ルネ編第4話「悪魔の居場所」
――ルネは、どこにいるんだろう。
そんなことを考えたのは、その日の放課後だった。
教室の窓から見える夕焼けは赤くて、少しだけ寂しい色をしていた。
クラスメイトたちは帰り支度をしている。
友達同士で話しながら帰る人。
部活へ向かう人。
誰かを待っている人。
それぞれに、行く場所がある。
それぞれに、帰る場所がある。
でも。
ルネにはそれがない。
少なくとも、僕にはそう見えた。
学校の中で姿を見かけても、いつも一人だった。
保健室。
屋上。
誰も来ない廊下。
校舎裏。
人の輪の中には絶対に入らない。
誰かと一緒にいるところを見たことがない。
まるで、自分から距離を取っているみたいに。
「……何してんだろ」
小さく呟く。
今日は昼休み以降、ルネを見ていない。
いつもなら気にならなかったはずだ。
悪魔だし。
勝手だし。
どこにいようが僕には関係ない。
……そう思えたら楽なのに。
今は違う。
姿が見えないだけで、妙に落ち着かない。
「重症だねぇ」
背後から声がした。
「うわっ!?」
振り返る。
久苑だった。
いつの間にいたんだ。
「びっくりした……」
「ボクも」
「なんで?」
「晶くんが完全にルネ探してる顔してたから」
ぐさり。
図星だった。
「探してない」
「へぇ」
「探してない」
「二回言う時点で怪しい」
久苑が楽しそうに笑う。
本当にこの人は苦手だ。
何でも見透かしたみたいな顔をする。
「で?」
「何が」
「会いたいの?」
「だから違うって」
「じゃあ何?」
答えられない。
会いたいのかと言われたら、違う気がする。
でも、気になるのは事実だった。
ちゃんといるのか。
またどこかで一人になっているのか。
何かを抱え込んでいないか。
そんなことを考えてしまう。
「……少し」
「うんうん」
「ちゃんといるのかなって」
「なるほど」
久苑が頷く。
珍しく茶化さなかった。
「じゃあ屋上かな」
「え?」
「兄さんなら」
声がした。
教室の入口。
サーシャだった。
今日も整った笑顔。
今日も完璧な敬語。
今日も、少し怖い。
「兄さんは調子が悪い時、屋上にいることが多いですよ」
「そうなの?」
「ええ」
サーシャは窓の外を見る。
その横顔は、少しだけ複雑そうだった。
「人が嫌いなわけではありませんので」
「……そう見えるけど」
「それは兄さんの問題です」
即答だった。
身も蓋もない。
「兄さんは昔からそうです」
「誰かと一緒にいるより」
「一人で抱え込む方を選びます」
その言葉は妙に重かった。
ただの性格の話じゃない気がした。
もっと深い。
もっと古い。
何か傷のようなものが、その言葉の奥にある。
「止めないの?」
気づけば聞いていた。
サーシャが少しだけ目を細める。
「止めましたよ」
穏やかな声。
だけど、その奥に少しだけ苦さが混じる。
「何度も」
「でも聞きませんでした」
沈黙。
久苑が珍しく黙っている。
僕も何も言えない。
「ですから」
サーシャがこちらを見る。
「もし兄さんを見つけたら」
「はい」
「一人にしないであげてください」
思わず目を見開く。
サーシャがそんなことを言うとは思わなかった。
「……いいの?」
「良くはありません」
即答。
「ですが」
そこで少しだけ笑う。
「今の兄さんは、あなたの言葉を聞きますから」
それは信頼なのか。
諦めなのか。
それとも、別の何かなのか。
僕には分からなかった。
でも、サーシャの目はいつもより少しだけ寂しそうに見えた。
◇
屋上。
鉄の扉を開ける。
夕焼けの光が流れ込む。
風が強い。
フェンスが揺れる音が聞こえる。
そして。
「あ」
いた。
フェンスにもたれて空を見ている。
ルネだった。
風に桃色の髪が揺れている。
どこか遠くを見ている横顔。
声をかけづらかった。
あまりにも一人が似合いすぎていて。
まるで最初から、ここにしか居場所がない人みたいだった。
「何見てるの」
結局、そう声をかけた。
ルネがこちらを見る。
少しだけ目を丸くする。
「……オマエか」
「悪かった?」
「別に」
その返事に少しだけ安心する。
怒られてはいないらしい。
「隣、いい?」
「好きにしろ」
許可なのかどうか分からない返事。
でも断られなかったので隣へ行く。
フェンスにもたれる。
風が気持ちいい。
夕焼けに染まる校庭が見える。
部活の掛け声。
遠くの笑い声。
全部が少しだけ遠かった。
「サーシャに聞いた」
「あ?」
「調子悪い時、ここにいるって」
ルネが露骨に嫌そうな顔をした。
「あいつ余計なこと言いやがって」
「心配してたよ」
「知るか」
即答。
でも、少しだけ目を逸らした。
「仲良いよね」
「どこがだ」
「なんとなく」
「気のせいだ」
否定は早かった。
でも本気じゃない。
