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第6話「見ているだけの、はずでした」


――視線が、消えない。


 保健室を出てもなお、背中に残っている感覚があった。


 まるで皮膚のすぐ上に、見えない指先が触れたままになっているみたいで、何度も肩を揺らしたくなる。


 振り返っても、もちろん誰もいない。


 けれど、いないはずだと確認するたびに、逆にその不在そのものが不自然に思えてくる。


 誰もいないはずの廊下。


 昼休み特有のざわめきは遠くにあって、ここだけ妙に静かだった。


 教室の方からは笑い声がする。


 誰かが走る足音も、机を引く音も、確かに聞こえている。


 なのに、この一角だけは空気が薄く切り取られたみたいに、音が遠い。


 静かだ。


 静かすぎる。


 そして、静かであればあるほど、何かに“見られている”気がする。


 気のせいだと思いたかった。


 でも、そう思うたびに、その気配はむしろ輪郭を増していく。


 ただ視線を感じるだけじゃない。


 観察されている。


 測定されている。


 僕という存在を、何かの基準に当てはめて判定されているような、そんな寒気があった。


「……晶」


 低い声で、ルネが僕を呼んだ。


 珍しく、からかう響きがない。


 いつもの皮肉っぽさも、余裕も薄い。


「さっきから落ち着きねえな」


「……ルネだって」


 思わず言い返す。


「さっきから変だよ」


 ルネは答えない。


 代わりに、廊下の先をじっと睨んでいた。


 姿を消しているのに、そこだけ空気が張る。


 嫌な沈黙だった。


 何もないはずの空間を、ルネだけが明確に“何かいる場所”として見ている。


 そのこと自体が、僕の不安を煽った。


「……まだいるな」


 ぼそっと、ルネが呟く。


「え?」


「気づいてねえのか」


 苛立った声。


「さっきから、ずっと見てる」


 背筋が冷たくなった。


 やっぱり、気のせいじゃない。


 そう認めた瞬間、首筋の産毛が一斉に逆立つ。


 見えない。


 でも、いる。


 その確信だけが、嫌にはっきりしていく。


 操が僕の制服の袖をそっと掴む。


「……晶くん」


 静かな声だった。


「今日は、もう帰ろう?」


「え」


「関わらないほうがいいよ」


 いつも通り、やさしい声。


 やわらかくて、落ち着いていて、責める色のない声音。


 でも今日は、そのやさしさが少しだけ重い。


 包み込むようでいて、どこか引き止めるような響きが混じっている。


「晶くんは十分頑張ってる」


「これ以上、変なものに近づかなくていい」


 その言葉は、慰めみたいに聞こえる。


 安心していいと、ここで止まっていいと許してくれる言葉。


 けれど、今の僕には、その優しさが少しだけ怖かった。


「またそれか」


 ルネが吐き捨てる。


「“近づかなきゃ大丈夫”で済むなら苦労しねえよ」


「済むこともあるよ」


 操が言い返す。


 声は穏やかなまま。


 でも、わずかに硬い。


「知らなければ傷つかなくていいことだってある」


「知らねえまま沈むだけだろ」


 ぴり、と空気が軋んだ。


 操は何も言わない。


 ただ僕の袖を掴む指先に、少しだけ力が入った。


 それは不安からなのか。


 それとも、離さないためなのか。


 分からなくて、余計に苦しくなる。


「はは」


 場違いな笑い声が響く。


 久苑だ。


 いつの間にか、僕の少し後ろに立っていた。


 気配がなかった。


 いると分かった瞬間だけ、鮮やかにそこに現れたみたいだった。


「いいねえ、やっぱりこの空気」


「壊れる直前って、ほんと綺麗」


「お前は黙ってろ」


 ルネが即座に切り捨てる。


 でも久苑は気にした様子もなく、廊下の先へ目を細めた。


 そのピンク色の瞳が、面白い玩具でも見つけた子どもみたいにきらきらしている。


「でも分かるよ」


「いるんでしょ?」


「さっきからずっと、見てる人」


 その瞬間。


 廊下の奥で、かつ、と小さな靴音がした。


 乾いた、硬い音だった。


 それだけで空気の質が変わる。


 誰もいなかったはずの場所に、人影がある。


 黒いワンピース型のメイド服。


 白いエプロン。


 整いすぎた所作。


 背筋はぴんと伸び、指先の位置まで正確に計算されているみたいだった。


 そこに立っているだけなのに、不思議と周囲の空気が静まって見えた。


 派手じゃない。


 威圧的でもない。


 むしろ控えめで、上品ですらある。


 けれど、目が離せない。


 離した瞬間に、何か決定的なものを見落としてしまいそうだった。


 こちらを見ている。


 まっすぐに。


 穏やかな顔で。


 感情的な敵意はない。


