↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/10

帰れない星

 それから数日は、何事もなかった。


 昼間は祖父の手伝いをしたり、縁側で本を読んだりして過ごした。

 夜になれば、祖父は決まって空を見上げる。

 その視線がいつもより長く空に留まる夜は、決まって何かが起こった。


 その日も、夕飯を終えてしばらくすると、祖父が玄関へ向かった。


「今夜も来るの?」


「ああ。」


 祖父はそれだけ答えた。

 いつものように、古びた木箱から小さなランプを取り出す。

 火を灯し、玄関を少しだけ開けて、軒先へ掛ける。

 僕も隣に立って、その明かりを眺めた。


 何度見ても、不思議な光だった。

 小さなランプなのに、暗い庭の奥まで淡く照らしている。

 その光の先に、誰かが来るのを待っているようにも見えた。


「今日は、どんな人が来るんだろう。」


 何気なく呟くと、祖父は答えなかった。

 ただ、空を見上げている。

 しばらくすると、星がひとつ、空を横切った。


「来るぞ。」


「うん。」


 光は庭を越え、家の屋根を越えて――僕たちの前へ降りてきた。

 眩しさに目を細める。

 やがて光が薄れていく。


 そこに立っていたのは、一人の女性だった。


 僕より少し年上に見える。

 長い髪。

 淡い色の服。


 けれど、今まで来た人たちとは少し違っていた。


 女性は俯き、胸の前で両手を強く握りしめていた。

 指先が白くなるほど。

 肩が小さく震えている。


「来たか。」


 祖父が声を掛ける。

 女性は顔を上げた。

 目元には涙が溜まっていた。


「ここは……?」


「忘れ物を預かる店だ」


「……そう、ですか。」


 女性はそう答えたものの、店へ入ろうとはしなかった。


 何かを言いかけて、口を閉じる。

 また両手を握る。


 その様子を見ていた祖父の顔が、ほんの少しだけ変わった。

 ほんの一瞬だった。

 けれど、僕には分かった。


「じいちゃん?」


「……」


 祖父は女性から目を離さなかった。

 やがて、僕の方へ振り返る。


「今回は、俺一人でやる。」


「え?」


「お前は中にいろ。」


「でも……」


「いいから。」


 いつもより低い声だった。


「……今回は、駄目だ。」


 その言い方には、理由を聞いても教えてくれないという固さがあった。


 僕は祖父の顔を見つめた。

 何かを知っている。

 それだけは、はっきり分かった。


「……分かった」


 仕方なく、僕は縁側へ向かった。

 振り返ると、祖父は女性を店の中へ招き入れていた。


 戸が閉まる。

 その向こうから、ベルの音が小さく聞こえた。


 ――カラン。


 僕は縁側に座った。

 空を見上げる。

 今夜は星が多い。

 怖いと感じていた夜空も、最近は綺麗だと思うようになった。

 けれど、今は少しだけ落ち着かなかった。


 店の中では、祖父とあの女性が何を話しているのだろう。

 それから、ずいぶん長い時間が経った。

 どれくらい経ったのか分からない。

 夜空を眺めているうちに、眠気がやってきた頃だった。

 背後から、祖父の声がした。


「終わったぞ。」


 振り返る。


 祖父が廊下に立っていた。


「……終わった?」


「ああ。」


「帰ったの?」


「ああ。ちゃんと帰った。」


 その言葉を聞いて、胸の奥の力が抜けた。


「……よかった。」


 思わずそう呟いた。

 祖父は何も言わず、僕の隣に腰を下ろした。

 しばらく二人で空を見上げる。

 さっきまであった緊張が、少しずつ解けていく。

 けれど、一つだけ気になることがあった。


「じいちゃん。」


「なんだ。」


「なんで、僕に見せてくれなかったの?」


 祖父は黙った。


「いつもは一緒に見てるじゃん。」


「ああ。」


「今日だけ、なんで?」


 祖父は膝の上に置いた手を見つめた。

 それから、ゆっくり息を吐いた。


「……星は、空へ帰れんことがある。」


「帰れない?」


「ああ。」


 僕は空を見上げた。


「忘れ物を見つけても?」


「それでも、帰れんことがある。」


「どうして?」


