残されたもの
翌日の昼過ぎ。
居間でぼんやりしていると、ふと壁に掛けられた写真立てが目に入った。
今まで、そこに何が飾られているかなんて気にも留めていなかった。
けれど、店のことを知ったせいか、この家にあるものが妙に気になった。
立ち上がって、写真立ての前まで歩く。
何枚か並んだ写真の中に、見覚えのある顔があった。
「……ばあちゃんだ。」
写真の中の祖母は、僕が知っているよりずっと若かった。
祖母が亡くなって、三年になるだろうか。
父が僕をここに連れてきたのは、仕事の都合だけじゃなかったのかもしれない。
そしてその隣にはもう一人、女性が写っている。
「これ……ひいばあちゃんだよね?」
後ろから祖父の声がした。
「ああ。」
いつの間にか、祖父が居間に入ってきていた。
「お前が小さい頃に亡くなったから、顔は覚えてないだろうな。」
「うん。話は聞いたことあるけど……。」
写真の中の女性を見つめる。
ひいばあちゃん。
名前も、この家に昔から住んでいたことも聞いたことはある。
けれど、実際にどんな人だったのかはあまり知らない。
「もっと写真ないの?」
自分でも、ふいにそんな言葉が出た。
「あるぞ。」
「見たい。どこにあるの?」
「俺の部屋だ。」
その言葉を聞いて、僕は顔を上げた。
「じいちゃんの部屋?」
「ああ、取ってくる。」
祖父は廊下へ向かう。
「待ってろ。」
「俺も行こうか?」
「いい。」
祖父は振り返った。
「ここで待ってなさい。」
「……分かった。」
祖父が廊下の奥へ消えていく。
そのまま階段を上る音が聞こえた。
祖父の部屋。
そういえば、昔から入るなと言われていた。
何度かこの家に来たことはあったけれど、二階へ上がること自体、あまりなかった気がする。
ほどなくして、祖父が何冊かのアルバムを手に戻ってきた。
「これだ。」
僕の前に置かれたアルバムは、ずいぶん古びていた。
表紙には何も書かれていない。
「見ていい?」
「ああ。」
最初のページをめくる。
古い写真が何枚も並んでいた。
若い頃の祖父。
知らない場所で撮った写真。
その隣には、ひいばあちゃんらしき女性。
僕は一枚一枚、ゆっくりと見ていった。
「これ、ひいばあちゃん?」
「ああ。」
「若いな。」
「当たり前だろ。」
祖父が少し呆れたように笑った。
次のページには、祖父がまだ子どもの頃の写真があった。
ひいばあちゃんと二人で、家の前に立っている。
その背景に写る家を見て、僕は目を止めた。
「……これ、この家?」
「ああ。」
「やっぱりそうなんだ。」
屋根も、玄関も、庭の木も。
少しずつ変わっているところはあるけれど、間違いなくこの家だった。
そして――。
「これ、」
僕は写真の端を指差した。
玄関の軒先に、小さなランプが掛かっている。
「あのランプだ。」
「そうだな。」
「昔からあったんだね。」
「俺が生まれた頃には、もうあった。」
祖父は何でもないことのように答えた。
僕は写真をじっと見つめる。
数日前、初めて見つけた店。
星が降る夜に、祖父が灯したランプ。
それが、こんな昔の写真にも写っている。
「……昔は、母親がここで店をやっていた。」
祖父は写真を見ながら言った。
「それじゃあ、じいちゃんはそれを継いだんだ。」
「そういうことだ。」
もう一つの冊子をめくる。
今度は祖母の写真が増えてきた。
若い頃の祖母。
祖父と並んで写っている写真。
庭で撮ったもの。
店の前で撮ったもの。
そして、さらに先には、幼い父が写っていた。
「父さんも、この家にいたんだ。」
「ああ。」
「そりゃそうか。」
考えてみれば当たり前のことなのに、妙な感じがした。
写真の中の父は、僕の知っている父とは別人みたいだった。
祖母に抱かれて笑っている。
祖父の隣で、少し緊張した顔をして立っている。
この家で育ったんだ。
「父さんも店のこと知ってた?」
「ああ。」
「じゃあ、継ぐの?」
祖父の手が止まった。
「……あいつは継がないだろうな。」
「なんで?」
「向いてないんだろう。」
「それだけ?」
「それ以上は、本人に聞けばいい。」
それ以上、祖父は話さなかった。
父がこの店を知っている。
それだけで少し意外だった。
「昔は手伝ってたの?」
「ああ。子どもの頃はな。」
「へえ。」
アルバムには、まだまだ写真が残っていた。
祖母が僕を抱いている写真。
父さんと祖父が並んでいる写真。
知らない人たちと笑っている写真。
僕の知らない時間が、何ページにもわたって続いている。
やがて祖父は立ち上がった。
「それ、好きなだけ見てていいぞ。」
「うん。」
祖父が居間を出ていく。
僕は一人になった。
アルバムを膝の上に置いたまま、またページをめくる。
僕をここへ連れてきたとき、父は何も言わなかった。
この家のことも。
祖父のことも。
店のことも。
今まで、家族のことは知っているつもりだった。
名前も知っている。
顔も知っている。
けれど、それだけだった。
どんな時間を過ごしてきたのか。
何を大切にしていたのか。
何を諦めたのか。
どうして父さんは、この店を継がないのか。
どうして祖父は、今もここで店を続けているのか。
考えれば考えるほど、知らないことが増えていく。
いつか全部を知ったら。
そのとき僕は、何を思うんだろう。
少し怖い気もした。
けれど、知りたいと思った。
ページをめくる。
僕の記憶にはない時間。
それでも、確かに自分がそこにいる。
しばらくして、外が暗くなってきた。
アルバムを閉じようとして、最後のページに手をかける。
ひいばあちゃんと、幼い祖父。
あのランプ。
今と同じ場所に、ずっと昔から掛かっている。
僕はあの写真を思い返しながら、アルバムを閉じた。
――僕が一階でアルバムを眺めている頃。
祖父は店の棚を掃除していた。
並んだ品を一つずつ動かし、埃を払っていく。
棚の端に置かれた、小さな靴。
祖父はそれを手に取った。
しばらく見つめてから、何も言わず、元の場所へ戻す。
そして、また掃除を続けた。




