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ルネ編第13話「見捨てられない」



 見捨てる。


 その言葉は。


 思っていたよりずっと簡単で。


 実際にやるとなると。


 とても難しかった。


 関わらなければいい。


 見なかったことにすればいい。


 自分には関係ないと。


 そう言ってしまえば。


 きっと。


 それで終われることもある。


 でも。


 少なくとも。


 僕には。


 それが。


 どうしてもできなかった。


     ◇


 昼休み。


 購買でパンと牛乳を買って。


 教室へ戻る途中だった。


「……あれ?」


 階段の踊り場。


 一人の生徒が座り込んでいる。


 同じ学年。


 顔は見たことがある。


 廊下ですれ違ったことも。


 たぶん何度かある。


 でも。


 名前までは知らない。


 壁にもたれて。


 膝を抱え。


 俯いている。


 最初は。


 ただ休んでいるだけかと思った。


 だけど。


 近付いてみると。


 呼吸が少し荒い。


 顔色も。


 よくない。


「大丈夫?」


 声を掛ける。


 反応がない。


「……聞こえる?」


 もう一度。


 少しだけ大きな声で尋ねる。


 肩が小さく揺れた。


 でも。


 顔は上がらなかった。


 僕は立ち止まる。


 どうしよう。


 具合が悪いのかもしれない。


 それとも。


 一人になりたいだけかもしれない。


 知らない相手に話しかけられる方が。


 嫌なことだってある。


 僕自身。


 そうだったから。


 誰かの視線が怖くて。


 声を掛けられるだけで身構えて。


 放っておいてほしいと思っていた時期もある。


 だから。


 一瞬だけ迷った。


「晶」


 後ろから声。


 振り返らなくても分かる。


 ルネだ。


「何してんだ」


「この人、具合悪そうで」


 ルネは。


 僕の肩越しに相手を見る。


 一度だけ。


 赤紫の目を細めた。


「なら先生呼べ」


「うん」


 それが一番いい。


 僕が何かするより。


 ちゃんと大人を呼んだ方がいい。


 そう思って。


 踵を返しかけた時だった。


「……呼ばないで」


「え?」


 座り込んでいた生徒が。


 小さく首を振る。


「先生は……呼ばないで」


「でも」


「大丈夫だから」


 その言葉。


 胸に引っ掛かる。


 大丈夫。


 その言葉を。


 僕は何度使っただろう。


 何でもない。


 平気。


 大丈夫。


 本当は。


 全然大丈夫じゃない時ほど。


 そう言ってしまう。


 僕も。


 ルネも。


 きっと。


「でも、顔色悪いよ」


「本当に平気だから」


 生徒は立ち上がろうとして。


「っ……」


 すぐに膝をついた。


 鞄が床に落ちる。


「大丈夫じゃないじゃん」


 僕は慌てて近付く。


 一瞬。


 手を伸ばしかけて。


 止めた。


「触ってもいい?」


「……うん」


 返事を待ってから。


 腕を支える。


 想像以上に。


 身体から力が抜けていた。


「保健室行こう」


「でも、次の授業」


「まだ昼休みだし」


「でも……」


「僕もよく保健室行ってるから」


「……それ慰めになってる?」


「たぶん」


 言ってから。


 自分でもちょっと変だと思う。


 少し笑うと。


 相手も。


 ほんの少しだけ笑った。


 それを見て。


 なんとなく。


 安心する。


「立てる?」


「うん……たぶん」


「ゆっくりでいいよ」


 肩を貸しながら立ち上がる。


 足元はまだおぼつかない。


 僕一人では。


 少し危ないかもしれない。


「ルネ」


「あ?」


「鞄持ってくれる?」


「何でオレが」


「僕、両手塞がってるから」


「……チッ」


 文句を言いながら。


 ルネは床に落ちた鞄を拾った。


「ありがと」


「礼言うくらいなら最初から人使うな」


「でも持ってくれるんだ」


「うるせぇ」


 そんなやり取りをしながら。


 ゆっくり歩き出す。


 僕の横を。


 ルネが黙ってついてくる。


「ルネ?」


「あ?」


「先に屋上行っててもいいよ」


「別に」


 短い返事。


「暇だからついてくだけだ」


「そう?」


「そうだ」


 そう言うけれど。


 表情は。


 少し妙だった。


 機嫌が悪い。


