第5話「愛原操は、救われて壊れた」
――保健室の空気が、壊れていた。
誰も動かない。
いや、違う。
動けない。
ほんの少し指先を動かすだけでも、この張りつめた空気が全部割れてしまいそうで、息をすることすらためらうような沈黙だった。
窓の外では、夕焼けが校舎を赤く染めている。
部活帰りの笑い声も、運動部の掛け声も、全部遠い。
この部屋だけが、世界から切り離されていた。
その中心で。
久苑だけが、楽しそうに笑っている。
場違いなくらい、軽やかに。
「ねえ、続き話していい?」
軽い声だった。
けれど、その声が落ちた瞬間、保健室の温度がさらに下がった気がした。
笑っているのに、冗談みたいに聞こえない。
むしろその軽さが、余計に気味悪い。
「……やめて」
操が言う。
小さい声で。
震えていた。
今にも途切れそうな、細い声。
「えー、なんで?」
久苑は首をかしげる。
本当に不思議そうに。
悪意なんてないみたいな顔で。
「だってさ」
「一番大事なとこじゃん」
――ドクン。
胸の奥で、嫌な音がした。
心臓が一回、大きく跳ねる。
嫌な予感がする。
何か、聞きたくないことが来る。
そう分かるのに、耳だけは勝手に次の言葉を待ってしまう。
「晶くんってさ」
久苑が、こっちを見る。
まっすぐに。
逃がさないみたいに。
「覚えてないでしょ?」
「……何を?」
喉が少しだけ詰まる。
声が、自分のものじゃないみたいに遠かった。
「ヒーローごっこ」
――っ。
その瞬間。
操の手が、びくっと震えた。
僕の腕を掴んでいる力が、一気に強くなる。
服の布越しでも分かるくらいに、必死だった。
「やめてって言ってるでしょ」
今度は、はっきりと。
さっきより強い声。
震えているのに、怒気が混じっていた。
「え、なんで?」
久苑は、無邪気に笑う。
その笑い方が、逆に残酷だった。
「だってそれ――」
一歩、踏み込む。
「全部の始まりじゃん」
空気が、凍った。
誰かが息を呑んだ気がした。
それが自分だったのか、操だったのか、もう分からない。
「……覚えて、ないの?」
久苑が言う。
僕に向かって。
「小さいころさ」
「泣いてる“女の子”を助けたこと」
「ない?」
頭の奥で、何かが引っかかった。
記憶の底に、沈んでいたもの。
古い箱の中でずっと眠っていたみたいな、曖昧で、色の薄れた景色。
公園。
夕方。
泣いている子。
何かを言われて、肩を縮めていた小さな背中。
薄暗い遊具の影。
砂まみれの靴。
鼻をすすりながら、必死に泣くのを我慢していた顔。
「……あ」
思い出す。
小さいころ。
ヒーローごっこ。
泣いてる子。
たしか、いじめられていて。
男のくせに気持ち悪いとか。
変だとか。
そんな言葉を投げられていた。
見ていられなくて。
だから――助けた。
ただ、それだけだった。
かわいそうだと思った。
泣いているから、助けた。
深い意味なんて、何もなかったはずだ。
「助けた……かも」
「でしょ?」
久苑が笑う。
嬉しそうに。
正解を当てた子どもみたいに。
でも、その目はどこか壊れていた。
「それが操だよ」
――え?
