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ルネ編第2話「悪魔は、優しくしない」


 ――静かだった。


 耳鳴りがするくらいに。


 つい数秒前まで保健室を満たしていた黒い靄は、今もルネの周囲に漂っている。煙みたいにゆらゆら揺れているのに、不思議ともう暴れ狂ってはいなかった。


 さっきまでは違った。


 空気を裂くみたいな圧迫感があって、息をするだけで肺が痛かった。


 なのに今は。


 嵐が去った後みたいに、異様な静けさだけが残っている。


 僕は自分の呼吸音を聞きながら、恐る恐るルネを見る。


 荒い息。


 上下する肩。


 額に滲む汗。


 完全に平気そうには見えない。


 でも――立っていた。


 さっきまで本当に壊れそうだった人間が、今はちゃんと自分の足で立っている。


「……兄さん」


 静かに、サーシャが口を開く。


 いつも通り穏やかな声。


 だけどその目は鋭かった。


 観察する目だ。


 獲物を見るみたいに冷静で、感情より先に分析が来る目。


「本当に、落ち着いていますね」


「チッ……」


 ルネが舌打ちする。


 不機嫌そうな顔。


 でも、さっきまでみたいな苦悶は薄れていた。


 呼吸は乱れていても、少なくとも理性は戻っている。


「……離せ」


 低い声。


「え?」


「腕」


 そこで初めて気づいた。


 僕はずっと、ルネの腕を掴んだままだった。


 無意識だった。


 離したらまずい気がして、ずっと握っていた。


「あ、ご、ごめん!」


 慌てて手を離す。


 その瞬間だった。


 ルネの周囲に漂っていた黒い靄が、じわりと揺れる。


 空気が重くなる。


「――っ」


 ルネの眉が寄った。


 息が詰まる。


 たったそれだけで、また不安定になりかけた。


「……あ」


 今度は僕が固まる番だった。


 偶然じゃない。


 本当に。


 本当に僕が触れている間だけ、あれは静まっていたんだ。


 理解した瞬間、背筋がぞくりと冷えた。


 なんなんだよ、それ。


 意味が分からない。


「なるほど」


 サーシャが小さく呟く。


「非常に興味深いですね」


 その声音に、鳥肌が立った。


 優しい声だった。


 柔らかい笑みまで浮かべている。


 なのに怖い。


 新しい実験結果を見つけた研究者みたいだった。


「晶さん」


 にこり、と微笑む。


「少々、こちらへ来ていただけますか?」


「……え?」


「危険性の確認をしたいので」


 さらっと言う。


 でも全然さらっとした内容じゃない。


 危険性って何。


 確認って何をされるの。


「嫌だ」


 反射で答えていた。


 サーシャがわずかに目を瞬かせる。


 本気で断られると思っていなかった顔だ。


「……理由を伺っても?」


「なんか怖いから」


「正直ですね」


 サーシャがくすりと笑う。


 やっぱり笑ってても怖い。


 白衣着せたら絶対似合うタイプだ、この人。


「兄さん」


 サーシャがルネへ視線を向ける。


「ご自身ではどう感じていますか?」


「……知らねぇよ」


 ルネが吐き捨てるように言う。


 でも、そのあと。


 ちら、と僕を見た。


「さっきよりマシだ」


 たったそれだけ。


 それだけなのに、胸の奥が妙に熱くなる。


 役に立てた。


 そう思ってしまった。


 誰かに必要とされたみたいで。


 でも次の瞬間。


「だからって調子乗んな」


 即座にルネが続ける。


「オマエが特殊なだけで、別にすげぇわけじゃねぇ」


「いや言い方」


「事実だろ」


「もっとこう……あるじゃん、人に対する優しさとか……!」


「はっ」


 ルネが鼻で笑う。


 そのいつもの態度に、少しだけ安心した。


 さっきまで、本当に消えてしまいそうだったから。


「……晶くん」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 操だった。


 少し離れた場所に立っている。


 いつもの柔らかな笑顔はない。


 静かに。


 ただ静かに、こっちを見ていた。


 その顔が痛いくらい綺麗で。


 だから余計に苦しかった。


「操……」


「なんで」


 ぽつり、と落ちる声。


「なんで、その人なの」


 責める声音じゃなかった。


 怒鳴られた方がまだ楽だった。


 静かすぎて、逆に胸が締め付けられる。


「わたし、ずっと晶くんのそばにいたのに」


「それは……」


 言葉が詰まる。


 違う。


 操を嫌いになったわけじゃない。


 大事じゃなくなったわけでもない。


 でも。


 今、一番放っておけなかったのはルネだった。


 その事実だけは、どうしても否定できなかった。


「……っ」


 操が唇を噛む。


 細い肩が、小さく震えていた。


 見ているだけで苦しい。


「あーあ」


 場違いなくらい軽い声。


 久苑が楽しそうに笑った。


「完全に修羅場じゃん」


「黙れ」

「黙って」


 操とルネが同時に言う。


 一瞬、沈黙。


 それから久苑が吹き出した。


「うわ、息ぴったり」


「殺すぞ」


「兄さん、学校で物騒な発言はお控えください」


