ルネ編第3話「隣にいる理由」
――翌日。
教室の前で、僕は固まっていた。
ドア一枚。
たったそれだけの距離なのに、向こう側から聞こえる話し声や笑い声が、やけに遠く感じる。
心臓がうるさい。
手のひらに汗が滲む。
足が動かない。
昨日、僕はドアを開けた。
おはよう、と言えた。
それだけで十分すごいことだった。
でも、だからといって今日も平気なわけじゃない。
怖いものは怖い。
昨日できたから今日もできる、なんて簡単な話じゃなかった。
「……おい」
隣から声がした。
ルネだ。
今日は珍しく姿を見せたまま、壁にもたれて腕を組んでいる。
相変わらず偉そうで、不機嫌そうで、こっちを見下ろすみたいな顔をしていた。
「いつまでドアと見つめ合ってんだよ」
「うるさいな……」
「告白でもすんのか?」
「しないよ!」
「じゃあ開けろ」
「簡単に言わないでよ……!」
言い返しながらも、少しだけ息が整った。
不思議だった。
ルネの言葉は乱暴で、優しくなんかない。
でも、変に安心する。
操の「無理しなくていい」とは違う。
逃げ道を作ってくれる言葉じゃない。
むしろ背中を蹴ってくる言葉だ。
だけど今は、それがありがたかった。
「……昨日よりはマシだろ」
ルネがぼそっと言う。
「え?」
「顔」
「顔?」
「昨日は死にかけの魚みてぇな顔してた」
「例えがひどい」
「今日はまだ人間」
「褒めてる?」
「褒めてねぇ」
そう言いながら、ルネは少しだけ目を逸らした。
その横顔を見て、胸の奥が妙に温かくなる。
たぶん。
ルネなりに見てくれている。
昨日の僕も。
今日の僕も。
少しだけ変われたことも。
「……開けるだけ」
小さく呟く。
「あ?」
「今日は、開けるだけ」
「それでいいんじゃねぇの」
意外な返事だった。
もっと煽られると思っていた。
逃げんな、入れ、くらい言われると思っていた。
「……それでいいの?」
「今日のオマエにはな」
短い言葉。
でも、ちゃんと僕を見ている言葉だった。
僕は息を吸う。
ドアに手をかける。
指が震える。
それでも。
ガラッ。
教室のドアを開けた。
一瞬、視線が集まる。
怖い。
やっぱり怖い。
喉が詰まる。
足が逃げようとする。
でも。
「……おはよう」
声が出た。
昨日より、少しだけ大きく。
何人かが驚いたようにこっちを見る。
そして。
「おはよ」
「おう」
返事が返ってきた。
たったそれだけ。
世界が変わるような出来事じゃない。
誰かが拍手してくれるわけでもない。
でも、僕にとっては十分すぎるくらい大きかった。
「……っ」
胸が詰まる。
もう無理だ。
そう思って、僕はそっとドアを閉めた。
廊下に背中を預ける。
息が荒い。
心臓がうるさい。
でも。
「……言えた」
口からこぼれる。
「おはようって」
「声ちっさかったけどな」
「うるさい」
「でも」
ルネが少しだけ笑う。
「昨日よりマシだ」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
褒められた。
たぶん、ルネ基準では。
「……ありがとう」
「あ?」
「なんでもない」
「聞こえてんだよ」
ルネが顔をしかめる。
「礼言われるようなことしてねぇ」
「してるよ」
「してねぇ」
「してる」
「うるせぇ」
そう言いながら、ルネは耳のあたりを雑にかいた。
少しだけ赤い。
見なかったことにした方がいい気がした。
◇
昼休み。
僕は屋上へ向かった。
最近、保健室に行くのが少し怖い。
操と顔を合わせるのが怖い。
会いたくないわけじゃない。
むしろ、話さなきゃいけないと思っている。
でも操の顔を見ると、自分がひどいことをしている気がしてしまう。
あの優しい手を取らなかったこと。
戻ってきてほしいという気持ちに、応えられなかったこと。
それが胸の中で重たく残っている。
だから今日は、屋上に逃げた。
……結局、逃げてるじゃないか。
そう思って苦笑する。
「なに一人で暗くなってんだよ」
ルネが後ろから声をかけてくる。
「別に」
「別にって顔じゃねぇだろ」
「顔で全部判断しないでよ」
「オマエは分かりやすいんだよ」
ルネは勝手に隣へ座る。
風が吹く。
屋上のフェンスが微かに鳴った。
空は広い。
教室とも保健室とも違う。
ここなら少しだけ息ができる。
「操のことか」
ルネが言う。
胸が跳ねた。
「……なんで分かるの」
「分かるって言ってんだろ」
「そんなに顔に出てる?」
「出てる」
即答だった。
少しだけへこむ。
「……操を傷つけたと思う」
「そうだな」
あっさり言われた。
胸が痛む。
「そこは否定してよ」
「嘘ついてどうすんだ」
「……」
「傷ついてんだろ、あいつは」
ルネは空を見たまま言う。
「でも、だからってオマエが戻ればいいって話でもねぇ」
「……うん」
「どっち選んでも誰かは傷つく」
静かな声だった。
「そういうもんだろ」
その言葉は冷たい。
でも、逃げ道のない現実だった。
「ルネはさ」
「あ?」
「誰かを傷つけたこと、ある?」
聞いてから、しまったと思った。