一瞬、音が消えた。
思考が止まる。
意味が分からない。
いや、分かりたくないのかもしれない。
「は?」
「いや、だって」
久苑は当然みたいに言う。
「操ってさ」
「“男”だよね?」
「……そうだよ」
操が言う。
静かに。
けれど、その声にはもう、逃げ場がなかった。
観念したような、追い詰められたような響き。
俯いた横顔は、どこか疲れ切っていた。
「でもね」
ゆっくりと。
操が顔を上げる。
その目は、真っ直ぐだった。
もう隠せないと決めた人の目だ。
「お母さんは、違った」
――っ。
「わたしは、“女の子”じゃなきゃダメだったの」
言葉が、重い。
ひとつひとつが、胸の奥に沈んでいく。
「そうじゃないと」
「壊れるから」
「全部」
笑った。
壊れたみたいに。
泣く代わりに笑ってしまう人の顔だった。
「だからね」
操は、僕を見る。
まっすぐに。
逃がさないくらい、真っ直ぐに。
「女の子でいなきゃいけなかった」
「可愛くして」
「ちゃんとして」
「座り方も」
「笑い方も」
「声の出し方も」
「全部、決められてた」
淡々と並べられる言葉が、逆に痛い。
それはしつけなんかじゃない。
好みでも教育でもない。
人格ごと上書きするための命令だ。
一瞬、操の言葉が止まる。
でも、すぐに続く。
「小さいころ、少しでも男っぽくするとね」
「お母さん、泣くの」
静かな声だった。
だけど、その静かさが怖かった。
「“どうしてそんな子になっちゃったの”って」
「“ママを嫌いになったの?”って」
「“お願いだから普通にして”って」
胸が、重くなる。
責めているわけじゃない。
怒鳴っているわけでもない。
なのに、逃げ道がない。
愛情の形をしているからこそ、余計に。
「だから、頑張った」
操が、小さく笑う。
「髪も伸ばした」
「可愛い服も着た」
「鏡の前で、笑う練習もした」
「気持ち悪いって言われないように」
「ちゃんと、“いい子”でいられるように」
その声は穏やかなのに、聞いているだけで息が苦しくなる。
どれだけの時間、そうやって生きてきたんだろう。
どれだけ、自分を削ったんだろう。
「間違えたら――」
「怒られて」
「泣かれて」
「壊れて」
「だから」
「ちゃんとしなきゃいけなかった」
息が詰まる。
軽い話じゃない。
それは“育てられた”じゃない。
“作られた”だ。
その人にとって都合のいい形に、少しずつ、逃げられないように。
「でもね」
少しだけ。
ほんの少しだけ。
操の表情が緩んだ。
暗い部屋の中で、そこだけかすかに灯りがともるみたいに。
「晶くんが」
名前を呼ばれる。
ドクン、と心臓が鳴る。
「助けてくれたとき」
「“女の子でもいい”って言ってくれた」
「かわいいって」
「守るって」
「ヒーローみたいに」
――っ。
思い出す。
幼い頃の、何気ない言葉。
泣いていた子を安心させたくて、たぶんそういうことを言ったんだろう。
『大丈夫』
『俺が守るから』
『可愛いんだから泣くなよ』
そんな、どこにでもある子どもの台詞。
ただの善意。
ただの一言。
それだけだったはずなのに。
「……嬉しかった」
操が言う。
「初めてだったから」
「否定されなかったの」
「わたしのままでいいって」
その“わたし”が、どこまで本当の操で、どこまで作られた操だったのか。
そんなことすら、もう本人の中で混ざってしまっている気がした。
「だから」
操が、震える声で続ける。
「晶くんだけは、特別だった」
「わたしを、ちゃんと見てくれたから」
その瞬間。
ルネが、舌打ちした。
「――ああ」
「なるほどな」
低い声。
全部理解したみたいに。
嫌な仕組みを見抜いたみたいに。
「だからね」
操が、一歩近づく。
「晶くんは、特別なの」
手が、伸びてくる。
白い指先が、恐ろしいほど静かに。
逃げられない。
「わたしを、救ってくれた人だから」
「だから」
少しだけ、力が強くなる。
腕に食い込む指先。
「今度はわたしが」
「晶くんを守る」
「このままでいいよ」
優しく。
でも、逃がさない声で。
「変わらなくていい」
「壊れなくていい」
「ここにいればいい」
「わたしがいるから」
――甘い。
優しい。
包み込むみたいな言葉。
なのに。
