ルネ編第5話「近づくな」
――何かがおかしい。
そう思い始めたのは、その翌日からだった。
ルネの様子が変わった。
本当に、ほんの少しだけ。
他の人なら気付かないくらいの違い。
でも僕には分かった。
最近は、一緒にいる時間が増えていたから。
屋上。
保健室。
昼休み。
放課後。
気付けば、隣にいることが多くなっていたから。
だからこそ分かる。
ルネは僕を避けていた。
◇
「……いない」
昼休み。
屋上の扉を開ける。
誰もいない。
風だけが吹いていた。
いつもならフェンスにもたれているはずの悪魔の姿は、どこにもなかった。
保健室へ行く。
いない。
旧校舎の階段。
いない。
図書室。
いない。
僕は廊下の真ん中で立ち止まり、深く息を吐いた。
「何してるんだろ、僕」
小さく呟く。
まるで本当に探しているみたいだ。
いや。
探しているのだけれど。
「へぇ」
聞き慣れた声。
振り返る。
久苑だった。
相変わらず楽しそうな顔をしている。
「探してるんだ」
「探してない」
「今ので?」
「……」
「ルネのこと」
「……」
「探してるんだ」
否定できなかった。
久苑がにやにやしている。
腹が立つ。
「兄さんなら隠れていますよ」
今度はサーシャだった。
廊下の向こうから、静かに歩いてくる。
今日も綺麗だ。
今日も笑顔だ。
今日も、少し怖い。
「隠れてる?」
「ええ」
サーシャはあっさり頷く。
「晶さんから」
心臓が跳ねた。
「……なんで」
「兄さんだからです」
「説明になってない」
「本人に聞いてください」
それだけ言うと、サーシャは微笑んだ。
でも、その目だけは少しだけ曇っていた。
「ただ」
サーシャが続ける。
「無理に追い詰めるのはおすすめしません」
「……どういう意味?」
「兄さんは、逃げ場がなくなると壊れます」
さらっと言う。
でも、内容は全然さらっとしていない。
「壊れるって」
「比喩でもあり、比喩ではありません」
サーシャの笑顔が薄くなる。
「今の兄さんは不安定です」
「晶さんといることで安定する部分もある」
「ですが同時に、揺さぶられている部分もある」
「僕が?」
「ええ」
サーシャは否定しなかった。
「あなたは兄さんにとって、想定外の存在です」
その言葉が妙に重かった。
想定外。
ルネにとっての僕が。
「だから兄さんは逃げているんです」
久苑がくすくす笑う。
「怖いんだよねぇ」
「ルネに怖いものがあるの?」
僕が聞くと、サーシャは黙った。
久苑だけが楽しそうに目を細める。
「悪魔だって怖いものはあるよ」
「特に、失いたくないものができた時とかね」
「久苑さん」
サーシャの声が少し低くなる。
「それ以上は」
「はーい」
久苑は両手を上げる。
でも、笑みは消えない。
僕は何も言えなかった。
失いたくないもの。
その言葉が、妙に耳に残った。
◇
結局、ルネを見つけたのは放課後だった。
誰も使わない校舎裏。
古い倉庫の近く。
ルネは壁にもたれて座っていた。
夕日が長い髪を照らしている。
淡い紫色の髪が赤く染まっていた。
綺麗だった。
思わず見惚れるくらいに。
「……見過ぎだ」
ルネが言う。
「気付いてたの?」
「オマエの視線は分かりやすい」
顔が熱くなる。
なんだそれ。
変な意味じゃない。
たぶん。
「何してるの」
「別に」
「ずっとここ?」
「別に」
「それしか言わないね」
「うるせぇ」
でも、どこか元気がない。
前みたいな勢いがない。
声に棘はあるのに、いつもの鋭さが足りない。
「ルネ」
「あ?」
「避けてる?」
一瞬。
空気が止まった。
ルネが黙る。
視線を逸らす。
それだけで答えは分かった。
「やっぱり」
「……」
「なんで」
返事はない。
風だけが吹く。
「僕、何かした?」
怖かった。
知らないうちに嫌われたんじゃないか。
迷惑だったんじゃないか。
踏み込みすぎたんじゃないか。
そんな考えが頭をよぎる。
すると。
「してねぇ」
ルネが低く言った。
「じゃあなんで」
「だから」
ルネが頭を掻く。
苛立っているような。
困っているような。
そんな顔だった。
「近付くな」
その言葉に胸が痛んだ。
「……嫌だ」
気付けば答えていた。
ルネが目を見開く。
「は?」
「嫌だ」
「オマエな」
「理由も聞いてない」
ルネが黙る。
沈黙。
長い沈黙。
やがて。
「最近」
ぽつりと呟く。
「調子悪ぃ」
「知ってる」
「知ってるなら察しろ」
「察したら離れろって?」
「そうだ」
「無理」
即答だった。
ルネが頭を抱えた。
「なんなんだよオマエ」
「ルネこそ」
胸が苦しい。
