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第3話「愛原操は、静かに壊れている」



 ――ガラッ。


 保健室のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。


 たったそれだけの音なのに、まるで何かの境目が閉じたみたいだった。


 さっきまでの空気とは、明らかに違う。


 重い。


 張り詰めている。


 白いカーテン。


 薬品の匂い。


 窓から差し込む昼の光。


 いつもなら静かで、少しだけ安心できるはずの部屋。


 なのに今は、その全部が妙に息苦しい。


 僕は、操とルネの間に立たされる形になっていた。


 どちらの側にも寄りきれない、曖昧な場所。


 逃げ道みたいでいて、いちばん苦しい位置だった。


「晶くん、その人……誰?」


 操は、いつもの柔らかい声でそう言った。


 やけにニッコリと微笑んでいる。


 優しそうで、穏やかで、いつもの操そのまま。


 でも、その瞳だけは笑っていなかった。


 じっと、真っ直ぐにルネを見ている。


 表情はやわらかいのに、目だけが冷たい。


 その違和感に、喉の奥がひりついた。


「は? こっちのセリフだろ」


 ルネが、面倒くさそうに鼻で笑う。


「オマエ、誰だよ」


 空気が、さらに冷える。


 たった一言ずつの応酬なのに、肌が粟立つ。


 窓は閉まっているはずなのに、保健室の温度が急に下がったみたいだった。


「……晶くん」


 操はルネから視線を外さずに、僕の名前を呼んだ。


「説明、してくれる?」


「えっと……その……」


 言葉が出てこない。


 悪魔を召喚しました、なんて言えるわけがない。


 そもそも自分でも、何をどう説明すればいいのか分からない。


 ルネの存在そのものが、現実から少し浮いている。


 でも、そこにいる。


 いるのに、説明できない。


 黙り込む僕を見て、ルネが肩をすくめた。


「言えねえなら、オレが言ってやろうか?」


「やめて!」


 反射的に声が出た。


 自分でも驚くくらい大きかった。


 操の視線が、すっと僕に向く。


「……言えないこと、なんだ」


「いや、違くて……」


 違う。


 違う、けど。


 何が違うのか、自分でもうまく言えない。


 言葉にしようとすればするほど、全部が嘘っぽくなる。


 口の中が乾く。


 変な沈黙だけが長くなる。


 その様子を見て、操はふっと笑った。


「大丈夫だよ」


 やさしい声。


 静かで、落ち着いていて、責める色はない。


 でも、どこか逃がさない響きがあった。


「言いたくないなら、言わなくていいよ」


「わたしには、わかるから」


「……」


「そのままでいいよ」


 その言葉に、胸が少し軽くなる。


 張りつめていたものが、ふっと緩む。


 ああ、やっぱり。


 操は優しい。


 何も求めてこない。


 責めない。


 無理に聞き出そうとしない。


 ただ、受け入れてくれる。


 どんなに情けなくても、何もできなくても、ここにいていいと言ってくれる。


 それが、どれだけ救いになるか。


 僕はもう、知ってしまっていた。


「はっ」


 ルネが、短く笑った。


 嘲るような、呆れるような乾いた声。


「それで満足か?」


「……え?」


「“そのままでいい”って言われて、安心してんのかって聞いてんだよ」


 ドクン、と心臓が鳴る。


 図星を刺されたみたいに、胸の奥が痛む。


「別に……」


「別にじゃねえだろ」


 ルネは僕を見下ろすように言った。


「それで何も変わらねえまま、ずっとここに逃げ込んでるだけじゃねえか」


「ああいうのが一番タチ悪ぃんだよ」


「“このままでいい”とか言って腐らせるやつ」


 言葉が荒い。


 きつい。


 でも、妙に耳に残る。


「それで腐ったやつ、何人も見てきたわ」


「人間ってほんと同じとこで腐るよな」