 というより。


 何かを警戒しているような。


 怖がっているような。


 そんな顔に見えた。


     ◇


 保健室へ連れていき。


 先生に事情を話した。


 どうやら。


 朝から何も食べていなかったらしい。


 寝不足も重なって。


 立ちくらみを起こしたみたいだった。


「ありがとうございました」


 ベッドに横になった生徒が。


 小さく頭を下げる。


「ううん」


「真白くん、だよね」


「僕の名前知ってるの?」


「同じ学年だから」


「そっか」


 知られていることに。


 ほんの少し。


 胸がざわつく。


 以前なら。


 それだけで怖かった。


 保健室登校している僕。


 教室に来ない僕。


 変な奴。


 弱い奴。


 面倒な奴。


 そんな噂で。


 名前だけ知られているんじゃないかって。


 勝手に想像して。


 怖くなっていた。


 でも。


 今は。


 少しだけ違う。


「今度、ちゃんとお礼する」


「別にいいよ」


「でも」


「困ってたら普通に声掛けるでしょ」


 言ってから。


 少しだけ。


 自分で驚いた。


 普通に。


 なんて。


 前の僕なら。


 絶対言わなかったと思う。


 僕にとって。


 誰かと関わることは。


 ずっと。


 普通じゃなかったから。


 背後で。


 何かが動いた気がした。


 振り返る。


 ルネが。


 こちらを見ている。


「……何?」


「何でもねぇ」


 顔を逸らされた。


「先行くぞ」


「あ、待って」


 保健室を出る。


 廊下へ出ると。


 ルネはもう少し先を歩いていた。


「待ってよ」


「遅ぇ」


「ルネが早いんだって」


「知らねぇ」


 少し小走りで追いつく。


 隣に並ぶ。


 でも。


 ルネは何も言わない。


「……機嫌悪い?」


「いつもだろ」


「それはそうだけど」


「納得すんな」


「じゃあ、どうしたの」


「何でもねぇ」


「またそれ」


「うるせぇ」


 まただ。


 何でもない。


 その言葉も。


 大丈夫と同じ。


 たぶん。


 何でもある時に使う。


 僕は少し考えて。


「さっきの人のこと?」


 ルネの足が止まった。


「……違ぇ」


「絶対そうじゃん」


「晶」


「はい」


「オマエ」


 一度。


 言葉が止まる。


 ルネは。


 苛立ったような顔で。


 でも。


 僕を見ることができないみたいに。


 少し横を向いた。


「誰にでもああなのか」


「え?」


「困ってる奴がいたら」


 声が低くなる。


「誰でも助けんのかって聞いてんだ」


「できる範囲なら」


 答える。


 ルネの眉間に皺が寄る。


「何で」


「何でって」


「知らねぇ奴だろ」


「でも困ってたから」


「関係ねぇだろ」


「関係ないけど」


「なら放っとけ」


 冷たい声。


 でも。


 怒っているだけじゃない。


 どこか。


 焦っている。


「……無理だよ」


「あ?」


「目の前で苦しそうにしてたら」


 少しだけ息を吸う。


「見なかったことにはできない」


 ルネの表情が。


 固まった。


「晶」


 低い声。


「そういうの」


「やめろ」


「何を?」


「何でもかんでも」


「背負おうとすんな」


「背負ってないよ」


「同じだ」


「違う」


 今度は。


 僕が言い返す。


「保健室まで連れていっただけ」


「そのうちそれじゃ済まなくなる」


「そんなの分からないよ」


「分かる」


 強い声だった。


 思わず。


 僕も黙る。


「そういう奴は」


 ルネの拳が握られる。


「最後には」


 そこで。


 止まった。


 奥歯を噛むような音が。


 聞こえた気がした。


 言いたかった続きを。


 僕には想像できた。


 最後には。


 自分を犠牲にする。


 自分より。


 誰かを選ぶ。


 そして。


 帰ってこなくなる。


 レイみたいに。


「ルネ」


「……行くぞ」


 背を向けられる。


 僕は。


 何も言わず。


 その後を追った。


     ◇


 屋上。


 いつもの場所。


 いつもの風。


 いつもの昼休み。


 なのに。


 今日は。


 ルネとの距離が少し遠い。


 普段なら。


 勝手に僕のパンを取ったり。


 壁にもたれて座ったりするのに。


 今日は。


 フェンスのそば。