「心が、まだこっちに残っとるからだろうな。」


 祖父は淡々と言った。


「大事なもんを見つけても、それだけじゃ足りんことがある。もう一度会いたいとか、まだここにいたいとか……そういう気持ちが強すぎるとな。」


「……じゃあ、帰れなかったらどうなるの?」


 祖父は答えなかった。

 長い沈黙のあと、ようやく口を開く。


「分からん。」


「分からないの?」


「ああ。」


 祖父は空を見上げた。


「ただ……いつまでも、そのままではいられん。」


「そのうち帰れる?」


「……いや」


 祖父の声が、少しだけ低くなった。


「消えてなくなる。」


 僕は黙った。

 夜の静けさが、急に重く感じられた。


「……消えるって」

「星じゃなくなるってこと?」


「そういうことだ。」


 僕はもう一度、空を見上げた。


 さっきまで綺麗だった星が、今は少し遠く見える。


「……怖いか?」


 祖父が聞いた。


「え?」


「思っていたのとは、違っただろう。」


 僕はしばらく考えた。


「うん」


 正直に答える。


「ちょっと怖い。」


 祖父は黙っている。


 僕は膝を抱えた。


「みんな帰れるもんだと思ってたから。」


 これまで見てきた人たちは、忘れ物を見つけて、記憶を取り戻して、最後には空へ帰っていった。

 だから、そういうものなのだと思っていた。


「でも……」


「でも?」


「帰れない人がいるなら……」


 言葉を探す。


「なんとかしてあげたいな。」


 祖父が僕を見る。


「だって、消えちゃうんでしょ。」


「ああ。」


「だったら、帰れるようにしてあげたほうがいい。」


 祖父はしばらく僕の顔を見つめていた。

 やがて、ほんの少しだけ目を細める。


「……そうか。」


 祖父の手が伸びてきた。

 そして、僕の頭をゆっくり撫でた。


「じいちゃん?」


「なんでもない」


 祖父は手を離した。

 けれど、その顔はどこか遠くを見ていた。

 その目に映っているのは、今の星空ではないような気がした。


「……あの時はな」


「うん?」


「店を継いで、まだ間もない頃だった。」


 突然の言葉だった。

 僕は祖父を見る。


「もっと上手くやれたのかもしれんな。」



 ――夜の玄関。

 軒先に掛けた、あのランプ。

 その中に立つ、一人の女。

「こんなのあっても……仕方ないよ。」

 女は小さく首を振る。

「星……?そんなの」

 女が顔を上げる。

「そんなの、信じられない。」

 涙が頬を伝っていた。

「私は……まだ、死にたくない。」

 その瞬間、女の身体から淡い光がこぼれた。

 「待て」

 女の輪郭が、少しずつ光に溶けていく。

「まだ帰るな」

 祖父は手を伸ばした。

「待て。もう少し――」


 ――。


 祖父は目を開けた。


「じいちゃん?」


「……いや」


 祖父は小さく首を振った。


「なんでもない」


 僕は何か言おうとした。

 けれど、やめた。

 祖父の顔には、今まで見たことのない寂しさがあった。


 何かがあった。

 それだけは分かった。

 けれど、それが何なのかを聞く勇気はなかった。


「……そろそろ寝るか。」


「うん。」


 祖父が立ち上がる。

 僕も続いて立った。

 廊下を歩く。

 玄関の前で、祖父がランプの火を消した。

 小さな灯りが消える。

 家の中が、いつもの夜の暗さに戻った。

 僕は一度だけ店の方を見た。

 戸は閉まっている。

 何も変わった様子はない。


「おやすみ、じいちゃん」


「ああ。おやすみ」


 僕は自分の部屋へ戻った。

 そのまま布団へ入る。

 目を閉じても、さっきの話が頭から離れなかった。

 帰れない星。

 消えてなくなる星。

 今日の人は、帰れた。

 それだけでも、よかったと思う。

 やがて、眠りが意識をゆっくりと連れていった。


 ――誰もいなくなった店の中。

 棚の端に置かれた、小さな靴。

 暗闇の中で。

 ほんの一瞬だけ、淡い光が灯った。

 そして、何事もなかったように消えた。

 その光に気づく者は、誰もいなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。