第1話「どうせ僕なんて、悪魔にだって笑われる」
―保健室というのは、静かだ。
静かで、白くて、たまに薬品くさい。
そして何より、教室よりずっと息がしやすい。
――いや、別に保健室が好きなわけじゃない。
好きでこんなところにいるわけじゃない。
ただ教室に行くと、胃がきゅっと縮むだけだ。
「どうしたの、またお腹痛い?」
養護教諭の先生が、慣れた声でそう言った。
「……ちょっとだけ」
嘘だ。
お腹は痛くない。痛いのは胃というか、心というか、そのへんだ。
でも「教室に行くと居心地が悪くて」なんて、今さら言うのも変だし。
最初にそう言えなかった時点で、もう負けている気がする。
「今日はベッド空いてるから、少し休んでいく?」
「はい……」
僕は小さくうなずいて、カーテンの向こうに入った。
やわらかいベッドに腰を下ろす。
天井を見る。白い。
面白みのない白だ。
教室のほうがよっぽど騒がしくて、よっぽど面白いんだろう。
でも、そこに僕の席はない。
いや、席はある。物理的には。
机も椅子も、たぶんまだ僕のものだ。
でも空気の中に僕の居場所がない。
―正しいことを言っただけだった。
クラス内でいじめられていた子をかばって、間違っていることは間違っているって言っただけだ。
それだけで、面倒くさいやつみたいな顔をされた。
そんでそのままクラス内で浮いて、終いには厄介扱いのぼっちに。
正しいことをして一体何がいけなかったんだろうか。
当時は憤りを感じてたけど、今思えば実際面倒な奴だったんだろうなあと…。
正義感とか、優しさとか。
そういうのって、もっと格好いいものだと思ってた。
…ヒーローみたいに。
小さいころはよく、ヒーローごっこをしていた。
悪者をやっつけて、泣いてる子を助けて、最後はみんな笑って終わるやつ。
でも現実は、悪者を止めたほうが浮く。
笑うのはみんなで、浮いたやつを見たときだ。
「……どうせ僕なんて」
口にすると、少しだけ楽になる。
呪文みたいなものだ。
先に自分で自分を貶しておけば、誰かに言われても少しは平気でいられる。
…情けない。
でも、生きるためには仕方ない。
嫌なことを思い返すのはやめよう。そうして完全に「無」に徹しようとしてたその時―
―ガラッ
保健室のドアが開く音がするとともに、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「晶くん、おはよう。」
くすんだ金色の髪に伏せ目がちな紫の瞳、右目には医療用の眼帯。
そして、青白く細い体。七月の真夏だというのに長袖で、首元にはマフラーまで巻いている。
愛原操―僕の保健室登校仲間が息を切らしながら、今にも倒れそうな姿で保健室へと入ってきた。
「大丈夫!?」
駆け寄ると、彼は僕の腕を掴んだ。
ひやりとするほど冷たい手。
「……あきら、くん」
その呼び方が、妙に切実だった。
「よかった……いる、って思って」
「どうしたの、顔色悪いよ」
「……ちょっと、教室で……」
そこで彼は言葉を切った。
それ以上、言いたくないみたいに。
先生が慌ててベッドを整える。
僕は彼を支える。
「…ありがとう、晶くん。」
「これくらい当然だよ。」
自然とそう返してしまう。
「ふふ。やっぱり晶くん優しい」
操は、僕の手をそっと掴む。
「よかった」
冷たい。
でも、強い。
「晶くんだけは、わたしを助けてくれるから」
「わたし、晶くんがいると安心するの」
「……」
言葉が詰まる。
操だけは僕を頼りにしてくれる。そんな充足感に満たされつつも、どこか歪な感じを抱いてしまう。
「そ、そんな大したことしてないよ」
「してるよ」
操は即答した。
