第2話「ルネがいるだけで、全部うるさい」
「やっと起きたか」
――声がした。
頭のすぐ近くで。
「……は?」
寝ぼけたまま目を開ける。
見慣れた自分の部屋。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
机の上に置きっぱなしの教科書。
脱ぎ捨てたままの制服。
何もかも、いつも通りの朝。
――そして。
見慣れない“悪魔”。
「うわぁぁぁあああああああ!?」
叫んだ瞬間、僕は布団ごとベッドから転げ落ちた。
背中を床に打ちつけて、変な声が出る。
痛い。
痛いということは、夢じゃない。
つまり。
……やっぱり夢じゃなかったんだなあ。
昨晩、黒魔術で召喚してしまったアイツ。
見た目だけなら、やたら整った顔立ちの少女にしか見えない。
白い肌。
不遜に細められた瞳。
小柄なのに、なぜか部屋の空気を支配しているみたいな存在感。
そして、頭には小さな角。
背中には黒い翼。
どう見ても、人間じゃない。
昨晩は呆然とするしかなかった僕に興ざめしたかのように、
「そんじゃ、ちょっくら出かけてくるわ」
とだけ言い残し、どこかへと消えてしまった。
だから正直、もう戻ってこないかもしれないと思っていた。
いや、そう思いたかった。
昨日の出来事は全部夢で、目が覚めたらいつもの冴えない日常に戻っている。
そんな都合のいい展開を、心のどこかで期待していた。
けれどこの様子だと、どうやら今朝になって戻ってきていたようだ。
しかも、よりによって僕の枕元で。
見た目だけは少女のように可憐。
中身は傍若無人な王様。
そんな悪魔――ルネが、僕を見下ろしていた。
「普通、学校ならもう始まってる時間だろ」
「そうだけど、今から行くよ」
「こんな中途半端な時間からァ?」
現在、部屋の時計が指しているのは午前十時半。
普通の生徒なら、二時間目か三時間目の授業を受けている時間だ。
つまり完全に遅刻。
だけど、僕にとっては珍しいことじゃない。
「……なんだよ。言いたいことでもあるのかよ」
途端、つまらなそうな顔をしていたルネの顔が、ニヤッと歪む。
「お、ちゃんと言い返せるんじゃねえか」
「……」
「で、なんでこんな時間から学校なんだ?」
……そんなの分かってるくせに。
僕はルネのニヤニヤした顔を無視しつつ、学校へ行く準備を始めた。
洗面所で顔を洗う。
冷たい水が肌に当たって、少しだけ意識がはっきりする。
鏡に映った自分は、相変わらず冴えない顔をしていた。
寝癖のついた髪。
薄い顔色。
どこか怯えたような目。
自分で見ても、情けない。
制服に袖を通しながら、胸の奥が少し重くなる。
今日も教室には行かない。
いや、行けない。
保健室登校。
その言葉に慣れたふりをしているけれど、本当は慣れてなんかいない。
普通じゃない自分を、毎日確認させられているみたいで苦しい。
玄関で靴を履いていると、背後から当然のようにルネがついてきた。
「……なんでついてきてるの?」
「あ? 暇だから」
「暇だからで学校についてこないでよ!」
「うるせぇ。オレの勝手だろ」
「うるさいとかそういう問題じゃないんだけど!?」
ただでさえクラスに居場所がなくて保健室登校の僕が、得体の知れない悪魔を連れてきたとなったら、色んな意味で死ぬ。
社会的に。
精神的に。
場合によっては、たぶん物理的にも。
そうして学校に来たのはいいものの――。
「なんで校門まで普通についてきてるの!?」
「だから、オレの勝手だっつってんだろ」
「お願いだから人目を気にして!」
「人間の目なんざ知るか」
「僕は人間社会で生きてるんだよ!」
言い合っているうちに、昼休みの時間になってしまったようだった。
チャイムが鳴る。
その音を合図にしたみたいに、校舎のあちこちから生徒たちが外へ出てくる。
笑い声。
足音。
誰かを呼ぶ明るい声。
昼休みの学校は、嫌になるくらい賑やかだった。
――これはヤバい。
焦りと混乱が脳内を駆け巡る。
慌ててルネの方へ振り向く。
が、そこにルネの姿はなかった。
あれ?
いつの間に?
