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第7話「壊れる前に、誰を選ぶ?」


 ――時間がない。


 その感覚だけが、やけにはっきりしていた。


 ルネの足元から広がる黒い靄は、さっきまでの“違和感”とはもう別物だった。


 見ているだけで息が詰まる。


 胸の奥がざわつく。


 本能が、近づくなと叫んでいた。


 廊下の空気が重い。


 さっきまで普通に聞こえていたはずの昼休みの喧騒が、遠くに押しやられている。


 ここだけが、学校じゃないみたいだった。


 蛍光灯の白い光が、黒い靄に飲み込まれていく。


 壁も、床も、窓も。


 全部が少しずつ現実感を失っていく。


「兄さん」


 サーシャが静かに呼ぶ。


 やわらかい声なのに、有無を言わせない響きがある。


「もう十分です」


「そこまでにしてください」


「……命令すんな」


 ルネが笑う。


 でも、いつもの余裕はない。


 口元は笑っているのに、息が荒い。


 肩がわずかに上下している。


 立っているだけで、何かを必死に抑え込んでいるように見えた。


「だったら、ちゃんと止めてみろよ」


 その声と同時に、黒い靄がさらに膨らんだ。


 廊下の蛍光灯が、ばち、と明滅する。


 操がびくっと肩を震わせ、僕の腕に縋りついた。


「晶くん……」


 細い指先が、制服の袖を掴む。


 強く。


 痛いくらいに。


「離れよう」


「今すぐ」


「でも――」


「ダメ」


 操の声は強かった。


「今、あの人に近づいちゃダメ」


「晶くんは巻き込まれるだけ」


 それはきっと、正しい。


 正しいのに。


 胸の奥で何かが引っかかる。


 危ないから離れる。


 巻き込まれるから逃げる。


 それは普通の判断だ。


 でも、その普通の判断を選んだら、また何かを見捨てる気がした。


「そうやってまた止めるんだ」


 久苑が笑う。


「危ないから」


「傷つくから」


「怖いから」


「それでずっと、何も選ばせないんだね」


「うるさい」


 操が低く言う。


 その声は、今まで聞いたどの声よりも冷たかった。


「晶くんは、選ばなくていいの」


「わたしが守るから」


「それがもう重いんだよねえ」


「黙って」


「だってそうじゃん」


 久苑は楽しそうに首をかしげた。


 金色の髪が、さらりと揺れる。


 中心にハートを宿したピンクの瞳が、こちらを覗き込む。


 綺麗なのに、まるで温度がない。


「晶くんのこと、本当に守りたいなら」


「自分で選ばせなよ」


 その言葉に、操の指先が強ばる。


 痛いくらいに。


「……晶くん」


 操が僕を見る。


 まっすぐに。


 必死に。


「行かないで」


「そっちに行ったら、戻れなくなる」


 ――戻れなくなる。


 その言葉が、妙に胸に刺さる。


 たぶん、操は本気でそう思ってる。


 僕を心配している。


 僕が壊れないように、必死に止めてくれている。


 でも。


 その“戻れない”は、どこを指しているんだろう。


 危険な方へ進むことか。


 それとも、操のそばから離れることか。


「……晶さん」


 今度はサーシャが僕を呼んだ。


 丁寧で、落ち着いた声。


 ルネの黒い靄の中でも、その声だけは妙に澄んで聞こえる。


「混乱なさるのも無理はありません」


「ですが、ここで目を逸らしても状況は改善しませんよ」


 やさしく言っているのに、逃げ道を塞がれる感じがする。


「兄さんをこのまま放置すれば、いずれもっと大きな被害が出ます」


「それを防ぐためには、整理が必要です」


「整理って……」


「必要なものと、不要なものを分けることです」


 さらりと言う。


 怖い。


 この人は本当に、そう思っている。


 声も表情も穏やかなのに、その言葉の奥には迷いがない。


 誰かの感情より、秩序。


 誰かの痛みより、被害の最小化。


 きっとサーシャにとって、それは正しさなのだ。


「私は、壊れる自由より壊さない支配を選びます」


「その方が、結局は多くを守れますから」


「はは」


 久苑が笑う。


「やっぱりいいね、サーシャ」


「静かに怖い」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 サーシャは微笑んだ。


 本当に穏やかな顔で。


 だからこそ、余計にぞっとする。


「……晶」


 ルネが低く言った。


 顔を上げる。


 赤い目。


 少し荒い息。


 それでも、こっちを見ていた。


「来んな」


 第一声がそれだった。


 怒っている。


 でも、それだけじゃない。


 僕を遠ざけようとしている。


「お前は、下がってろ」


「でもルネが」


「いいから!」


 怒鳴り声が廊下に響く。


 僕は思わず肩を震わせた。


 その瞬間、ルネの姿がまた揺れた。


 今度は長い。


 肩から腰にかけて、存在そのものが歪む。


 黒い靄が一気に膨れ、壁にまで這い上がる。


 まるで、ルネの中から溢れたものが、もう本人にも止められなくなっているみたいだった。


「兄さん!」


 サーシャの声が、初めて少しだけ強くなる。


「それ以上は本当に危険です」


「うるせぇ……」


 ルネが笑う。


 でもその笑いは、もう壊れかけていた。


「オレは、まだ……」


 言い切る前に、膝が揺れた。


 壁に手をつく。


 指先までわずかに震えている。