それくらいは分かるようになってきた。
「……ルネさ」
「あ?」
「一人って平気なの?」
聞いた瞬間。
ルネが少し黙った。
風だけが吹く。
夕焼けが二人の影を長く伸ばしていた。
「平気じゃねぇならどうすんだ」
やがて返ってきた声は静かだった。
「え?」
「平気じゃないって言ったら」
ルネは空を見る。
「何か変わるのか」
言葉に詰まる。
変わらない。
たぶん。
僕には何もできない。
ルネの過去も。
抱えているものも。
全部、僕には分からない。
それでも。
「……話くらいは聞く」
ルネが吹き出した。
「は?」
「いや」
笑う。
本当に珍しく。
「オマエ面白ぇな」
「なんで」
「普通逆だろ」
「逆?」
「何かしてやれるなら、だ」
ルネが言う。
「話聞くだけとか」
「役に立たねぇ」
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
昔の僕なら何も言えなかったと思う。
でも今は。
「そんなことない」
「あ?」
「僕は助かったよ」
ルネが黙る。
「操に」
小さく続ける。
「何も解決しなかったかもしれないけど」
「それでも救われた」
ルネは何も言わない。
ただ静かに聞いている。
「だから」
僕は空を見る。
「話を聞くだけでも意味はあると思う」
長い沈黙。
風だけが吹く。
やがて。
「……オマエ」
ルネが呟く。
「ほんと変なやつだな」
「ルネに言われたくない」
「うるせぇ」
少しだけ笑う。
ルネも少しだけ笑う。
それだけだった。
でも、なぜだろう。
その時間がすごく大事なものに思えた。
◇
しばらくして。
ルネがぽつりと言った。
「昔な」
思わず顔を上げる。
初めてだった。
ルネが自分から過去の話をするのは。
「……うん」
「一人じゃなかった」
静かな声。
「へぇ」
「それだけだ」
「いや絶対続きあるでしょ」
「ねぇよ」
「あるじゃん」
「うるせぇ」
でも、さっきみたいに話を切らない。
少しだけ迷っている。
そんな感じだった。
「そいつ」
僕は慎重に聞く。
「友達?」
ルネの瞳が揺れた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
悲しそうに。
「……まぁ」
短い返事。
それだけで十分だった。
今まで誰にも見せなかった傷が、ほんの少しだけ見えた気がした。
「大事だったんだ」
沈黙。
長い沈黙。
やがて。
「うるせぇ」
それだけ返ってくる。
でも、否定しなかった。
僕はそれ以上聞かなかった。
聞いたら、今開きかけた扉が閉じてしまう気がした。
ただ隣にいた。
夕焼けの中で。
風に吹かれながら。
何も言わずに。
◇
夕焼けが少しずつ沈んでいく。
空の色が変わる。
オレンジから紫へ。
昼と夜の境目。
「なあ」
ルネが言う。
「何?」
「オマエ」
「うん」
「なんで来た」
僕は少し考える。
なんでだろう。
本当に。
なんで来たんだろう。
でも答えは、思ったより簡単だった。
「一人にしたくなかったから」
ルネが固まる。
数秒。
本当に固まる。
「……は?」
「だから」
「聞こえてる」
耳が少し赤い。
まただ。
最近よく見る。
「オマエな」
頭を抱える。
「そういうの」
「うん」
「簡単に言うな」
「なんで」
「知らねぇ」
知らないらしい。
でも困っているのは分かった。
そして、少しだけ嬉しそうなのも。
「僕だって」
ふと口に出た。
「一人だったから」
ルネがこちらを見る。
「教室に行けなくなって」
「誰とも話せなくなって」
「保健室に逃げて」
「それでも、操がいてくれたから」
言葉を選ぶ。
「全部解決したわけじゃないけど」
「一人じゃないって思えたから」
ルネは黙っている。
「だから」
僕は小さく笑う。
「僕も、少しくらいなら隣にいられるかなって」
風が吹く。
ルネの髪が揺れる。
沈黙。
長い沈黙。
それから。
「……バカじゃねぇの」
小さく言った。
「またそれ?」
「何回でも言う」
「ひどい」
「オマエがバカなこと言うからだろ」
ルネは顔を逸らす。
でも、今度ははっきり分かった。
怒っていない。
照れている。
たぶん。
指摘したら絶対怒られるので、言わないけど。
「帰るぞ」
ルネが立ち上がる。
「話終わった?」
「最初からしてねぇ」
「ひどい」
「うるせぇ」
そう言って歩き出す。
僕も後を追う。
夕暮れの屋上を後にしながら、ふと思った。
もしかしたら。
ルネには居場所がないんじゃない。
作れなくなっただけなのかもしれない。
昔、大切な誰かを失って。
そこにいるのが怖くなって。
誰かの隣に立つことが怖くなって。
だから一人になった。
そんな気がした。
そして。
もしそうなら。
僕は――もう少しだけ。
この悪魔の隣にいてもいいんじゃないかと思ってしまった。