 少し離れたところに立っている。


「こっち来ないの?」


「行かねぇ」


「怒ってる?」


「怒ってねぇ」


「怒ってるじゃん」


「しつこい」


 パンの袋を開ける。


 ひと口食べる。


 でも。


 味がしない。


「僕」


 ぽつりと言う。


「レイみたいだった?」


 ルネの肩が。


 僅かに揺れた。


「……その名前」


「呼んでいいって言った」


「今は呼ぶな」


「分かった」


 しばらく。


 沈黙。


 風が。


 フェンスを鳴らす。


「似てたの?」


 もう一度聞く。


「……ああ」


 今度は。


 小さく答えた。


「アイツも」


「誰か倒れてたら」


「絶対放っとかなかった」


 ルネの声は。


 どこか遠い。


「知らねぇ奴でも」


「敵でも」


「助けられそうなら手ぇ伸ばした」


「……敵でも?」


「ああ」


「バカだった」


「うん」


「自分が怪我してても」


「血ぃ流してても」


「もう立てなくても」


「平気な顔で」


 そこで。


 ルネが僕を見る。


「オマエみてぇに」


 胸が痛む。


「でも」


 僕は言う。


「僕はレイじゃない」


「知ってる」


 即答だった。


「なら」


「知ってるから厄介なんだよ」


「え?」


 ルネが苛立ったように髪を掻く。


「顔も違う」


「声も違う」


「強さも違う」


「性格だって全部同じじゃねぇ」


「なのに」


 一度。


 深く息を吐く。


「たまに」


「同じ顔する」


 胸が。


 ざわついた。


「同じ顔?」


「ああ」


「どんな?」


「……知らねぇ」


「ルネが言ったんでしょ」


「言葉にできねぇんだよ」


 ルネが顔を逸らす。


「誰か助ける時」


「自分のこと後回しにしてる時」


「大丈夫って笑う時」


 赤紫の瞳が。


 一瞬だけ。


 苦しそうに細められる。


「そういう時」


「アイツと重なる」


 僕は。


 何も言えなかった。


 見た目は違う。


 レイは。


 夢で見た輪郭だけでも。


 僕よりずっと強そうだった。


 明るくて。


 堂々としていて。


 きっと。


 誰かに守られるより。


 守る側にいる人。


 それでも。


 ルネには。


 同じに見える瞬間がある。


「……怖い?」


「何が」


「僕も同じことになるのが」


 ルネは答えない。


 拳だけが。


 僅かに強く握られる。


 でも。


 それで十分だった。


     ◇


「晶」


「なに」


「約束しろ」


 突然。


 ルネが言う。


「何を?」


「無茶すんな」


「それだけ?」


「自分を犠牲にして」


「誰かを助けようとすんな」


「……」


「できねぇことはできねぇって言え」


「逃げる時は逃げろ」


「助けを呼べ」


 どれも。


 ルネが僕に教えてきたこと。


 戦うことだけじゃない。


 逃げること。


 頼ること。


 生き残ること。


「約束できるか」


「努力はする」


「約束しろ」


「絶対は無理だよ」


 ルネの眉が動く。


「何で」


「目の前で」


「誰かが本当に危なかったら」


 たぶん。


 僕は。


 考えるより先に動いてしまう。


「放っておけないと思う」


「……ほらな」


 ルネが吐き捨てる。


「同じじゃねぇか」


「でも」


「何がだ」


「一人ではやらない」


 ルネがこちらを見る。


「昨日も言ったけど」


「僕だけで助けられないなら誰かを呼ぶ」


「操でも」


「久苑でも」


「サーシャでも」


「先生でも」


 それから。


「ルネでも」


「……オレ?」


「うん」


「僕が馬鹿なことしそうだったら」


「止めてよ」


「言われなくても止める」


「殴ってでも?」


「必要なら」


「それは困るな」


「なら最初から無茶すんな」


 少しだけ。


 ルネの口元が緩む。


 さっきまでの。


 張り詰めた顔が。


 ほんの少しだけ崩れた。


「それに」


 僕は続ける。


「助けるって」


「自分が代わりに傷つくことだけじゃないと思う」


「……」


「さっきの人だって」


「僕は保健室まで連れていっただけ」


「治したのは先生だし」


「休んだのは本人だし」


「僕が全部やったわけじゃない」


 ルネが黙る。


「僕は」


 少し考える。


 胸の中にあるものを。


 ちゃんと言葉にする。


「誰かを見捨てたくない」


「でも」


