ルネ編第1話「それでもルネを、放っておけない」
――気づけば、体が動いていた。
考えたわけじゃない。
頭の中で整理して、正しい答えを出したわけでもない。
誰が正しくて、誰が間違っているのか、そんなことはまだ全然分からなかった。
ただ。
あのままルネが壊れていくのを、目の前で見ているのがどうしても嫌だった。
嫌だと感じた瞬間には、もう足が前に出ていた。
自分でも驚くくらい、何の迷いもなく。
「……ルネ」
名前を呼ぶ。
喉がひどく乾いていて、うまく声にならない。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
その瞬間、ルネの目がわずかに見開かれた。
いつものように不機嫌そうなだけじゃない。
明らかに、予想外のものを見た顔だった。
「来んなっ!」
鋭い声。
怒鳴られて、肩が跳ねる。
足元がすくみそうになる。
それでも、止まれなかった。
黒い靄が、ルネの足元からじわじわと広がっている。
床を這うように、廊下の白いタイルを汚していく。
液体みたいでも、煙みたいでもない。
形が定まらないくせに、確かな意思だけがあるみたいにうねっている。
見ているだけで気持ち悪い。
胸の奥がざわつく。
息が浅くなる。
本能が、近づくなと叫んでいた。
でも、それ以上に。
ルネが苦しそうだった。
そのことの方が、ずっとはっきり見えてしまった。
「ルネ!」
「来るなって言ってんだろ!」
怒鳴り返される。
今まで聞いたことがないくらい切羽詰まった声だった。
いつもの傲慢さも、余裕もない。
見下すみたいな調子も、からかうみたいな笑いも、どこにもない。
ただ必死に、僕を遠ざけようとしている。
それが分かるから、余計に胸が痛くなった。
「……っ」
足が止まる。
ほんの一歩分だけ、前に出た足が床に縫いつけられたみたいに動かない。
怖い。
近づいたら駄目だと分かる。
今のルネは、いつもと違う。
危険だ。
触れたらどうなるか分からない。
巻き込まれるかもしれないし、もっと状況を悪くするかもしれない。
でも。
ここで引いたら、たぶん後悔する。
それだけは、なぜかはっきりしていた。
「晶くん!」
背後から操の声が飛ぶ。
「戻って!」
「危ない!」
振り返れない。
振り返ったら、たぶん戻ってしまう。
操の声は、いつもみたいに優しいだけじゃなかった。
切羽詰まっている。
泣きそうなくらい必死で、僕を止めようとしている。
それが分かるからこそ、振り向いたら足が止まる。
操の表情を見たら、もう進めなくなる。
「……晶さん」
サーシャの落ち着いた声が響く。
「不用意に近づかないでください」
「今の兄さんは不安定です」
「接触は推奨できません」
その言い方は丁寧なのに、拒絶の響きがあった。
優しく説明しているように聞こえるのに、実際には行動を禁じている。
命令とも違う。
けれど、従うのが当然だと言われているみたいな声だった。
この人は本気で、何が危険で何が不要かを自分の中で決めている。
その決め方の冷たさが、ぞっとする。
でも。
「……でも」
喉が詰まりながら、それでも声を出す。
自分でも驚くくらい、弱々しい声だった。
「このまま放っておけない」
言った瞬間、空気が変わった気がした。
操が息を呑む気配。
久苑が、楽しそうに笑う気配。
サーシャの視線が、わずかに鋭くなる気配。
そして――
ルネだけが、苦しそうに顔を歪めた。
「……バカかよ」
吐き捨てるみたいな声だった。
「こういう時に近づくやつがあるかよ……」
その言い方はいつも通り乱暴なのに、どこか弱かった。
怒っているというより、焦っている。
僕を拒絶しているというより、巻き込みたくなくて必死に押し返している。
「でも、ルネ」
「黙れ」
黒い靄が一気に膨れ上がる。
びり、と空気が震えた。
窓ガラスが細かく鳴る。
肌が粟立つ。
耳の奥がきんと痛む。
怖い。
本当に、怖い。
目の前にあるのがただの異常じゃなくて、今にも形を持ってこちらへ襲いかかってきそうな“不吉さ”そのものだと分かってしまう。
「兄さん」
サーシャが一歩前へ出る。
「もう十分です」
「これ以上は、あなたも周囲も保ちません」
「だからうるせぇっつってんだろ……!」
ルネが吠えた。
その怒声と一緒に、黒い靄の中に赤い火花みたいなものが走る。
一瞬だけ。
でも、確かに見えた。