僕は横目で操を見る。
彼は自分の手元を見ていた。長い袖の先を、そっと握っている。
「優しい人って、そんなにいないよ」
「……」
「少なくとも、わたしの周りには」
その声は静かだった。
でも、冗談じゃないことはわかった。
聞いていいのか迷う。
家庭のこととか、学校のこととか。
操はたぶん、軽く触れないほうがいい場所がいくつもある。
でも黙っているのも違う気がして、僕は慎重に言った。
「…もしまた何かあったら僕なんかでよければ相談して。もちろん今日みたいに言いたくないことは言わなくていいからさ」
「ありがと、晶くん」
操の真っ直ぐで優しい瞳が僕を突き刺していく。
その瞳から目を離せないまま時が過ぎていく―
歪さを感じるもののどこか危うい感じがして放っておけない存在、それが僕にとっての操だ。改めてそう感じた一日だった。
―そうして家路に着き、自室で死んだようにベッドへと飛び込みうつ伏せになる。
うつ伏せになりながら、枕元に置いてある1冊の本に目を移した。
『実践・現代黒魔術入門』
勇気を出して、この間とある古本屋で買った禍々しいそれ。
いかにも怪しさを醸し出す、黒い表紙に銀色の文字。
うん。冷静に考えると終わってるな、僕の趣味。
でもオカルトはいい。
少なくとも人間よりは裏切らない。たまに著者が詐欺師だったりはするけど、人間そのものよりはマシだ。
ヒーローへの憧れはあるけれども、それはそれとして「世界の裏側」や「人々の知らない摩訶不思議現象」というネタにも昔から心踊らされていたし。
ページをめくる。
昨日の夜、何度も読んだ箇所だ。
召喚術。
普通は笑うところなんだろう。
中学生が黒魔術。自分の部屋で。
字面だけでだいぶ終わっている。
でも、もういいのだ。
笑いたいやつは笑えばいい。
こっちは人生が煮詰まっている。
現状を変えたい。
あいつらを見返したい。
誰かに必要とされたい。
せめて、何かひとつ。
僕にしかできないことが欲しい。
勉強机の下から、昨夜こっそり持ってきたものを広げる。
チョーク。ろうそく。変な粉。
あと、頑張って写した魔法陣の紙。
犯罪現場みたいだな。
見つかったら絶対怒られる。
「……いや、でも……」
本当にやるのか、これ。
やったところで何も起きない。
起きたら困るまである。
悪魔とか出てきたらどうするんだ。僕の部屋が地獄の門になるじゃないか。
いや、逆に面白いか?
居場所がない中学生が、自室に地獄の門を開く。
字面だけなら強い。作品タイトルみたいだ。
「…………」
駄目だ。
すごく馬鹿みたいだ。
でも、やる。
僕は深呼吸して、ろうそくに火を灯した。
小さな炎がゆらゆら揺れる。
カーテンの内側だけ、少しだけ世界が変わった気がした。
本を開き、書かれている文言をなぞる。
正直、発音が合っているのかはわからない。
というか日本語に訳してくれないかな、こういうの。初心者に厳しすぎるだろ黒魔術。
それでも、なんとか最後まで読み上げる。
しん、と空気が止まった。
「……あれ?」
何も起きない。
ほらね。
知ってた。
どうせこんな――
次の瞬間、魔法陣の中心が、どろりと黒く染まった。
「え」
床が、溶けている。
いや違う。
溶けているんじゃない、穴みたいに暗くなって、そこから何かが出てきている。
煙。
甘ったるい香り。
それから、ひどく見覚えのないくらい、見覚えのありそうなシルエット。
「っ、ちょ、まっ……」
黒い渦の中心から、ひとりの“誰か”が姿を現す。
ふんわりとした紫混じりの桃色の髪。
赤紫の大きな瞳に長いまつ毛、艶やかな唇と整いすぎた顔。
ひらりと翻る、どこか挑発的な衣装。
女の子みたいに綺麗なのに、たぶん男。