 その姿を見て、胸の奥がぎゅっと締まる。


 危ない。


 本当に。


 このままじゃ、何かが起きる。


 ルネが壊れるのか。


 周りが壊されるのか。


 それとも、その両方なのか。


 分からない。


 でも、このまま見ているだけでは駄目だということだけは分かった。


「ねえ晶くん」


 久苑が、すぐ耳元で囁いた。


 いつの間に近づいたのか分からない。


 甘い匂いがして、ぞっとする。


「今、考えたでしょ」


「……何を」


「誰を助けるか」


 心臓が跳ねた。


 図星だった。


 操は僕を止めている。


 サーシャは全部を管理しようとしている。


 久苑はこの状況さえ楽しんでいる。


 でもルネだけは、僕を遠ざけながら、それでも一番危ういところに立っている。


「……っ」


 言葉にならない。


「いいよ、考えちゃって」


 久苑が笑う。


「そういうのって顔に出るから」


「やめて」


 操が鋭く言う。


「晶くんを煽らないで」


「煽ってないよ」


「選ばせようとしてるだけ」


「選ばなくていい!」


 操が叫ぶ。


 今度ははっきりと。


「晶くんは、そのままでいいの!」


「誰かを選んで傷つくくらいなら、何も選ばなくていい!」


 その声は悲鳴みたいだった。


 胸が痛む。


 操がかわいそうだと思う。


 僕を失いたくないのだと分かる。


 怖くて、必死で、だから止めているのだと分かる。


 でも同時に、その言葉は苦しい。


 何も選ばなくていい。


 その優しさが、今はひどく重い。


「それでは遅いのです」


 サーシャが静かに告げる。


「晶さん」


「選ばないという選択は、状況に選ばれるのと同じですよ」


 その一言が、胸に刺さる。


 今まで、ずっとそうだった。


 選ばなかった。


 選べなかった。


 だから、流されてきた。


 保健室へ。


 逃げる方へ。


 楽な方へ。


 その結果、何かが少しずつ歪んでいった。


 僕自身も。


 操との関係も。


 ルネとの距離も。


 全部、曖昧なまま放置してきた。


 でも、今は。


 そのままじゃ駄目だと分かってしまっている。


「……晶くん」


 操の声が揺れる。


「お願い」


「行かないで」


「晶さん」


 サーシャが穏やかに言う。


「下がっていても構いません」


「ですが、その代わり兄さんは私が連れて帰ります」


 その言葉に、ルネが顔を上げた。


「ふざけんな……」


「兄さん」


「あなたに拒否権はありません」


 やさしい声のまま、きっぱりと言い切る。


 その瞬間だった。


 黒い靄が爆ぜるように広がった。


 窓ガラスが一斉にびり、と鳴る。


 廊下の空気が、圧みたいなものを持って押し寄せる。


「っ、きゃ……!」


 操がよろめく。


「うわ、これは本格的だね」


 久苑が目を細める。


 楽しそうに。


 まるで、待っていた場面がついに来たと言わんばかりに。


 サーシャだけが一歩前に出る。


 まるで全部分かっていたみたいに。


「兄さん」


 静かな声。


「ここから先は、あなた一人の問題ではありません」


 でも。


 その言葉より先に。


 僕の体が動いていた。


「晶!?」


 ルネが目を見開く。


 自分でも、何でそうしたのか分からない。


 怖い。


 足が震える。


 息も苦しい。


 黒い靄に近づくたび、胸の奥をぎゅっと握られるみたいに痛い。


 それでも。


 あのまま立って見てるだけは、嫌だった。


 また何も選べない自分のままでいるのは、嫌だった。


「……ルネ」


 名前を呼ぶ。


 それだけで喉が詰まりそうになる。


 ルネはいつも乱暴で、口が悪くて、無神経で。


 僕の弱さを平気で刺してくる。


 でも。


 昨日も、今日も。


 僕を無理やり前に向かせようとしたのは、ルネだった。


 優しくはなかった。


 でも、見捨てもしなかった。


 誰を守るかなんて、まだ決められない。


 操を傷つけたくない。


 サーシャの正しさも、全部間違っているとは言い切れない。


 久苑の言葉には飲まれたくない。


 でも。


 今、この瞬間に一番壊れそうなのが誰かだけは分かった。


「僕は……」


 声が震える。


 それでも、足は止めなかった。


「今は、ルネを放っておけない」


 その瞬間。


 操の指先が、僕の袖からするりと離れた。


 ほんの少しだけ、時間が止まった気がした。


 操の顔を見るのが怖かった。


 でも、見なくても分かる。


 その手が離れた意味が。


 サーシャの目が、ほんのわずかに細くなる。


 久苑が、嬉しそうに笑った。


「へえ」


 楽しそうに。


 残酷なくらい軽く。


「まずはそっちを選ぶんだ」


 ――ああ。


 もう始まってるんだ。


 これはただの言い争いじゃない。


 僕が誰に手を伸ばすか。


 その最初の一歩で、もう何かが決まり始めている。


 壊れる前に。


 誰を選ぶのか。


 その問いが、もう逃げられないところまで来ていた。


 そして僕は。


 まだ何も分からないまま。


 それでも、初めて自分の足で。


 壊れかけた悪魔へと、手を伸ばした。


挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

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