「自分まで見捨てたいわけじゃない」


 その言葉を。


 口にして。


 自分でも少し驚いた。


 以前の僕なら。


 自分のことなんて。


 後回しだった。


 嫌われないために。


 迷惑を掛けないために。


 誰かを困らせないために。


 自分さえ我慢すればいいと思っていた。


 辛くても。


 怖くても。


 苦しくても。


 自分のことなら。


 どうでもいい。


 どこかで。


 本当にそう思っていた。


 でも。


 今は。


 少しだけ違う。


 僕がいなくなったら。


 悲しむ人がいる。


 怒る人がいる。


 待ってくれる人がいる。


 それを。


 少しずつ。


 知ってしまったから。


「……それ」


 ルネが呟く。


「アイツには言えなかったな」


「え?」


「何でもねぇ」


 風が吹く。


 ルネの長い髪が揺れる。


 その横顔は。


 悲しそうで。


 でも。


 ほんの少し。


 安心したようにも見えた。


     ◇


 放課後。


「晶くん」


 教室を出たところで。


 操に呼び止められた。


「今、時間ある?」


「うん」


「ちょっとだけ」


 廊下の端。


 人の少ない場所へ移動する。


「どうしたの?」


「昼休み」


 操が言う。


「具合悪い子を保健室まで連れていったんだって?」


「もう知ってるの?」


「同じクラスの子から聞いた」


「早いなあ」


「晶くん」


 操の顔が。


 少しだけ真剣になる。


「無理してない?」


 ルネと。


 同じことを言われた。


「大丈夫」


 答えかけて。


 止める。


 大丈夫。


 今日だけで。


 何度聞いただろう。


 僕は一度。


 自分の身体と。


 気持ちを確かめる。


「……今のは本当に大丈夫」


「ふふ」


「笑わないでよ」


「ごめん」


 操が小さく笑う。


「でも」


「晶くん、変わったね」


「そう?」


「前なら」


 一度。


 言葉を切る。


「誰かを助けた後」


「もっと不安そうな顔してたと思う」


「余計なことしたかな、とか」


「嫌われてないかな、とか」


「ああ」


 思い当たる。


「確かに」


「今日は違う」


「……うん」


「助けたかったから助けた」


 操が。


 静かに笑う。


「そんな顔してる」


 胸の奥が。


 少し温かくなる。


「操」


「なに?」


「僕」


「変われてるのかな」


「うん」


 即答だった。


「少しずつ」


「そっか」


「でも」


 操が。


 僕の袖を少しだけ摘まむ。


「遠くに行きすぎないでね」


 小さな声。


 胸が痛む。


 その言葉の意味を。


 僕は。


 全部は分からない。


 でも。


 操も。


 何かを怖がっている。


 僕が変わること。


 僕が前へ進むこと。


 それ自体は。


 喜んでくれている。


 だけど。


 その先で。


 自分の手が届かなくなることを。


 少しだけ。


 怖がっている。


「操」


「あ」


 すぐに手を離す。


「ごめん」


「違う」


 僕は首を振る。


「今度は」


「僕が待つから」


「え?」


「操が怖くなった時」


「僕に言って」


 操の目が見開かれる。


「前は」


「僕がずっと操に頼ってた」


「だから今度は」


「僕も操の話を聞きたい」


 操は。


 しばらく何も言わなかった。


 唇を結んで。


 何かを堪えるみたいに。


 僕を見ている。


 そして。


「……晶くんって」


「うん」


「そういうところ、ずるいね」


「何が?」


「分からないならいい」


 少しだけ笑う。


 その笑顔に。


 寂しさは残っていた。


 でも。


 前より。


 ほんの少しだけ。


 柔らかく見えた。


     ◇


 昇降口を出る。


「へぇ」


 突然。


 声がした。


「いい感じじゃん、晶くん」


「うわっ」


 柱の影から。


 久苑が顔を出した。


「久苑」


「やあ」


 いつもの笑顔。


「驚いた?」


「驚くよ」


「それはよかった」


「何が?」


「晶くんってさ」


 久苑は。


 僕の顔を覗き込む。


「最近」


「面白い顔するようになったよね」


「……また顔?」


「また?」


「ルネにも言われたから」


「ルネが?」


 久苑の目が。


 少しだけ細くなる。


「何て?」