 怒りも、苛立ちも、見下しもない。


 だからこそ不気味だった。


「初めまして」


 彼女は静かに一礼した。


 動作は優雅で、無駄がなかった。


 声はやわらかい。


 思っていたよりずっと、人間らしい。


「突然失礼いたしました」


「少し、様子を拝見していたのですが……やはり兄さんは、こちらに深く関わりすぎているようですね」


「……来やがったか」


 ルネが露骨に顔をしかめる。


「帰れよ、サーシャ」


 サーシャ。


 その名前が出た瞬間、僕は息を呑んだ。


 兄さん、と言った。


 今、この人はルネをそう呼んだ。


 冗談じゃない。


 けれど、口調にも表情にも一切の迷いがないせいで、否定する隙がなかった。


「帰れ、とはご挨拶ですね、兄さん」


 サーシャは困ったように微笑んだ。


 やさしそうな、綺麗な笑み。


 誰が見ても感じがいいと思うような、整った表情。


 でも、その奥に一切の迷いがない。


 感情ではなく、判断だけで動いている人の笑みだった。


「私は、兄さんを迎えに来たのです」


「必要ねえ」


「必要ですよ」


 声は穏やかなまま。


 なのに、言葉だけは少しも揺らがない。


「兄さんは今、とても不安定です」


「契約も、存在も、感情も」


「このままでは、いずれ破綻します」


「だからどうした」


「どうもいたしません」


 サーシャはあっさり答えた。


「破綻する前に、管理するだけです」


 ぞくりとした。


 言い方は柔らかい。


 叱責でも脅しでもない。


 でも、その発想自体が冷たい。


 壊れる前に助ける、じゃない。


 壊れる前に管理する。


 その違いが、うまく説明できないのに恐ろしかった。


「管理……?」


 思わず聞き返すと、サーシャの視線が僕に向いた。


 やわらかい目だった。


 穏やかで、上品で、威圧する感じもない。


 けれど、見透かされている気がした。


 僕の不安も、迷いも、逃げたい気持ちも、全部すでに把握されているような感覚。


「はい」


「不安定なものは、適切に整えればよいのです」


「兄さんのように感情で動く方は、ときどき加減を誤りますから」


「あなたのような方を巻き込んでしまう」


「だから、枠を作る必要があるのですよ」


 言葉が出ない。


 怖いのに、怒鳴られている感じはしない。


 むしろ、諭されているみたいだった。


 だから余計に反論しづらい。


 正しいことを言われているように聞こえるのに、その正しさの中に、自分の意思が最初から入っていない。


「……気に入らねえな」


 ルネが低く言う。


「相変わらず、全部箱に詰めりゃ何とかなると思ってやがる」


「箱ではありません」


 サーシャは小さく首を振る。


「秩序です」


「人は、自由にしておけば壊れます」


「でしたら、壊れる前に形を決めたほうがいいでしょう?」


「その結果がそれかよ」


 ルネが鼻で笑う。


「何でもかんでも管理して、削って、従わせて」


「それのどこが生きてるって言えるんだ」


「生きているからこそ、です」


 サーシャは穏やかに返した。


「好き勝手にさせることを優しさとは思いません」


「壊れる自由より、壊れない支配のほうが、よほど誠実です」


 その言葉に、操がぴくりと反応した。


「……それ」


 小さく呟く。


「……何か、分かるかも」


「は?」


 ルネが険しい声を出す。


 操は僕の袖を掴んだまま、サーシャを見た。


 その目には戸惑いがあるのに、どこか引き寄せられている色もあった。


「だって、そうでしょ」


「決めてもらえたほうが、楽なこともある」


「ぐちゃぐちゃに迷うより、ずっと」


 僕の胸がざわつく。


 その言葉は、操自身の本音でもあるんだと分かってしまったからだ。


 自分で選ぶのが苦しいから、選ばなくていい場所にいたい。


 それは、ずっと僕も感じていたことだった。


「操さん」


 サーシャは初めて、少しだけやわらかく微笑んだ。


「あなたは、とても賢い方ですね」


 その一言が妙に甘く響いて、嫌な感じがした。


 認めているようでいて、どこか利用しているみたいな。


 相手の弱いところを見抜いたうえで、そこにそっと触れているような、そんな声音だった。


「やだなあ、それ」


 久苑が笑う。


「怖すぎるでしょ」


「管理とか支配とかさ」


「でも、兄弟そろって方向性違うだけで結構似てるね?」


「一緒にしないでください」


 サーシャは淡々と答える。


「私は、兄さんのように感情で壊しません」


「必要な範囲でしか切りませんので」


 さらっと言ったその一言に、背筋が冷えた。


 切る。


 今、この人はそう言った。


 しかも何でもないことみたいに。


「……お前な」


 ルネが苛立ちを露わにした、その瞬間だった。


 ふっ、と。