「腐ってもいいよ」


 操が、静かに言った。


「苦しまないなら、そのほうがいい」


「……っ」


 言い返せない。


 操が、少しだけ眉をひそめる。


 いつものやさしい顔のまま。


 でもその声は、さっきよりわずかに硬かった。


「……晶くんを追い詰めるの、やめてくれる?」


「追い詰めてんのはどっちだよ」


 ルネが即座に返す。


「なあ晶、ああいうのに捕まると終わるぞ」


 ルネは笑う。


 冷たく、楽しそうに。


「“そのままでいい”なんて言葉で、動けなくしてんのはオマエだろ」


「……違う」


 操の声が、わずかに低くなる。


「晶くんは、もう十分頑張ってる」


「これ以上、壊れる必要ない」


「頑張ってねえからああなってんだろ」


「――っ」


 空気が、一気に張り詰める。


 二人の間で、何かがぶつかっている。


 見えないのに、確かに分かる。


 感情とか、価値観とか、もっと根っこの部分で、真っ向から噛み合っていない。


 僕は、ただ立ち尽くすしかなかった。


 どちらの言葉にも、引っ張られる。


 どちらも極端なはずなのに、どちらも完全には否定できない。


「晶くん」


 操が、僕を見る。


 さっきと同じ優しい顔。


 でも、その奥に何かがある。


 やわらかさの奥に、見えない深さがある。


「無理しなくていいよ」


「……」


「嫌なことからは、逃げていい」


「ねえ晶くん」


「あの人の言うこと、聞かなくていいよ」


「ああいう人に関わると、傷つくだけだから」


 甘い。


 すごく、楽だ。


 ここにいればいい。


 何も変わらなくてもいい。


 そう思わせてくる。


 抗わなくていいと言われるだけで、張っていた糸がほどけていく。


「わかるよ、晶くん」


 操の声は、ひどく静かだった。


「教室では誰も助けてくれる人なんていない」


「わたしも、そうだったから」


「無理しても、誰も助けてくれないよ」


「助けてもらえなかったから、保健室に逃げたの」


 一言一言が、やけに染みる。


 操自身がそうやってここに来たからこそ、言葉に重みがある。


 ただ甘やかしているんじゃない。


 たぶん、本気でそう思っている。


「でも今は晶くんがいて、晶くんにもわたしがいる」


「それでもういいじゃない」


「これ以上、壊れなくて済むんだから」


 操の手が、そっと僕の袖を掴む。


 冷たい指先。


 細くて、白くて、少しだけ震えている。


 助けるための手なのか。


 留めるための手なのか。


 分からなくなる。


「なあ」


 ルネの声が、すぐ近くで響く。


「それでいいのか?」


「……」


「このまま、何も変わらず終わるだけだぞ」


 声は低いのに、妙に耳に刺さる。


「助けられる側でいられなくなったやつはな」


「今度は“助ける側”に回るんだよ」


 言葉が、刺さる。


 意味がすぐには分からないのに、いやに引っかかる。


 救われることにしがみついたままの人は、今度は誰かを救う側を名乗って、同じ場所に縛ろうとする。


 そう言われている気がした。


「選べよ」


 ルネが言った。


「は……?」


「楽な方に逃げるか」


 一歩、近づく。


 その赤い目が、まっすぐ僕を射抜く。


「痛くても変わるか」


 逃げ場がない。


 操のぬくもりと、ルネの鋭さの間で、息が詰まりそうになる。


「……そんなの」


 決められるわけがない。


 今すぐ答えろなんて、無理だ。


「決められねぇよな」


 ルネが、にやりと笑う。


「だからオマエはそうなんだよ」


「……っ」


 悔しい。


 でも、否定できない。


 何も選ばず、何も決めず、ただ楽な方へ寄りかかってきた自分に、覚えがありすぎた。


 操が、そっと僕の手を取った。


 冷たい。


 でも、安心する温度。


 ひんやりしているのに、不思議と落ち着く。


「晶くん、大丈夫」


 優しく、包み込むように。


