第4話「久苑・グラヴィーナは、壊しに来る」
――ガラッ。
そのとき。
保健室のドアが、もう一度開いた気がした。
……気のせい、かもしれない。
音はしたはずなのに、誰も入ってきていないような、妙な感覚だった。
でも。
さっきまでとは違う“空気”が、確かに流れ込んできた。
軽いのに、どこか歪んでいるような。
明るいのに、温度が合っていないような。
言葉にできない違和感だけが、肌の上を薄く這っていく。
僕は思わず、そちらに目を向ける。
――誰もいない。
はずなのに。
なぜか、視線を逸らせなかった。
見られているような。
でも、違う。
“測られている”みたいな。
値踏みでも観察でもない。
もっと機械的で、もっと冷たい感覚。
心臓の奥に直接、薄い針を刺されるみたいな気味の悪さだけが残った。
気のせいだと思いたい。
でも、胸の奥に引っかかって離れない。
操の冷たい手。
ルネの赤い瞳。
そして、昨日の最後に感じた、選ばされるような圧。
それらが全部、まだ保健室の空気に残っている気がした。
――昨日の空気が、まだ残っている。
何も選べなかったまま。
変わりたいのに変われない。
変わらないで、楽なほうへ逃げる。
頭の中で、同じ言葉が何度も繰り返される。
どっちも選べないまま。
中途半端に立ち止まっている感覚だけが、ずっと消えなかった。
胸の奥に、重たいものが沈んでいる。
飲み込めない石みたいに、ずっとそこにある。
教室に戻ることも。
保健室に甘えることも。
どっちも正しい気がしなくて、どっちも捨てきれない。
昨日からずっと、僕の中だけ時間が変なふうに止まっていた。
昼休み、学校へと向かう。
いつも騒がしい時間帯。
でも今日は、やけに音が刺さる。
笑い声も。
話し声も。
机を引く音も。
廊下を走る足音も。
全部がうるさい。
みんな普通に過ごしているだけなのに、その“普通”の中に自分だけ入れていない感じがする。
まるで透明な壁の外側から、知らない世界を眺めているみたいだった。
それを無理やり受け流していると、生徒たちの会話が耳に入ってきた。
「ねえ見た?」
「見た見た! あの転校生!」
「すっごい美人でびっくりしちゃった!」
「しかももうクラスで人気者らしいぜ?」
「男子なの? 女子なの? どっち?」
「さあ? でも可愛いからどっちでもよくない?」
――転校生。
その単語だけが、妙に耳に残る。
でも。
僕には関係ない。
どうせ、同じ教室にいても関わることなんてない。
そういう輪の中に入っていける側の人間じゃない。
話題の中心にいる人間と、保健室へ逃げ込む僕。
最初から、住んでいる世界が違う。
分かってる。
分かってるけど――
少しだけ。
ほんの少しだけ。
胸の奥がざわついた。
自分と無関係だと切り捨てるには、なぜかその話題だけが耳に残りすぎた。
悲しい現実から目を逸らしながら、僕はいつも通り保健室へと向かう。
廊下の角を曲がったところで。
姿を消していたルネが、突然声をかけてきた。
「ほーん、転校生か」
「いかにも学園イベントって感じだな」
「ま、保健室登校のオマエには関係ねぇんだろうがな」
ケタケタと笑う声。
ムカつく。
でも。
否定できない。
その通りだから。
言い返せない自分が、余計に腹立たしい。
「……うるさい」
小さく返すのが精一杯だった。
するとルネは、ますます面白そうに笑った。
「図星かよ」
「ほんと分かりやすいな、オマエ」
「……ほっといてよ」
「ほっといたら一生そのままだろ」
腹が立つ。
けれど、その軽口のおかげで少しだけ緊張が薄れたのも事実だった。
だから余計に悔しい。
ルネがいると、全部うるさい。
うるさくて、無神経で、最悪で。
でも、僕の頭の中の嫌な声まで一緒にかき消してくる。
それが余計に腹立たしかった。
保健室のドアを開けると。
そこには、いつものように操がいた。
白いシーツの上。
静かに座っている。
薄い光の中で、その姿だけが妙に整って見えた。
まるで最初から、そこにいるために置かれていたみたいに。
綺麗で。
儚くて。
少しだけ、怖い。
でも。
こっちを見た瞬間、操はにっこりと笑った。
「晶くん」
その声に、少しだけ安心してしまう。
昨日、あんなことがあったのに。
操の声を聞くと、体の力が抜ける。
それがもう、少し怖かった。
「……今日もいるんだね、その人」
やわらかい声。
いつもと同じトーン。
でも。
どこか牽制するような響きがあった。
“その人”という呼び方に、少しも親しみがない。
「よう、メンヘラ」
「今日も変わらず保健室に逃げ込みか?」
ルネが即座に煽る。
やめてくれ。
空気が一気に張り詰める。
また、あの感じだ。
息が詰まりそうな、あの重たい空気。
操の笑顔は崩れていない。
けれど、目だけが静かに冷えていくのが分かる。
「……晶くん」
操は僕だけを見る。
「こっち、おいで」
優しい声。
でも、その声には少しだけ命令みたいな響きがあった。
行けば楽になる。
そう分かる。
でも、足が動かない。
昨日のルネの言葉が、頭の奥に残っていた。
――“そのままでいい”なんて言葉で、動けなくしてんのはオマエだろ。
違う。
操はそんな人じゃない。
そう思いたいのに、完全には否定できない。
そう思った、そのとき――
――ガラッ!!