黒の中に赤が弾けて、空気の奥で何かが軋む。
まずい。
見ているだけで分かる。
何かが、限界に近い。
「……晶くん」
操の声が震える。
「お願い、戻ってきて」
「その人のところに行かないで」
その声が、胸に刺さる。
振り返らなくても分かった。
操はきっと、傷ついた顔をしている。
不安で、怖くて、それでも僕を止めようとしている。
今まで何度も僕を受け止めてくれた、その優しさの延長で。
それなのに。
今、目を離せなかったのはルネの方だった。
「やっぱりそうなるんだ」
久苑がくすくすと笑う。
「最初に手を伸ばすの、そっちなんだね」
「黙ってろ」
ルネが低く唸る。
「煽らないでください、久苑さん」
サーシャが穏やかに割って入る。
「状況を悪化させるだけです」
「えー?」
久苑は不満そうに唇を尖らせた。
「だって面白いじゃん」
「選んだ瞬間って、一番その人の本音が出るし」
選んだ。
その言葉に、心臓が嫌な音を立てる。
違う。
まだ、選んだわけじゃない。
誰かの味方になると決めたわけじゃない。
ただ、放っておけなかっただけだ。
ただ、苦しそうだったから。
ただ、それだけ。
なのに。
その“だけ”が、もう選択なのかもしれないと、どこかで分かってしまう。
「……晶」
ルネが苦しそうに僕を見る。
「お前、自分で何してるか分かってんのか」
「分かんないよ」
気づけば、そう返していた。
自分でも驚くくらい、素直に出た言葉だった。
「分かんないけど……」
喉が詰まる。
怖い。
操を傷つけたくない。
サーシャも怖い。
久苑は何を考えてるか分からない。
何もかも分からない。
自分が何を選ぼうとしているのかも分からない。
でも、それでも。
「でも、ルネが壊れそうなのは分かる」
一瞬。
ルネの表情が止まった。
「……っ」
「だから、放っておけない」
その言葉が口から出た瞬間、自分でも取り返しがつかない気がした。
たぶん、これはもう言い訳じゃない。
僕の中の、本当に隠せない部分だった。
沈黙が落ちる。
その沈黙を最初に破ったのは、操だった。
「……どうして」
細い声。
泣きそうな声。
「どうして、そっちなの」
その一言に、胸が痛む。
振り返りたくなる。
操の顔を見て、ちゃんと説明したくなる。
でも振り返れない。
今はまだ、顔を向けてしまったら駄目だと思った。
「晶くんは、そのままでいいのに」
「傷つかなくていいのに」
「なんで……わざわざ苦しい方に行くの」
責めているわけじゃない。
怒っているわけでもない。
ただ、本気で分からないんだ。
どうして自分から傷つく方を選ぶのか。
どうして安全な場所から出ようとするのか。
その痛みが伝わってきて、苦しくなる。
「操……」
「名前呼ばないで」
ぴしゃりと返される。
初めてだった。
操が、こんなふうに僕を拒絶したのは。
その鋭さに息が止まる。
優しい声しか知らなかったから、なおさら痛かった。
「……あーあ」
久苑が笑う。
「もう戻れないね、これ」
「久苑さん」
サーシャが静かにたしなめる。
でも、久苑は気にした様子もない。
「だって本当でしょ?」
「最初の一歩って、けっこう大事だよ」
「誰の方に倒れるか、そこで決まるし」
その言葉を、サーシャは否定しなかった。
ただ、静かに僕を見ていた。
やわらかい微笑みのままで。
でも、目だけが少し冷たい。
「……なるほど」
小さく呟く。
「晶さんは、兄さんを“放置できない”のですね」
その言い方は、どこか記録するみたいだった。
分析されている。
そんな感覚がして、背筋が寒くなる。
人として見られているというより、傾向や性質として分類されているような気味悪さがあった。
「それもまた、ひとつの傾向です」
「傾向って……」
「人は、自分が救えるかもしれないと思ったものに、強く引かれますから」
穏やかな説明。
でも。
その中には、僕の気持ちを勝手に整理される不快さがあった。
僕の迷いも、恐怖も、衝動も、全部ひとつの型に押し込められていく感じがする。
「私は、そういう衝動を否定しません」
サーシャは続ける。
「ただし、管理できない感情は必ず破綻を生みます」
「ですから」
そこで一度言葉を切って、微笑む。
「あなたも管理されるべきなのですよ、晶さん」
ぞくっとした。
優しい声なのに、逃げ場がない。
この人はたぶん、本気でそう思っている。