「たまに」


「昔の契約者と同じ顔をするって」


 一瞬。


 久苑の笑顔が止まった。


 本当に。


 一瞬だけ。


 でも。


 見間違いじゃなかった。


「……へぇ」


 すぐに戻る。


 いつもの。


 掴みどころのない笑顔に。


 でも。


 僕は気づいた。


「久苑」


「ん?」


「レイのこと」


「知ってるよね」


 沈黙。


 久苑は。


 笑顔のまま。


 僕を見る。


 僕の反応を。


 試すみたいに。


「知ってるよ」


 あっさり。


 答えた。


「やっぱり」


「まあね」


「どんな人だった?」


「それ」


 久苑が。


 人差し指を唇に当てる。


「ボクから聞いていいの?」


「……」


 言われて。


 思い出す。


 ルネの傷。


 名前を聞くだけで。


 あれほど揺れる顔。


 無理に触れないと。


 決めたこと。


「駄目だね」


「うん」


「聞きたいけど」


「いい判断」


 久苑が笑う。


「ただ」


「一個だけ教えてあげる」


「何?」


「レイと晶くんは」


 一度。


 僕の顔をじっと見る。


「似てないよ」


「え?」


「全然」


 きっぱり。


「顔も」


「雰囲気も」


「生き方も」


「じゃあ」


「でも」


 久苑が遮る。


「ルネには」


「似て見える瞬間があるんだろうね」


「どうして?」


「それを」


 笑みが少し薄くなる。


「晶くんが知るのは」


「たぶん」


「もう少し先」


「……教えてくれないんだ」


「ルネの話だからね」


 久苑は。


 僕の肩を軽く叩く。


「でもさ」


「一つだけ気をつけて」


「何を?」


「誰かを見捨てられない人って」


 その声が。


 少しだけ。


 真面目になる。


「自分を見捨てるのは」


「意外と簡単なんだよ」


 胸が。


 ざわつく。


 昼に。


 自分で口にした言葉と。


 どこかで繋がった気がした。


「レイも?」


「さあ」


 また笑う。


「それは本人に聞いて」


「本人は」


 もう。


 いない。


 そう言おうとして。


 やめた。


 久苑は。


 僕のその迷いすら分かっているみたいに。


 何も言わない。


「じゃあね」


 それだけ言って。


 手を振る。


「久苑」


「ん?」


「……ありがとう」


「何のお礼?」


「分からないけど」


「変なの」


 笑って。


 今度こそ。


 久苑は去っていった。


     ◇


 帰り道。


 ルネは。


 珍しく僕の隣を歩いていた。


「晶」


「なに」


「久苑と何話してた」


「見てたの?」


「たまたまだ」


「絶対見てたじゃん」


「殺すぞ」


「レイのこと」


 そう言うと。


 ルネの歩みが。


 ほんの少し遅くなる。


「聞いたのか」


「聞いてない」


「……そうか」


 その声に。


 僅かな安堵が混じった。


「久苑から聞くのは違うと思ったから」


 ルネが。


 僕を見る。


「だから」


「いつか」


 前を向く。


「ルネが話せる時に聞く」


「……物好きだな」


「知ってる」


「待っても」


「ろくな話じゃねぇぞ」


「それでも」


「聞いてどうする」


「分からない」


「じゃあ聞くな」


「でも」


 少し笑う。


「ルネのことだから」


 ルネが。


 黙る。


 しばらく。


 靴音だけが続く。


「……オマエ」


「なに」


「本当に」


 一度。


 言葉を飲み込む。


「見捨てるってこと」


「知らねぇよな」


「そうかな」


「そうだろ」


「でも」


 僕は。


 自分の手を見る。


「昔の僕は」


「自分のこと」


「結構見捨ててたかもしれない」


 ルネがこちらを見る。


「どうせ無理だって」


「変われないって」


「誰にも必要とされないって」


「ずっと」


 誰かに見捨てられるのが怖くて。


 嫌われるのが怖くて。


 そのくせ。


 一番最初に。


 僕自身が。


 僕を諦めていた。


「だから」


 拳を握る。


「もう」


「自分も見捨てないようにする」


 ルネは。


 少しだけ目を細めた。


「なら」


「約束しろ」


「また?」


「今度はこれだけでいい」


「何?」


 ルネが。


 まっすぐ前を見たまま言う。


「オマエが誰かを助けに行く時」


 一度。


 小さく息を吸う。