勢いよく、ドアが開いた。
さっきとは違う。
明確な“侵入”。
「ねえねえ、君が晶くん!?」
明るい声。
場違いなくらいに。
保健室の重苦しい空気を、土足で踏み荒らすみたいな声だった。
反射的に振り向く。
そこに立っていたのは。
輝く金髪。
中心にハート型の、鮮やかなピンクの瞳。
高めの身長。
整いすぎている顔立ち。
女の子みたいに可愛い。
でも、多分男。
その“違和感”ごと、全部まとめて押し付けてくるような存在だった。
制服すら、この人が着ると別物に見える。
教室の人気者と言われても納得できる華やかさ。
そこにいるだけで、視線を奪う。
明るくて。
派手で。
眩しくて。
それなのに、なぜか目が離せないほど不気味だった。
見た瞬間、何かがズレていると分かる。
笑顔の形は完璧なのに、感情の温度が合っていない。
喜んでいるようで、楽しいようで。
でも、人間らしい温かさがどこにもない。
「そ、そうだけど……だ、誰……!?」
「はじめまして! ボク、久苑・グラヴィーナ!」
「今日転校してきたんだ!」
「晶くんと同じクラスでさ!」
「みんなから聞いて、会いに来ちゃった☆」
情報量が多い。
頭が追いつかない。
言葉の勢いに押し流される。
理解が追いつく前に――
ぐいっと。
抱きつかれた。
「ちょっ、え!?」
距離が近い。
近すぎる。
体温が、直接伝わってくる。
香水なのかシャンプーなのか分からない甘い匂いがして、余計に混乱する。
反応が遅れる。
押し返そうにも、何が起きたのか理解する方が先に追いつかない。
「会いたかったんだよねー、晶くんに」
「なんで!?」
「だって面白そうだから!」
「理由になってない!」
「なんだァコイツ、やかましいヤツだな」
ルネが露骨に嫌そうな声を出す。
でも。
その目は、完全に警戒していた。
笑っていない。
ただのうるさい転校生を見る目じゃない。
獲物を見る目でもない。
むしろ、面倒なものを見つけてしまったときの目だった。
「……久苑」
操の声。
静か。
でも、明らかに冷たい。
「何しに来たの」
……え?
知り合い?
その事実に驚くより先に、操の声音の変化に背筋がぞくりとした。
いつもの操じゃない。
優しい声の奥に隠していた何かが、一瞬だけ表に出ている。
「操! 久しぶり〜! 元気にしてた?」
久苑は満面の笑みで手を振る。
明るくて、人懐っこい。
けれど、その笑顔が本物じゃないことは、なぜかすぐ分かった。
「……今はそういうことを聞きたいんじゃない」
「何しに来たのって言ってるの」
間。
そのあと。
「それと」
操は、僕の腕に絡みついている久苑を見る。
「晶くんにベタベタし過ぎ」
「離れて」
ぴし、と空気が凍る。
「やだなあ、こんなのイタリアでは普通のスキンシップじゃん」
軽い口調。
でも。
目だけが、冷たい。
笑っていない。
冗談みたいに言っているのに、試している感じがする。
どこまで踏み込めるか、わざと確かめているみたいに。
「ここ日本だから」
操が静かに言う。
「それに、晶くんは嫌がってる」
「えー? そうなの?」
久苑が僕の顔を覗き込む。
「嫌?」
「え、あ、いや……」
嫌、というか。
困る。
混乱する。
でも、はっきり拒絶する言葉は出てこない。
まただ。
また何も言えない。
久苑は、それを見て楽しそうに笑った。
「ほら、嫌じゃないって」
「……で?」
操が言う。
「答えて」
短い沈黙。
そのあと。
久苑は、くすっと笑った。
「何しにって……」
「操、キミさ」
少し首をかしげる。
「まだ“そっち”にいるんだ?」
――空気が、凍る。
意味が分からないのに、その言葉がまずいものだと分かる。
「……何の話」
操の声が低くなる。
久苑は、楽しそうに続ける。
「だってさあ」
「前はもっと、ちゃんとしてたじゃん」
「ちゃんと――壊れてたのに」
――っ。
その瞬間。
操の指先が、わずかに震えた。
初めて見る反応だった。
いつも静かで、やさしくて、少しも乱れないように見えた操が。
たった一言で、揺れた。