「ゆっくりでいいから」


「……」


 このままでいい。


 ここにいれば、楽だ。


 何も変わらなくていい。


 痛い思いをしなくていい。


 誰かに否定される場所へ戻らなくていい。


 ――でも。


 胸の奥で、別の声がする。


 あの購買での一言。


 順番なんで、と震えながら言えた自分。


 それだけで、ほんの少しだけ息ができたこと。


 あれは、たしかに僕の中に残っている。


「……僕は」


 口が、勝手に動いた。


 自分でも驚く。


「……変わりたい」


 小さな声。


 震えている。


 でも、確かに自分の言葉だった。


「……怖いけど」


「それでも、変わりたい」


 言った瞬間、胸がひどく苦しくなる。


 楽な方を捨てたわけじゃない。


 まだ捨てられない。


 でも、それでも。


 このまま終わるのは嫌だと思ってしまった。


 その瞬間、操が僕の腕に強くしがみついてくる。


 さっきまでの穏やかな力とは、明らかに違う。


 止めるための力。


「……どうして?」


 操の声が、小さく揺れた。


「晶くんは、ここにいてくれたらいいのに」


「ここなら、傷つかないのに」


「わたしが、いるのに」


 その言葉は優しい。


 なのに、どうしてか胸が詰まった。


 袖の奥、白い手首に一瞬だけ何かが見えた気がした。


 線のような。


 薄く残った、何かの痕みたいな。


 でも、確認する前に隠れてしまう。


 ルネが、勝ち誇ったように笑う。


「ほらな」


「……」


「結局、そっち捨てきれてねぇじゃん」


 胸がざわつく。


 操の言葉は、安心する。


 抱きしめられるみたいに、沈んでいける。


 でも。


 ルネの言葉の方が、離れない。


 耳じゃなくて、頭の奥に残り続ける。


「……晶くん」


 操が、静かに僕を呼ぶ。


「……どこにも行かないで」


「ここにいれば、傷つかないから」


 その声はやさしい。


 泣きそうなくらい、やさしい。


 でももう、さっきまでと同じじゃない。


 そこに混じる何かを、僕は感じ取ってしまった。


 願い。


 執着。


 縋りつくみたいな熱。


 何かが、変わってしまった。


 僕の中で。


 逃げたい気持ちと。


 変わりたい気持ちが。


 ぐちゃぐちゃに混ざっている。


 どっちも本音だ。


 どっちも、捨てられない。


 楽でいたい。


 でも、このまま終わりたくない。


 守られたい。


 でも、自分で歩けるようにもなりたい。


 ――どうすればいいんだ。


 僕は、ただ立ち尽くしたまま思う。


 逃げるか。


 進むか。


 そのどちらも選びきれないまま。


 それでも。


 もう、前みたいには戻れない気がした。


 操のやさしさにただ甘えるだけの自分には、戻れない。


 ルネの言葉を聞かなかったことにも、できない。


 知ってしまったから。


 やさしい言葉が、必ずしも救いじゃないことを。


 痛い言葉が、必ずしも悪意だけじゃないことを。


 ――僕は、どっちを選べばいいんだ。


 頭の中で、その言葉が何度も反響する。


 ――僕は、どっちを選べばいいんだ。


 ……いや。


 違う。


 ふと、そう思った。


 これはただの選択じゃない。


 もっと別の、何かだ。


 逃げるか、進むかを自分で選ぶというより。


 見えない何かに、少しずつ追い込まれているような。


 答えを出すまで、立ち止まることすら許されないような。


 そんな圧が、確かにあった。


 保健室の静かな空気の奥で。


 操の手の冷たさの中で。


 ルネの赤い瞳の底で。


 僕は、確かに感じてしまった。


 ――選ぶんじゃない。


 ……選ばされる気がした。


挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

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