「自分も連れて帰れ」


 足が止まった。


 短い言葉なのに。


 胸の奥へ。


 強く刺さった。


「……それ」


「レイにも言いたかった?」


 聞いてから。


 しまったと思った。


 触れてはいけない傷。


 また。


 僕は。


「ごめん」


 すぐに謝る。


 でも。


 ルネは怒らなかった。


 前を向いたまま。


 しばらく。


 何も言わない。


 夕方の風が。


 僕たちの間を通り抜ける。


 そして。


「……ああ」


 小さく。


 本当に小さく。


 答えた。


「言いたかった」


 胸が締め付けられる。


「でも」


 ルネの声が。


 少し震える。


「言えなかった」


 それが。


 言う機会がなかったのか。


 言ったところで。


 聞いてもらえなかったのか。


 それとも。


 自分が口にできなかったのか。


 僕には。


 まだ分からない。


「だから」


 こちらを見る。


「今度は言う」


「晶」


「うん」


「誰かを助けてもいい」


「見捨てられねぇなら」


「好きにしろ」


「でも」


 赤紫の瞳が。


 まっすぐ僕を見る。


 そこには。


 怒りも。


 苛立ちも。


 全部隠せないくらいの。


 恐怖があった。


「オマエまで」


「いなくなるな」


 僕は。


 ゆっくり頷いた。


「うん」


「約束する」


「……軽く言うなよ」


「軽くない」


「破ったら」


「怒る?」


「殺す」


「死んでるじゃん」


「なら蘇らせてから殺す」


「怖いなあ」


「それくらい覚えとけ」


 ルネが。


 ほんの少し。


 笑う。


 僕も。


 少しだけ笑った。


     ◇


 誰かを見捨てたくない。


 その気持ちは。


 きっと。


 悪いものじゃない。


 でも。


 誰かを助けるために。


 自分を捨てることが。


 正しいわけでもない。


 誰か一人を救うために。


 別の誰かが。


 帰ってこなくていい理由にはならない。


 レイは。


 どんな気持ちだったのだろう。


 最後の瞬間。


 何を考えていたのだろう。


 ルネを助けたかったのか。


 それとも。


 自分が犠牲になるしかないと思ったのか。


 もしかしたら。


 自分なら大丈夫だと。


 最後まで思っていたのかもしれない。


 まだ。


 僕には分からない。


 ただ。


 一つだけ。


 分かることがある。


 ルネは。


 もう二度と。


 目の前から誰かが消えるのを見たくない。


 だから。


 僕が誰かへ手を伸ばすたびに。


 あの日を思い出す。


 差し伸べた手の先で。


 帰ってこなかった人を。


「晶」


「なに?」


「前見ろ」


「え?」


「危ねぇ」


 腕を掴まれる。


 次の瞬間。


 目の前を自転車が通り過ぎた。


「うわっ」


「何ぼーっとしてんだ」


「考え事してた」


「死にてぇのか」


「死にたくない」


「なら前見ろ」


「はい」


 腕を掴んだ手。


 ルネは。


 すぐには離さなかった。


 いつもなら。


 用が済めば。


 すぐ振り払うのに。


「……ルネ」


「あ?」


「僕だけじゃなくて」


「ルネもね」


「何が」


「いなくならないで」


 ルネの指が。


 僅かに強くなる。


「……善処する」


「約束してよ」


「絶対はねぇんだろ」


「それ僕が言ったやつ」


「なら文句言うな」


「ずるい」


「知らねぇ」


「僕には約束させるくせに」


「オレはいいんだよ」


「よくないよ」


「うるせぇ」


 そう言いながら。


 ルネは歩き出す。


 僕の腕を。


 まだ掴んだまま。


 離さないように。


 確かめるように。


 ちゃんと。


 ここにいると。


 確かめるみたいに。


 それは。


 まるで。


 もう二度と。


 誰かを置いていかないための。


 小さな抵抗のように思えた。


 見捨てない。


 誰かを。


 そして。


 自分自身を。


 きっと。


 それは。


 思っていたよりずっと難しい。


 それでも。


 僕は。


 手を伸ばしたいと思う。


 今度は。


 伸ばしたその手で。


 誰かだけじゃなく。


 自分自身も。


 ちゃんと連れて帰るために。


挿絵(By みてみん)

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