ルネの空気が変わった。
ほんの一瞬。
けれど確かに。
横顔から表情が消えた。
「……あるに決まってんだろ」
低い声。
「悪魔だぞ」
「そういう意味じゃなくて」
「同じだ」
即答だった。
それ以上聞くな、という声だった。
僕は口を閉じる。
風が吹く。
長い沈黙。
やがて、ルネがぼそっと言う。
「傷つけたくなくても傷つけることはある」
「……」
「守りたいと思っても、守れないこともある」
その声が、少しだけ遠かった。
今のルネじゃない。
もっと昔のどこかを見ている声。
「ルネ」
「忘れろ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってんだよ」
ルネは立ち上がる。
「行くぞ」
「どこに」
「購買」
「また?」
「腹減った」
「お金ないんだけど」
「知るか。召喚者だろ」
「その理論ほんと嫌い」
重くなりかけた空気を、ルネはいつもの乱暴さで壊した。
逃げたのかもしれない。
誤魔化したのかもしれない。
でも、その背中が少し寂しそうに見えて、僕は何も言えなかった。
◇
購買は相変わらず混んでいた。
前ほどではないにしろ、人混みはまだ苦手だ。
肩がぶつかりそうになるたび、体が強ばる。
視線が怖い。
声が怖い。
自分が邪魔になっている気がする。
「前よりマシだな」
ルネが言う。
「どこが」
「逃げてねぇ」
「逃げたいよ」
「でも逃げてねぇだろ」
それはそうだった。
逃げたい。
でも、逃げていない。
その差が、今は少しだけ分かる。
列に並ぶ。
順番が進む。
その時、横から男子生徒が入ってきそうになった。
心臓が跳ねる。
前にもあった。
あの時はルネに煽られて、何とか言えた。
今は。
「……あの」
声が出た。
自分でも驚いた。
「並んでるので」
男子生徒がこちらを見る。
「あ、ごめん」
それだけ言って後ろへ下がる。
終わり。
普通に終わった。
「……」
僕は固まる。
言えた。
今度はルネに言われる前に。
「おい」
ルネが言う。
「今の」
「うん」
「まあまあじゃねぇの」
胸が熱くなる。
「褒めた?」
「まあまあって言っただけだ」
「それ褒めてるよね」
「調子乗んな」
でも、ルネの口元は少しだけ緩んでいた。
それが嬉しくて、僕は少しだけ笑ってしまった。
「何笑ってんだよ」
「別に」
「キモ」
「ひどい」
結局、焼きそばパンとメロンパンとコーヒー牛乳を買った。
ルネはまた当然のように僕の財布から払わせようとしたので、そこは断固として拒否した。
「自分の分は自分で」
「悪魔に金払わせる気か」
「悪魔なら自力でなんとかしてよ」
「ケチ」
「この前さんざん買わされたからね!」
言い合いながら、屋上へ戻る。
なんだか、普通の昼休みみたいだった。
僕にはずっとなかったもの。
誰かと買い物をして。
くだらないことで言い合って。
屋上でパンを食べる。
そんな普通が、少しだけ眩しかった。
◇
「……なあ」
メロンパンを食べながら、ルネが言う。
「何?」
「オマエさ」
「うん」
「なんでそんなにオレの近くに来る」
心臓が跳ねる。
突然だった。
「え?」
「聞いてんだよ」
ルネはこっちを見ない。
フェンスの向こうを見ている。
「操のところにいりゃ楽だろ」
「……」
「あいつは止めてくれる」
「傷つかなくていいって言ってくれる」
「オレは逆だ」
淡々と続ける。
「痛ぇこと言う」
「逃げんなって言う」
「前に行けって言う」
そして。
「なのに、なんで隣にいる」
その問いに、すぐには答えられなかった。
自分でも分からない。
ルネは怖い。
危ない。
口も悪い。
優しくない。
でも。
「……ルネが」
「あ?」
「僕を止めないから」
「止めない?」
「うん」
「逃げるなって言うし、変われって言うし、正直しんどいけど」
でも。
「前に進もうとした時、ちゃんと見てくれる」
ルネが黙る。
「今日だって」
「……」
「おはようって言えた時も」
「購買で言えた時も」
「ルネはちゃんと見てた」
言っているうちに、少し恥ずかしくなってくる。
でも止められなかった。
「だから」
僕は小さく息を吸う。
「隣にいたいって思う」
沈黙。
風が吹く。
ルネはずっと黙っていた。
やがて。
「……バカじゃねぇの」
小さく言った。
「え?」
「普通そういうの、もっとマシな相手に思えよ」
「ルネが言う?」
「オレだから言ってんだよ」
ルネは乱暴に残りのメロンパンを口に放り込む。
耳が少し赤い。
まただ。
そう思ったけど、言わないでおいた。
「……オマエ」
ルネがぼそっと言う。
「そういうこと言うと、後悔するぞ」
「なんで」
「知らねぇ」
「知らないんだ」
「うるせぇ」
それきり、ルネは黙った。
でも、その沈黙は嫌じゃなかった。
隣にいる。
ただそれだけで。
少しだけ、自分が前に進める気がした。
そして僕はまだ知らない。
ルネが僕の言葉に動揺した理由を。
僕の「隣にいたい」が。
ルネの中に眠る、もう二度と思い出したくなかった誰かの声と。
ほんの少しだけ、重なっていたことを。