でも言う。
「この前、一人にしたくないって言ったばかりなのに」
「……」
「今度は近付くな?」
「そうだ」
「意味分かんないよ」
「オレにも分かんねぇよ」
その言葉に、初めてルネの声が揺れた。
怒りじゃない。
苛立ちでもない。
もっと別の何か。
「ルネ?」
「……」
ルネが俯く。
長い髪が顔を隠す。
「オマエといると」
小さな声。
「嫌なもん思い出す」
僕は息を呑んだ。
「嫌なもの?」
「昔のことだ」
「……」
「だから離れろ」
それだけだった。
説明はない。
何を思い出すのかも言わない。
でも、それが本当に傷なのだと分かった。
ルネがここまで苦しそうな顔をするのは初めてだったから。
「それって」
「聞くな」
即答。
「今は聞くな」
その声は怒っていた。
でも、怒りの奥に怯えがあった。
思い出したくない。
見られたくない。
近付かれたくない。
そんな必死な拒絶。
僕は言葉を飲み込む。
それでも、足だけは動かなかった。
離れられなかった。
◇
帰り道。
結局、それ以上聞けなかった。
ルネは話さなかった。
僕も踏み込めなかった。
モヤモヤだけが胸に残る。
近付くな。
嫌なものを思い出す。
その言葉が何度も頭の中で繰り返される。
「晶くん」
声がした。
振り返る。
操だった。
久しぶりだった。
まともに話すのは。
「操」
操は微笑む。
でも、少しだけ疲れて見えた。
「最近、一緒にいるんだね」
誰と、とは言わなかった。
でも分かる。
「……うん」
「そっか」
操は頷く。
それだけ。
責めない。
怒らない。
だから余計に苦しい。
「晶くん」
「なに」
「楽しい?」
同じ質問だった。
前にも聞かれた。
でも、今は少し意味が違う気がした。
「……分からない」
正直に答える。
「楽しい時もある」
「うん」
「苦しい時もある」
「うん」
「でも」
少し考える。
「放っておけない」
操の笑顔が少しだけ揺れた。
「そう」
「ごめん」
「なんで謝るの」
優しい声。
でも、少しだけ寂しそうだった。
「晶くんが決めたことなら」
操が言う。
「わたしは止めないよ」
その言葉は優しかった。
優しいのに、なぜだか泣きそうになる。
前の操なら、止めていたかもしれない。
無理しなくていい。
こっちに来ていい。
そう言ってくれたかもしれない。
でも今の操は、止めないと言った。
それが、僕たちの距離が変わった証拠みたいで。
胸が痛かった。
「でもね」
操が小さく続ける。
「苦しかったら、ちゃんと戻ってきてね」
「……うん」
「わたしは、まだここにいるから」
その言葉に何も返せなかった。
操は笑った。
そして、ゆっくり歩いていく。
細い背中が遠ざかる。
僕はしばらく、その背中を見ていた。
◇
夜。
夢を見た。
赤い空。
黒い炎。
崩れた世界。
そして。
誰かが笑っていた。
男だった。
顔は見えない。
でも、ルネと並んで立っている。
対等に。
肩を並べて。
楽しそうに。
『おい』
声が聞こえる。
『また無茶してんのか』
笑う声。
懐かしそうな声。
ルネが笑っている。
今では想像できないくらい自然に。
『うるせぇ』
『オマエが言うな』
二人が笑う。
友達みたいに。
兄弟みたいに。
家族みたいに。
その空気は温かかった。
ルネが誰かと並んでいる。
誰かの隣で笑っている。
そんな姿を、僕は初めて見た。
胸の奥がぎゅっとなる。
知らないはずの光景なのに。
なぜか懐かしい。
なぜか苦しい。
そして。
その光景が突然、黒く染まる。
赤い空。
悲鳴。
黒い影。
男が振り返る。
『逃げろ』
その一言。
次の瞬間。
世界が砕けた。
◇
「っ!!」
飛び起きる。
息が苦しい。
心臓が暴れている。
額には汗が滲んでいた。
「……誰だ」
知らない男だった。
顔は見えない。
名前も分からない。
でも、なぜだろう。
確信があった。
あれは、ルネの過去だ。
そして。
ルネが思い出したくない誰かだ。
ベッドの上で膝を抱える。
胸の奥がざわつく。
嫌な予感がした。
ルネが僕を避けている理由。
調子が悪くなっている理由。
全部。
あの夢の先にある気がした。
ルネは一人じゃなかった。
昔、隣に誰かがいた。
笑い合える誰かがいた。
たぶん。
大切な誰かが。
そしてその誰かは、もういない。
僕は窓の外を見る。
夜の街は静かだった。
でも、耳の奥ではまだ夢の声が響いていた。
『逃げろ』
その声が、妙に頭から離れない。
そして僕はまだ知らない。
その誰かが。
ルネの人生を壊し。
そして今もなお。
ルネを縛り続けている存在だということを。