縛ることが守ることだと。
管理することが優しさだと。
そして、従わせることに少しの罪悪感も持っていない。
「はっ、相変わらず気色悪ぃ考え方だな」
ルネが笑う。
けれど次の瞬間、その膝がまた揺れた。
今にも崩れ落ちそうな、不安定な揺れだった。
「ルネ!」
今度こそ、反射だった。
考えるより先に、僕はルネの腕を掴んだ。
熱い。
熱を持っているみたいに、肌が熱かった。
ただ温かいんじゃない。
内側から焼けるみたいな、危うい熱だ。
「――っ、おま……!」
ルネの目が見開かれる。
その瞬間、黒い靄がびくっと大きく震えた。
弾けるかと思った。
けれど、そうはならなかった。
「兄さん!」
サーシャの声が、初めてはっきりと強くなる。
「接触は――」
そこまで言いかけて、止まる。
ルネの周囲の靄が、一瞬だけ静まったのだ。
完全じゃない。
消えたわけでもない。
でも、さっきまでみたいな暴れ方じゃない。
明らかに、変化があった。
「……え」
思わず声が漏れる。
僕だけじゃない。
操も、久苑も、サーシャも息を止めた気配がした。
空気の震え方が変わった。
黒いものはまだそこにあるのに、さっきまでみたいに制御不能な荒れ方をしていない。
「晶……」
ルネが呆然とした声を出す。
いつものルネじゃない。
本当に、予想していなかったみたいな顔。
強がりも皮肉もない、むき出しの驚きだった。
「お前、何した」
「知らないよ……!」
こっちだって分からない。
ただ、倒れそうだったから支えようとしただけだ。
何かしようと思ったわけじゃない。
でも。
触れた瞬間、確かに何かが変わった。
僕の手から伝わったのか。
ルネの中の何かが反応したのか。
そんなこと、分かるはずもない。
「……興味深いですね」
サーシャが小さく言う。
その声音は穏やかなまま。
でも、ほんの少しだけ熱を帯びていた。
初めて、この人が本当に興味を持ったのが分かる声だった。
「兄さんの揺らぎが、一時的に安定している」
視線が僕の手元に落ちる。
ルネの腕を掴んでいる、僕の手に。
その視線の重さに、指先が冷える。
「晶さん」
サーシャがやさしく僕を呼ぶ。
「どうやら、想定よりずっと厄介な方のようですね」
その言葉は褒めているようにも聞こえた。
でも絶対に違う。
この人の中で、僕は今、危険度を上げられた。
予測不能な要素として、優先的に監視すべきものへ変わった。
そう分かる声音だった。
「離れて」
操が震える声で言う。
「晶くん、お願い」
「その人から手を離して」
振り返れない。
振り返ったら、きっと操の顔を見てしまう。
傷つけてる。
それが分かるから、余計に見られない。
操の優しさに何度も救われてきたのに、今はその手を取れない。
その事実が、胸の奥で鈍く痛んだ。
「……ほら」
久苑が笑う。
「もう始まっちゃった」
「最初に手を伸ばした相手、決まっちゃったね」
「違う」
思わず言い返す。
「まだ、決めたわけじゃ」
「でも伸ばした」
その一言で、言葉が詰まる。
そうだ。
まだ決めてないつもりだった。
誰か一人を選んだつもりはなかった。
でも、体はもう先に動いてしまった。
考える前に。
迷う前に。
僕はルネに触れた。
それは事実で、もう消せない。
「……晶」
ルネが低く呼ぶ。
怒鳴るでもなく、突き放すでもない声。
その声に、さっきまでの切迫とは違う揺れが混じっていた。
「お前……」
続きは言わなかった。
でも、その目は少しだけ揺れていた。
たぶん、ルネ自身が一番分かってしまったんだ。
僕が最初に手を伸ばしたのが、自分だったことを。
その瞬間。
操の指先が、僕の制服の袖からするりと離れた。
その感触がなくなったことに、遅れて気づく。
胸のどこかが、ひどく冷えた。
久苑の笑みが深くなる。
面白いものを見つけた子どもみたいに、目を細めている。
サーシャが静かに目を細める。
その視線は、もう僕をただの巻き込まれた側として見ていなかった。
ルネの隣に立ってしまった者として、確かに見ている。
もう、後戻りはできない。
これはまだ“選んだ”とは言えないのかもしれない。
言い切るには、まだ足りないのかもしれない。
でも。
少なくとも最初の一歩は、もう決まってしまった。
理屈より先に、体が選んでしまった。
その事実だけが、重たく胸に残る。
――僕は、ルネを放っておけなかった。




