小さな靴
翌朝。
目が覚めても、昨夜のことが頭から離れなかった。
帰れない星。
忘れ物を見つけても、空へ帰れないことがある。
そのまま、消えてなくなる。
そんな話を聞いたのは初めてだった。
今まで僕が見てきた星たちは、みんな忘れ物を見つけると、最後には空へ帰っていった。
それが当たり前だと思っていた。
昨夜の女性の姿を思い出す。
朝食の席で、僕はぼんやりと箸を動かしていた。
「おい。」
「ん?」
「朝から難しい顔しとるな。」
向かいに座る祖父が、味噌汁をすすりながら僕を見る。
「……昨日のこと考えてた。」
「そうか。」
「じいちゃん。」
「なんだ。」
「じいちゃんは、帰れなかった星を見たことがあるんだよね?」
祖父の箸が、ほんの少し止まった。
「ああ。ある。」
「どんな人だったの?」
祖父はしばらく考えるように黙っていた。
「……昔のことだ。細かいことは、よく覚えていない。」
「そうなの?」
「ああ。」
祖父はそれ以上話すつもりがないらしく、味噌汁を飲み干した。
「もういいだろう。」
「でも――」
「たまには外に出ろ。ずっと家におったら気が滅入るぞ。」
そう言って、祖父は食器を片付け始めた。
話を逸らされた。
そう思ったけれど、これ以上聞いても答えてくれそうになかった。
「……分かった。」
僕も食べ終えた皿を運んだ。
昼前、祖父に言われた通り、久しぶりに一人で外へ出た。
特に行く当てもなかった。
ただ、昨日のことを考えないように歩いた。
家の近くをぶらぶら歩いていると、見覚えのある人と出会った。
「あら、ぼうや。」
「こんにちは。」
以前、祖父に野菜を持ってきてくれた近所のおばさんだった。
「今日は一人かい?」
「うん。じいちゃんに外へ出ろって言われて。」
「ははぁ。あの人らしいねぇ。」
おばさんは笑った。
それから僕の顔を覗き込む。
「なんだい、今日は浮かない顔して。」
「……ちょっと聞きたいことがあって。」
「なんだい?」
「星のことです。」
「星?」
「人は、いつか星になって空へ帰るって、じいちゃんに聞きました。」
「……そうだねぇ。」
「でも、みんなが帰れるわけじゃない。」
おばさんは少しだけ考え込んだ。
「そういうことも、あるかもしれないねえ。」
「どうしてか、分かりますか?」
「さあねぇ。人それぞれじゃないかね。」
おばさんは空を見上げた。
「人が死ぬ時っていうのは、何かしら残していくもんだから。」
「残す?」
「物だったり、言葉だったり、心残りだったり。」
その言葉が、胸に引っかかった。
「もし、私が何か心残りがあるとすれば――」
おばさんは僕を見る。
「やっぱり、子供のことかねぇ。」
「……子供。」
「自分がいなくなったあと、ちゃんと大丈夫だろうかってね。」
胸の奥が、きゅっと締まった。
「……母は」
気づけば、言葉がこぼれていた。
「僕を産んですぐ、亡くなったんです。」
「まあ……」
「母も、僕のこと、心残りだったでしょうか。」
おばさんは少し困ったように笑った。
「……そうかもねぇ。」
それ以上は何も言わなかった。
僕も、それ以上聞けなかった。
家へ帰る道を歩きながら、何度もその言葉を思い返した。
――そうかもねぇ。
母は、僕を残して死んだ。
僕が生まれたことを喜ぶ時間も。
僕を抱く時間も。
顔を見る時間さえ、ほとんどなかった。
もし母が星になったのなら。
僕のことが心残りだったとしても、おかしくない。
家に戻ると、祖父は居間で新聞を読んでいた。
「おかえり。」
「ただいま。」
「どうだった、外は。」
「普通。」
「そうか。」
それだけだった。
夕方になり、夜になった。
星の降らない夜は、とても静かだ。
電話が鳴る。
「俺が出る。」
祖父が受話器を取る。
「……ああ。久しぶりだな。」
その声を聞いて、僕はすぐに分かった。
父さんだ。
祖父がしばらく話したあと、こちらへ受話器を差し出した。
「お前と話したいそうだ。」
「僕?」
「ああ。」
祖父は受話器を渡すと、居間を出ていった。
「もしもし。」
『ああ。元気か?』