どこに行ったのかという疑問もある。
でも、それ以上に、ルネを誰にも見られなかったことにほっとした。
今日はどうしても教室へ立ち寄らないといけない用事がある。
前々から、担任から書類を取りに来るように言われているのだ。
保健室の先生づてではなく、自分で。
たぶん、担任なりの配慮なんだと思う。
少しずつ教室に慣れろ、ということなのかもしれない。
でも、僕にとってはそれが重い。
――ドクン、ドクン。
教室に近づくたび、心拍数がどんどん上がっていく。
廊下がやけに長く感じる。
一歩進むだけで、靴底が床に貼りついたみたいに重い。
行きたくない。
けれど、行かなくちゃ。
逃げてばかりじゃ駄目だ。
そう思うのに、胸の奥では別の声がする。
無理だ。
また笑われる。
また見られる。
また何も言えない。
どうせ僕なんて。
その言葉を振り払うように、僕は教室のドアの前に立った。
深呼吸をする。
手を伸ばす。
指先が震えている。
それでも、意を決して教室のドアを静かに開けた。
入った瞬間。
昼休みでうるさいくらい賑やかだった教室の空気が、すっと冷たくなっていくのを感じた。
会話が止まる。
視線が集まる。
何人かがこちらを見て、すぐに目を逸らす。
分かってはいたことだけど、実際に体感すると心にくるものがある。
静まり返った空間の中、ひっそりとした声が聞こえてきた。
「うわ……来たよ……」
「来なくていいのに」
「保健室にいればいいじゃん」
小さな声。
でも、ちゃんと届く声。
聞こえないように言っているふりをして、聞こえるように調整された声。
たちが悪い。
言い返したい。
今の聞こえてるよって。
やめてよって。
僕だって好きでこうしてるわけじゃないって。
でも、口が動かない。
喉の奥が固まって、言葉にならない。
僕は目当ての資料を机の上から取ると、足早に教室を後にした。
廊下に出た瞬間、背中の方で誰かが笑った気がした。
本当に笑われたのか。
それとも、僕が勝手にそう感じただけなのか。
もう分からない。
いつもこうだ。
言い返したいのに。
口が、動かない。
心臓だけがうるさくて、結局、何もできない。
どうせ僕なんて。
この言葉が呪いのようにまとわりついてくる。
あの悪魔の言う通り、惨めで何もできやしないじゃないか。
そんな自分が腹立たしい。
頭がぐちゃぐちゃのまま、僕は一目散に保健室へと駆け込んだ。
「真白くん!? 顔色が悪いけど大丈夫!?」
保健室の先生が慌てた素振りでベッドの用意をしてくれた。
「……大丈夫です」
大丈夫じゃないのに、そう答える。
そう答えることだけは、妙に上手くなってしまった。
ベッドへとダイブして、うつ伏せになる。
枕に顔を埋める。
視界を閉ざす。
なのに、さっきの教室の空気が、まだ体にまとわりついている。
あの視線。
あの声。
あの、居場所のなさ。
どうして僕はいつもこうなんだ。
「いや〜、えげつなかったなァ」
再び、あの悪魔の声が僕に向かって響き渡る。
「……どういうこと?」
顔を上げると、ベッドの横の椅子にルネが座っていた。
いつの間にか戻ってきている。
「オマエがうるせぇから、魔術で姿を消して見てただけだ」
「見てたの!?」
「それにしてもオマエ、本当に惨めだな」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
分かってる。
そんなこと、言われなくても。
「あんな空気じゃ、居場所ねえよな」
「……」
「で、本当にこのままでいいのか?」
静まり返った保健室の中に、さらに沈黙が走る。
分かってる。
分かってるよ、そんなの。
でも、どうすることもできないんだから、仕方ないじゃないか。
「そんで、ここが逃げ場ってわけだな」
「……うるさいな」
図星だ。
言い返せない。
ルネは少し笑った。
「で?」
「なに」
「なんでオレを呼んだんだっけか?」
「……」
「願いあるんだろ」
ある。
あるけど。
言葉にしたら、余計に惨めになる気がした。
けれど、黙っていてもルネは逃がしてくれない。
赤い瞳が、じっと僕を見る。
嘘も誤魔化しも許さないみたいに。
「……変わりたい」
気づけば、声が漏れていた。
「今のままじゃ嫌で」
言ってしまった。
最悪だ。
こんな弱音、誰にも言いたくなかった。
でも。
ルネは笑わなかった。
「ふーん」
ただ、それだけ。
馬鹿にするでもなく、慰めるでもなく。
少しだけつまらなそうに、けれどちゃんと聞いていた。
「なあ晶」
「……なに」
「強く変わりてぇならよ」
「……うん」
「まずその陰気な顔やめろ」
「無理だよ」
「練習だろ」
「顔の?」
「強がる練習」
簡単に言うな。
そう思った。
でも。
少しだけ、その言葉は残った。
強がる練習。
本当に強くなくても、強いふりをする。
それだけで、何か変わるのだろうか。
そんなことを考えた瞬間。
グゥ〜〜〜〜……。
静寂をぶち壊すように、盛大な腹の音が響いた。
音の発生源は、もちろんルネだった。
「……腹減った」
「今その流れで?」
「腹が減ったもんは仕方ねえだろ」
だからなんだというんだ。
「よし、購買行くぞ」
「なんで僕も」
「召喚者だから」
「そんなルール聞いてないんだけど!?」