 ルネの輪郭が揺らいだ。


「――っ」


 今度は、誰の目にも明らかだった。


 肩から腕にかけて、存在が一瞬だけ薄れる。


 ノイズのような黒い揺れが走る。


 輪郭がほどけるみたいに、そこだけ現実から浮いた。


「兄さん」


 サーシャの声が、ほんの少しだけ低くなる。


「もう限界が近いですよ」


「うるせえ」


 ルネが笑う。


 でも、その笑いは引きつっていた。


 いつもの余裕がない。


「まだ平気だ」


「平気な方は、そんなふうに揺れません」


 正論だった。


 だから余計に、空気が悪くなる。


 言い返せない事実を、静かな声で突きつけられるのは、怒鳴られるよりずっと痛い。


「……晶くん」


 操が不安そうに僕を見上げる。


「離れよう」


「ここにいたら危ない」


「でも、ルネが」


「いいの」


 操が被せる。


「晶くんは、あの人を助けなくていい」


 その言葉に、胸がざわつく。


 助けなくていい。


 その響きが、妙に耳に残った。


 楽になれる言葉のはずなのに、何かを見捨てるための許可みたいに聞こえてしまう。


「……兄さん」


 サーシャが静かに一歩前に出る。


「そろそろ、私も手段を選びませんよ」


「やってみろよ」


 ルネが睨み返す。


「お前がどんだけ綺麗に並べたところで、オレは従わねえ」


「ええ、そうでしょうね」


 サーシャは困ったように笑った。


「兄さんは昔から、そういう方でしたから」


「ですから私は、兄さんだけを説得しに来たわけではないのです」


 その視線が、今度は僕へ向く。


 ぞくりとした。


 今まででいちばんはっきりと、自分が標的に入ったと分かる視線だった。


「あなたもです」


「……え?」


「兄さんがここまで不安定になった理由の一つは、あなたにある」


「でしたら、あなたにも理解していただく必要があります」


「理解……?」


「はい」


 サーシャは丁寧に頷く。


「誰を傍に置き、誰を遠ざけるか」


「それを決めるのは、思っている以上に大切なことなのですよ」


 その言葉は、静かなのに重かった。


 まるで、選択そのものをこちらへ押しつけてくるみたいに。


 何も知らないままでいたかったのに、知らないでは済まされない場所まで、もう来てしまったのだと突きつけられる。


「……面白くなってきたね」


 久苑が楽しそうに笑う。


「つまり、晶くんもそろそろ選べってこと?」


「そういうことになりますね」


 サーシャはさらりと答えた。


「壊れる前に、整理するべきですから」


 ルネが舌打ちした。


 その瞬間、また輪郭が揺れる。


 今度はさっきより長い。


 肩だけじゃない。


 全身の縁が、一瞬だけ黒く滲んだ。


「……っ、ルネ!」


 思わず一歩踏み出す。


「来んな!」


 鋭く怒鳴られた。


 でも、その声は少しだけ掠れていた。


 強がってるのが分かる。


 危うい。


 明らかに。


 それでも、近づくなと拒絶するのは、たぶん僕を巻き込みたくないからだ。


 そのことが分かってしまって、余計に胸が痛む。


「兄さん」


 サーシャが静かに告げる。


「次に揺れたら、私は強制的に連れ戻します」


「お前にそんな権限ねえよ」


「ありますよ」


 サーシャは微笑んだまま、言い切った。


「私が必要だと判断しましたので」


 そのやわらかさが、逆に怖かった。


 理屈の顔をした支配。


 優しさの形をした拘束。


 それは操とも似ていて、でももっと広くて、逃げ場がなかった。


 ――この人も、危ない。


 そう思った。


 ルネとは違う意味で。


 操とも久苑とも違う意味で。


 この人は、全部を静かに奪っていく。


 抵抗する隙も与えず、正しさの形で囲い込んでいく。


 そういう怖さだった。


 そのとき。


 ルネの影が、大きく歪んだ。


 黒い靄が足元から滲んで、廊下の床を舐めるように広がる。


「――っ!」


 空気が震える。


 窓が、がたん、と鳴った。


 蛍光灯の光が一瞬だけ明滅する。


 誰も動けない。


 操の指先が震える。


 久苑の目だけが、期待に満ちて細くなる。


 サーシャは静かに目を細めた。


 そして、僕はようやく理解した。


 これはただの口論じゃない。


 ただの兄妹喧嘩でも、価値観のぶつかり合いでもない。


 もう、何かが決壊しかけている。


 止めなければいけないのか。


 選ばなければいけないのか。


 それすら分からないまま、ただ一つだけ、はっきり分かった。


 もう。


 時間がない。


挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

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