「うん。」
父さんの声を聞くのは久しぶりだった。
少しだけ話したあと、僕は言った。
「父さん。」
『ん?』
「店のこと、知ってたんだよね。」
電話の向こうが静かになった。
「じいちゃんから聞いた。」
『……そうか。』
「僕も、じいちゃんと一緒に星を見送ったよ。」
『……』
「父さんも、小さい頃は手伝ってたんだよね。」
『ああ。』
「……父さんは、帰れない星を見たことがある?」
また沈黙。
「父さん?」
『……あるよ。』
低い声が返ってきた。
僕は息を呑んだ。
「母さんは」
言葉が詰まる。
「母さんは、僕を産んですぐ、死んじゃったんだよね。」
『ああ。』
「母さんは……空へ帰れたの?」
長い沈黙があった。
それだけで、答えは分かってしまった気がした。
『……母さんは、空には帰らなかった。』
「帰らなかった、って?」
『……お前が生まれた日だった―』
父の声が、少しだけ震えていた。
そして、ゆっくりと話し始めた。
母が僕を産んですぐに亡くなったこと。
その知らせを聞いた父が、何も考えられないまま実家へ向かったこと。
もしかしたら、今夜。
母が星になって現れるかもしれない。
そう思ったこと。
『頼むから、立ち合わせてくれ。』
あの夜、父は祖父に必死に頼んだという。
『一目だけでいい。』
『母さんに会わせてくれ。』
『お願いだから。』
その時、赤ん坊だった僕はまだ病院にいた。
生まれたばかりで、母に会わせることもできなかった。
夜になり、玄関のランプが灯った。
そして――母が現れた。
父は母の顔を見るなり、言葉を失ったという。
母さんは泣いていた。
それから、店の中へ入っていった。
――カラン
ベルが鳴ると、祖父が何かを持ってきた。
小さな箱。
蓋を開ける。
中に入っていたのは、小さな靴だった。
『……これ、欲しかったやつ。』
母さんは、そう言った。
『調べてたの。』
母さんは靴を見つめながら言った。
『ずっと、どれがいいかなって。』
父さんは何も言えなかった。
どんなものがいいか。
どんな色が似合うか。
何度も一緒に調べた。
『でも……』
母さんの声が震える。
『こんなのあっても……もう仕方ないよ。』
母は小さく首を振る。
『もう見ることも、抱くことも、話すこともできない。』
母は小さな靴を抱きしめた。
父は悲しみを押し殺し、優しく母へ語り掛けた。
『……空から見守ってはくれないか。俺たちを。』
『……星になって?』
『ああ。』
『……そんなの』
母が顔を上げる。
『そんなの、信じられない。』
涙が頬を伝っていた。
『私は……まだ、死にたくない』
その瞬間、母の身体から光が溢れ始めた。
祖父はそれを見て息をのむ。
『待て!』
母の輪郭が光に溶けていく。
『まだ帰るな。もう少し――』
祖父は手を伸ばした。
けれど、光は止まらなかった。
『……ごめんね。』
最後に、母はそう言った。
そして――。
光は消えた。
父はただ、それを見ていることしかできなかった。
『――だから、母さんは、帰らなかったんだ。』
「……そっか。」
僕はそれしか言えなかった。
『でもな』
父さんの声が少しだけ柔らかくなった。
『きっと、お前のことは見守ってるよ。』
「……うん。」
それから僕たちは、仕事がどうとか、そんな話を二言三言して、電話を切った。
受話器を置いた後も、僕はその場から動けなかった。
母は、空へ帰らなかった。
僕のことを心残りにして。
僕が生まれた夜、消えた。
どうして今まで、何も知らなかったんだろう。
僕を、産んでくれた人。
母は最後に、僕を抱きたかったのだろうか。
顔を見たかったのだろうか。
名前を呼びたかったのだろうか。
そんなことを考えていると、襖がゆっくり開いた。
「電話、終わったのかい。」
祖父だった。
「うん。」
祖父が部屋へ入ってくる。
僕は少し迷ってから聞いた。
「じいちゃん。」
「なんだ。」
「じいちゃんが言ってた帰れない星って……」
祖父は黙って僕を見る。
「母さんなの?」
しばらくして。
「ああ」
祖父は静かに答えた。