「うるせぇ」


 少しだけ空気が緩む。


 けれど。


 中心にある問題は何も解決していない。


 むしろ、もっと複雑になっていた。


「……今日はここまでにしましょう」


 サーシャが静かに言う。


「兄さんの状態も安定しきっているわけではありません」


「晶さんも疲れているでしょう」


「誰のせいだよ……」


「兄さんですね」


「即答すんな」


 サーシャは微笑んだまま、僕を見る。


「晶さん」


「……なに」


「今後、兄さんの側にいる際は十分お気を付けください」


「どういう意味?」


「そのままの意味です」


 やわらかな声。


 でも、その内容は冷たかった。


「兄さんは、あなたに想定以上の影響を受けています」


 どくり、と心臓が鳴る。


「それはつまり」


 一度言葉を区切る。


「あなたもまた、兄さんから強く影響を受けるということです」


 ぞわ、と悪寒が走った。


 操の時もそうだった。


 一緒にいると安心できて。


 居心地が良くて。


 気づけば、そこから動けなくなっていた。


 じゃあルネは?


 ルネの隣にいることも、同じになるのか。


「依存は双方向ですから」


 静かな宣告みたいだった。


「……違う」


 気づけば口に出していた。


 サーシャが目を細める。


「何がです?」


「ルネは……」


 言葉を探す。


 うまく説明できない。


 でも。


「ルネは、止めないから」


 操みたいに、

 『ここにいていい』

 とは言わない。


 むしろ逆だ。


 怖くても進けって言う。


 逃げるなって言う。


 変われって言う。


 その言葉は痛い。


 優しくない。


 でも――


「前に進めって言うから」


 サーシャが少し黙った。


 それから、ふっと笑う。


「……なるほど」


「兄さんらしいですね」


「なんだそれ」


 ルネが眉を寄せる。


「褒めていますよ」


「キモ」


「ひどいですね」


 でもサーシャは怒らない。


 ただ静かにルネを見ていた。


 その視線には。


 呆れと。


 諦めと。


 ほんの少しの安心が混ざっていた。


「今日は帰ります」


 サーシャが踵を返す。


「兄さん」


「あ?」


「無理はなさらないでください」


「誰のせいでこうなってると思ってんだ」


「半分くらいは兄さんのせいです」


「多いなオイ」


 久苑がけらけら笑う。


「じゃ、ボクも帰ろっかな〜」


「待ってください、久苑さん」


「えー?」


「あなたを野放しにすると面倒です」


「サーシャってたまに失礼だよね」


「たまにではなく常にです」


 そのまま二人は廊下の奥へ歩いていく。


 去り際。


 久苑がくるりと振り返った。


「ねえ晶くん」


「……なに」


「さっきの、もう選び始めてるからね」


「……」


「自分で思ってるより、ずっと」


 意味深に笑う。


 そして今度こそ去っていった。


 静かになる。


 残されたのは。


 僕とルネと操だけ。


 空気が重い。


 操が何も言わないのが、逆につらかった。


「……操」


「今日は帰る」


 小さな声。


 顔を上げないまま。


「ごめんね」


「え」


「わたし、ちょっと……今、うまく笑えないから」


 胸が締め付けられる。


 引き止めたかった。


 でも、言葉が出なかった。


 操はそのまま踵を返す。


 長い髪が揺れる。


 細い背中。


 その背中が、前よりずっと遠く感じた。


 ――パタン。


 保健室の扉が閉まる。


 静寂。


「……」


「……」


 僕とルネだけが残る。


 なんだこの空気。


 気まずい。


 ものすごく気まずい。


「……なあ」


 先に口を開いたのはルネだった。


「オマエ」


「な、なに」


「なんであんなことした」


「え?」


「だから」


 ルネが目を逸らす。


「なんでオレに触った」


 心臓が跳ねた。


 言い方。


 なんか変な意味に聞こえる。


「いや、倒れそうだったから……」


「普通逃げるだろ」


「普通じゃなかったから」


「は?」


「ルネ、苦しそうだったし」


「……」


「放っておけなかった」


 沈黙。


 ルネが頭をぐしゃぐしゃ掻く。


「……クソ」


「なんでお前、そういうこと平気で言うんだよ」


「え?」


「自覚ねぇのが余計タチ悪ぃ……」


 ぶつぶつ言っている。


 よく聞こえない。


「……ルネ?」


「うるせぇ」


 耳が少し赤い。


 え。


 もしかして。


「……照れてる?」


「殺すぞ」


「図星じゃん」


「オマエ調子乗り始めただろ」


 でも。


 そう言うルネの声は。


 少しだけ。


 ほんの少しだけ、いつもより柔らかかった。


 そのことに気づいた瞬間。


 胸の奥が、また変な音を立てた。


 嫌なはずなのに。


 怖いはずなのに。


 どうしてか――その音を、もう少し聞いていたいと思ってしまった。


挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

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