どうしてこんなに、息苦しいんだろう。
慰められているはずなのに、首元に柔らかい紐を巻かれていくみたいな感覚がある。
「――それが、一番危ねえんだよ」
ルネが、低く言った。
「“救い”で固定された人間は」
「一生、そこから動けなくなる」
「違う」
即答だった。
迷いがない。
「晶くんは、壊れなくていい」
「はは」
久苑が、楽しそうに笑った。
「やっぱり壊れてるね」
そして、僕を見る。
「これが操の“正体”」
「救われた瞬間に」
「止まっちゃった人間」
「――やめて」
操の声が、震える。
そう言って。
僕の腕に、さらに強く抱きついた。
その瞬間――
袖が、ずれた。
白い手首。
そこに。
細い傷跡が、いくつも走っていた。
古いものも。
新しいものも。
一本や二本じゃない。
一度や二度の衝動じゃないと分かってしまうくらい、そこには積み重なった時間があった。
「――っ」
息が止まる。
視線が、そこから離れない。
細い腕。
白い肌。
その上に残る、消え切らなかった痕跡。
見えないところで、何度も壊れかけていた証拠。
「見ないで」
操が、慌てて袖を引く。
「違うの、これは……」
でも、もう遅い。
見えてしまったものは、なかったことにならない。
その傷は、操がここまで抱えてきたものの全部を、言葉より雄弁に語っていた。
「晶くん」
さらに必死に縋り付くように、僕の腕にしがみつく。
「行かないで」
「変わらないで」
「ここにいて」
腕が痛い。
でも、振りほどけない。
力の強さだけじゃない。
その声の必死さが、こっちの動きを封じる。
優しさの形をした何かが、じわじわと絡みついてくる。
逃げ場を与えてるんじゃない。
逃げられなくしている。
「……晶くん」
静かな声。
でも、重い。
「大丈夫」
「ここにいれば、何も怖くないよ」
――本当に?
そう思った瞬間。
違和感が走る。
この言葉は、僕を助けるためのものじゃない。
自分のそばに縫い止めるための言葉だ。
僕を安心させるためじゃない。
僕を離さないための言葉。
「……晶」
ルネの声。
いつも以上に、重く、低い。
「それが“救い”に見えるか?」
答えられない。
操は苦しそうで。
可哀想で。
壊れていて。
だから、突き放せない。
でも。
優しいのに。
――怖い。
このまま頷いたら。
もう二度と、動けなくなる気がした。
「……なあ」
ルネが言う。
「それ、ただの“共倒れ”だぞ」
「違う!!」
操が即答し、叫ぶ。
保健室の空気が震える。
「沈まない!」
「ここなら大丈夫!」
「だから――」
言葉が止まる。
息だけが乱れる。
その肩は、小刻みに震えていた。
怖いんだ。
置いていかれるのが。
一人になるのが。
見捨てられるのが。
その代わりに。
ぽつりと。
「……どこにも行かないで」
縋る声。
震えている。
必死だ。
切実で、痛いくらいに本気だ。
でも、やっぱり重い。
「晶くん」
「お願い」
「置いていかないで」
――分かってしまった。
これは。
優しさじゃない。
依存だ。
僕を守るためじゃない。
僕を“止める”ための言葉だ。
あの日、救われたままの形で。
あの瞬間に縋ったままの心で。
操は、ずっとそこに立ち尽くしていたんだ。
時間だけが、流れる。
誰も動かない。
壊れた空気の中で。
ただ――
くすっ。
誰かが笑った気がした。
――違う。
さっきの久苑とは、違う。
もっと静かで。
もっと冷たい。
ぞっとするくらい、温度がない。
感情じゃない。
まるで。
観察するみたいな。
測るみたいな。
記録するみたいな。
そんな笑い方だった。
その瞬間――
背筋に、ぞくりとした寒気が走る。
肌の表面を、見えない指がなぞったみたいに。
誰もいないはずの場所に。
視線だけがあった。
――いや。
違う。
“見られている”んじゃない。
“管理されている”。
もっと上から。
もっと遠くから。
人間の感情とは別の基準で、こちらの全部を判定されているみたいな気配。
保健室の壊れた空気の、その外側から。
何かが、ずっと。
こっちを見ていた。
そして。
その“何か”は。
操の壊れ方も。
僕の迷いも。
全部、最初から知っていたみたいに――
静かに、笑っていた。