何だか一気に気が抜けた。
さっきまでの空気が、嘘みたいだ。
ルネがいるだけで、全部うるさい。
うるさくて、乱暴で、最悪で。
でも、そのうるささが、今は僕の中の嫌な声をかき消していた。
――そうして仕方なく、魔術で姿を消した状態のルネを連れて購買へと向かった。
昼休みの購買は、すごい人混みだった。
パンを求める生徒たちで列ができている。
肩が触れそうな距離。
飛び交う声。
笑い声。
正直、かなり堪える。
そう思いながら渋々列に並んでいると、その時、一人の男子生徒が横から割って入ってきた。
ハッとした。
明らかに割り込みだった。
でも、日陰者の僕は何も言い返せない。
見なかったことにすればいい。
これくらい我慢すればいい。
どうせ一人分くらい。
「おい、晶」
突如、脳内にルネの声が響き渡る。
「割り込みされてんのに、なんも言わねえの?」
言えるわけがないじゃないか。
「このままだとオマエ、一生底辺のままだぞ」
ムカつく。
正直、抜かされたことより、この悪魔の方が腹立たしい。
でも。
このまま何も言えなかったら。
また、いつもの僕だ。
「あ、あの……」
声が震える。
男子生徒が振り向く。
「じゅ、順番なんで……」
言った。
言ってしまった。
色んな意味で死ぬことを覚悟した。
けれど、その男子生徒は「あ、ごめん」と素直に言って、後ろへ並び直した。
どうやら僕がいたことに気づかなかったらしい。
たった、それだけ。
世界が変わるような出来事じゃない。
誰かに褒められるような勇気でもない。
でも。
「ふーん、やればできるじゃねえか」
ルネは珍しく、機嫌の良さそうな声だった。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
今の、ちゃんと言えた。
たったそれだけなのに。
なぜか、少しだけ違う気がした。
そうしてやっと順番が回ってきた途端、ルネが饒舌に話し始める。
「え〜っと、まずは焼きそばパンだろ? そんでメロンパンにクリームパン、コッペパンに……」
ちょ、ちょっと待って。
そんなに食べるの!?
小柄な体格に反して量が多すぎない!?
「腹減ってんだから当たり前だろ。それからデザートのプリンに……」
「いや、僕のお金なんだけど!?」
「召喚者だろ」
「召喚者って便利な言葉じゃないんだよ!」
何度か断ろうとしたけど、ルネは聞く気なんてまるでなくて。
結局、何だかんだ断れず、いいようにされてしまった。
僕のお財布が、信じられないくらい軽くなる。
――前言撤回。
少しも強くなんてなれてない!
すっからかんになった財布を眺めながら、強くそう思った。
保健室に戻り、昼食を取る。
大量に買ったパンを食べるルネを横目に、僕はおにぎり一個を頬張る。
昆布味。
好きなんだよなあ。
「なんだオマエ、それしか食わねえのか?」
「どっかの誰かさんのせいで買うお金がなかったからね」
ちょっと嫌味ったらしく答えてしまう。
でも、これくらい言っても許されるよね?
するとルネは少し考えたような顔をして、ちぎったメロンパンを差し出してきた。
「ほらよ」
「どういう風の吹き回し!?」
あの傍若無人なこれまでの言動からは想像のつかない出来事に、思わず声を上げてしまった。
「別に、気が向いただけだ」
そう言うと、ルネは残り半分のメロンパンをパクパクと食べ始めた。
差し出されたメロンパンを見つめる。
少し迷ってから、受け取った。
甘い。
普通のメロンパンなのに、なぜかやけに甘く感じた。
この悪魔、意外と悪くないのかもしれない。
ルネへの見方がほんのちょっとだけ変わり始めた、その時――。
ガラッ。
保健室の扉が開いた。
誰かが入ってくる音が聞こえる。
「晶くん、今日も来てたんだね。嬉しい」
いつもの聞き慣れた、静かで甘い声。
愛原操が、僕に話しかけていた。
柔らかい笑顔。
整った顔立ち。
どこか儚げな雰囲気。
保健室で何度も顔を合わせている、僕にとって数少ない話し相手。
でも。
「あ? 誰だオマエ」
途端、メロンパンを頬張るルネが、不機嫌そうに言葉を投げかけた。
終わった。
遂にルネの姿を他人に見られてしまった。
頭の中が真っ白になる。
説明?
無理。
誤魔化し?
もっと無理。
そもそも、保健室に角と翼のある少女がいる時点で、どう考えても詰んでいる。
「……それはこっちのセリフなんだけど」
操が静かに言った。
声は甘い。
いつも通り、柔らかい。
けれど、空気だけが違った。
「晶くん」
操が、にこりと笑う。
「その人、誰?」
笑っている。
ちゃんと笑っている。
なのに。
目だけが、笑っていなかった。
背筋に、ひやりとしたものが走る。
ルネはルネで、面白くなさそうに操を見ている。
操は操で、笑顔のままルネを見ている。
その間に挟まれた僕だけが、何も言えずに固まっていた。
――これは想像以上に面倒なことになりそうな予感。
僕の日常が、また崩れそうな気がした。
いや。
もうとっくに崩れているのかもしれない。
昨日、黒魔術で悪魔を呼んだ時点で。
教室から逃げて、保健室に戻ってきた時点で。
そして今。
操とルネが、同じ場所に立ってしまった時点で。
さっきまでの“楽な場所”には、もう戻れない気がした。