いや、たぶんどころじゃない。なんだこの、全身から漂う“オレが世界の中心です”みたいな傲慢で高圧的な圧。
オーラもそうだけど、何より怪しく光る大きな瞳から圧倒的な「圧」を感じる。
―こいつはヤバい。
そのヤバいそうな奴は床に降り立つなり、あたりを見回し、鼻で笑った。
「は?」
第一声がそれだった。
「なんだよここ、狭っ。暗っ。貧相っ」
ひどい。
いや、もっと言うことあるだろ。
召喚された悪魔の第一声が部屋の文句ってなんだよ。
とは思いつつ、あまりにもヤバすぎる圧で何も口に出すことができない。
そいつはゆっくりと僕を見る。
頭の先からつま先まで、じろじろと。
値踏みするように。心底遠慮なく。
そして、完璧なまでに整った顔で、にやりと笑った。
「で? オレを呼び出したの、オマエ?」
「…………は、はい」
「へえ」
そいつはしゃがみ込み、僕の顎を指先でくいと持ち上げた。
近い。顔がいい。腹立つくらい顔がいい。
でも目つきが最悪だ。自信と傲慢をそのまま煮詰めてる。
「ふうん、オレを召喚するとはさぞかし大した奴だと思ったが…」
「ずいぶん陰気な顔してんじゃん。お前、鏡見たことある?」
初対面で言う!?
ぐさっときた。
というか悪魔ってもっとこう、契約だの魂だの、そういう話から入るんじゃないのか。
そいつは楽しそうに目を細めた。
「ま、いいや。召喚者がショボいのは別に珍しくねえし」
「しょ、ショボ……」
「で。願いは?」
願い。
その言葉に、喉が詰まる。
見返したい。
変わりたい。
強くなりたい。
教室に戻りたい。
笑われたくない。
たくさんあるはずなのに、いざ口にしようとすると、どれも情けなく思えた。
「……その……ぼ、僕……」
「はっきり言えよ。聞こえねえ」
むかつく。
すごくむかつく。
でも怖い。
相手は悪魔だし、見た目のくせに態度が王様すぎるし。
僕がもごもごしていると、そいつは急にため息をついた。
「まどろっこしいな。要するに、お前」
怪しく光る赤紫の瞳が、まっすぐ僕を射抜く。
「今の惨めな自分を、どうにかしたいんだろ?」
「――っ」
心臓が、跳ねた。
図星すぎた。
こいつ、嫌なやつだけど、そういうところだけ妙に鋭い。
そいつは唇の端をつり上げる。
「いるよな〜『どうせ僕なんて』とか言いながら、変わりたいのに変わろうとしないヤツ」
心を読まれているみたいだった。
さっきまでより、ずっと怖い。
「変わりたいくせに変われないんだろ?」
正論に言葉が詰まる。
「そんなオマエがどうやって変わんの?」
「答え、オレだよなあ?」
―助けてくれるのか。
そう思った次の瞬間。
「ただし、勘違いすんなよ?」
悪魔は僕の額を指で軽く弾いた。
「オレはお前の言うことなんか、ひとつも聞かねえから」
「…………は?」
「契約者?主人?知らねえよ、そんなの。オレはオレだ」
こいつ駄目だ。
召喚してはいけないタイプのやつだ。
自室の静けさの中。
僕は人生でたぶん一番大きな失敗をした予感に、頭を抱えたくなった。
けれど悪魔は、そんな僕を見て楽しそうに笑う。
「ま、いいぜ。暇つぶしにはなるだろうし、付き合ってやるよ。」
「そもそも、ハナからオレを頼る気で呼び出したくらいなんだから」
「―今更逃げ場なんてねえよな?」
「よろしくな、陰気な召喚者くん」
どうしてこうなった。
本当に、どうしてこうなった。
僕は思った。
――どうせ僕なんて、悪魔にだって笑われる。
でも。
そのときはまだ知らなかった。
この逃げることの出来ない最悪な出会いが、僕の日常―保健室を破壊してしまうことを。
―ついでに、僕を少しだけ変えてしまうことを。




