんと大きくなったから。」
「うん。」
「父さんもいるし、じいちゃんもいる。」
「うん。」
「だから……」
少しだけ息を吸う。
「もう、心配しなくていいよ。」
母さんは何も言わなかった。
ただ、僕を強く抱きしめた。
「……ありがとう。」
しばらくして、母さんが顔を上げた。
「私のところに来てくれて、ありがとう。」
僕は涙を拭った。
「……母さんに会えてよかった。」
その言葉を聞くと、母さんは静かに笑った。
足元から、淡い光がこぼれ始めた。
「母さん、」
「大丈夫。」
光は少しずつ母さんの身体を包んでいく。
さっきまでの光とは違う。
まるで夜空の星のように、光の粒がきらきらと輝いていた。
僕は慌てて手を伸ばした。
「もう行っちゃうの?」
「うん。」
「また会える?」
母さんは、少しだけ考えてから笑った。
「きっと、いつか。」
「いつか?」
「あなたが空を見上げた時には、ちゃんと見てるから。」
僕は頷いた。
「うん。」
「お父さんにも、そう伝えて。あの時はわがまま言ってごめんねって。」
「うん。」
母は祖父を見る。
「ありがとうございました。」
「……今度こそ、帰れるんだな。」
「……はい。」
祖父は少し笑った。
「なら、もう何も言うことはない。」
祖父はそう言うと、窓を開けた。
母の姿が、少しずつ光へと変わっていく。
「じゃあね。」
「うん。」
「元気でね。」
「母さんも。」
母は、最後まで僕のことを見ていた。
やがて、その光は一つの小さな星になった。
ふわりと宙へ浮かび、夜空へ昇っていく。
僕はその姿を見上げた。
「……行っちゃった。」
「ああ。」
隣で祖父が静かに答えた。
「帰れたんだな。」
「うん。」
小さな光が、夜空の星々に紛れていく。
どこにいるのか、もう分からない。
それでも、不思議と寂しくはなかった。
母さんは、今度こそ帰れた。
そう思えた。
僕は手の中を見る。
そこには、小さな靴が残されていた。
さっきまであれほど光っていたのに、もう何の変化もない。
「……これ、どうするの?」
祖父は少し考えてから言った。
「お前が持っていればいい。」
「いいの?」
「ああ。」
祖父は小さく笑った。
「母さんの忘れ物だ。お前が持っていてやれ。」
「うん。」
僕は頷いた。
大切にする。
そう言おうとしたけれど、言葉にはしなかった。
ただ、靴をぎゅっと握った。
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