「……やめて」
小さい声。
でも、確かに震えている。
「なにそれ」
ルネが低く呟く。
「……オマエ、何知ってる?」
今までで一番真面目な声。
久苑はちらっとルネを見る。
「ん?」
「キミ、そういうの分かるタイプ?」
にやっと笑う。
「いいね」
「壊れてる人、好きだよ」
ぞわっとした。
その言い方。
普通じゃない。
好意でも親しみでもない。
標本を見るみたいな声音だった。
「……晶くん」
操が僕の腕を強く掴む。
さっきより、明らかに強い。
「この人、ダメ」
「関わっちゃいけない」
必死な声。
でも。
聞き覚えがある。
――あのときと同じだ。
「このままでいい」って言ってくれたときの声。
やさしいのに、どこか逃がさない響き。
「えー、ひどくない?」
久苑は気にしていない。
むしろ楽しそうだ。
「だってさあ」
僕の顔を覗き込む。
近い。
逃げられない。
「キミ」
「まだ壊れてないじゃん」
「……は?」
意味が分からない。
でも。
視線が逸らせない。
中心がハート型に輝くピンクの瞳が、じっとこっちを見ている。
ふざけた見た目のはずなのに、笑えなかった。
「いいなあ、それ」
嬉しそうに笑う。
「壊れる直前ってさ」
「一番キレイなんだよね」
理解できない。
でも。
分かる。
この人は、普通じゃない。
人が傷つく瞬間を、景色みたいに楽しんでいる。
しかもそれを隠そうともしない。
「……チッ」
ルネが舌打ちする。
初めてだった。
「めんどくせぇの来たな」
「……やっぱりな」
その一言で。
空気がさらに重くなる。
やっぱり、という言い方。
まるで来ると分かっていたみたいで、余計に不安になる。
「……何の話だよ」
僕だけが分かっていない。
操は震えている。
ルネは警戒している。
久苑だけが笑っている。
――ズレている。
全部。
僕だけ置いていかれている感じがする。
「ねえ晶くん」
久苑が楽しそうに言う。
「どっち選ぶの?」
――ドクン。
昨日の言葉が、脳裏に蘇る。
「壊れないまま終わるか」
「それとも」
一歩、近づく。
「ちゃんと壊れるか」
逃げたい。
でも。
動けない。
操の手が、さらに強くなる。
「晶くん……行かないで」
「晶くんは、そのままでいいの」
「変わらなくても、わたしがいるから」
その声は優しい。
守るみたいに、包むみたいに。
でも、なぜか苦しい。
そこに安心すればするほど、足元が沈んでいく感覚がある。
ルネが、ぼそっと言う。
「選ばされてんぞ」
――選ばされてる?
頭が追いつかない。
「そうやって“逃げ場”作ってもらって」
「一生そこに隠れてんのか?」
胸が痛い。
でも、否定できない。
操の言葉は甘い。
久苑の言葉はおかしい。
ルネの言葉は痛い。
どれも違うのに、どれも無視できない。
保健室の空気が、おかしくなる。
白いカーテンも、ベッドも、窓から差す昼の光も、全部が少しずつ現実感を失っていく。
ここはただの保健室のはずなのに。
いつの間にか、何かを決めさせるための場所みたいになっていた。
僕の意志とは関係なく。
逃げるか。
進むか。
壊れるか。
壊れないままでいるか。
答えなんて、まだ出せるわけがないのに。
このままじゃ。
もう、前には戻れない。
昨日までみたいに、何も知らないふりはできない。
操のやさしさの奥にあるものも。
ルネの挑発の中にある本音も。
そして。
久苑・グラヴィーナという、明るい顔で人を壊しにくる存在も。
知ってしまった。
――僕の日常は、確実に壊れ始めていた。
しかもそれは、静かにじゃない。
笑いながら。
楽しそうに。
逃げ場を塞ぐみたいに。
もう、選ばないままではいられない。
そう思った瞬間。
久苑が、また笑った。
にこにこと。
まるで、全部予定通りだと言うみたいに。
「じゃあさ」
明るい声で。
残酷なほど軽く。
「ボクが手伝ってあげるよ」
「晶くんが、ちゃんと選べるように」
その言葉に。
僕は、なぜか確信してしまった。
この人は、助けに来たんじゃない。
この人は。
壊しに来たんだ。




