ルネ編第13話「見捨てられない」
見捨てる。
その言葉は。
思っていたよりずっと簡単で。
実際にやるとなると。
とても難しかった。
関わらなければいい。
見なかったことにすればいい。
自分には関係ないと。
そう言ってしまえば。
きっと。
それで終われることもある。
でも。
少なくとも。
僕には。
それが。
どうしてもできなかった。
◇
昼休み。
購買でパンと牛乳を買って。
教室へ戻る途中だった。
「……あれ?」
階段の踊り場。
一人の生徒が座り込んでいる。
同じ学年。
顔は見たことがある。
廊下ですれ違ったことも。
たぶん何度かある。
でも。
名前までは知らない。
壁にもたれて。
膝を抱え。
俯いている。
最初は。
ただ休んでいるだけかと思った。
だけど。
近付いてみると。
呼吸が少し荒い。
顔色も。
よくない。
「大丈夫?」
声を掛ける。
反応がない。
「……聞こえる?」
もう一度。
少しだけ大きな声で尋ねる。
肩が小さく揺れた。
でも。
顔は上がらなかった。
僕は立ち止まる。
どうしよう。
具合が悪いのかもしれない。
それとも。
一人になりたいだけかもしれない。
知らない相手に話しかけられる方が。
嫌なことだってある。
僕自身。
そうだったから。
誰かの視線が怖くて。
声を掛けられるだけで身構えて。
放っておいてほしいと思っていた時期もある。
だから。
一瞬だけ迷った。
「晶」
後ろから声。
振り返らなくても分かる。
ルネだ。
「何してんだ」
「この人、具合悪そうで」
ルネは。
僕の肩越しに相手を見る。
一度だけ。
赤紫の目を細めた。
「なら先生呼べ」
「うん」
それが一番いい。
僕が何かするより。
ちゃんと大人を呼んだ方がいい。
そう思って。
踵を返しかけた時だった。
「……呼ばないで」
「え?」
座り込んでいた生徒が。
小さく首を振る。
「先生は……呼ばないで」
「でも」
「大丈夫だから」
その言葉。
胸に引っ掛かる。
大丈夫。
その言葉を。
僕は何度使っただろう。
何でもない。
平気。
大丈夫。
本当は。
全然大丈夫じゃない時ほど。
そう言ってしまう。
僕も。
ルネも。
きっと。
「でも、顔色悪いよ」
「本当に平気だから」
生徒は立ち上がろうとして。
「っ……」
すぐに膝をついた。
鞄が床に落ちる。
「大丈夫じゃないじゃん」
僕は慌てて近付く。
一瞬。
手を伸ばしかけて。
止めた。
「触ってもいい?」
「……うん」
返事を待ってから。
腕を支える。
想像以上に。
身体から力が抜けていた。
「保健室行こう」
「でも、次の授業」
「まだ昼休みだし」
「でも……」
「僕もよく保健室行ってるから」
「……それ慰めになってる?」
「たぶん」
言ってから。
自分でもちょっと変だと思う。
少し笑うと。
相手も。
ほんの少しだけ笑った。
それを見て。
なんとなく。
安心する。
「立てる?」
「うん……たぶん」
「ゆっくりでいいよ」
肩を貸しながら立ち上がる。
足元はまだおぼつかない。
僕一人では。
少し危ないかもしれない。
「ルネ」
「あ?」
「鞄持ってくれる?」
「何でオレが」
「僕、両手塞がってるから」
「……チッ」
文句を言いながら。
ルネは床に落ちた鞄を拾った。
「ありがと」
「礼言うくらいなら最初から人使うな」
「でも持ってくれるんだ」
「うるせぇ」
そんなやり取りをしながら。
ゆっくり歩き出す。
僕の横を。
ルネが黙ってついてくる。
「ルネ?」
「あ?」
「先に屋上行っててもいいよ」
「別に」
短い返事。
「暇だからついてくだけだ」
「そう?」
「そうだ」
そう言うけれど。
表情は。
少し妙だった。
機嫌が悪い。
というより。
何かを警戒しているような。
怖がっているような。
そんな顔に見えた。
◇
保健室へ連れていき。
先生に事情を話した。
どうやら。
朝から何も食べていなかったらしい。
寝不足も重なって。
立ちくらみを起こしたみたいだった。
「ありがとうございました」
ベッドに横になった生徒が。
小さく頭を下げる。
「ううん」
「真白くん、だよね」
「僕の名前知ってるの?」
「同じ学年だから」
「そっか」
知られていることに。
ほんの少し。
胸がざわつく。
以前なら。
それだけで怖かった。
保健室登校している僕。
教室に来ない僕。
変な奴。
弱い奴。
面倒な奴。
そんな噂で。
名前だけ知られているんじゃないかって。
勝手に想像して。
怖くなっていた。
でも。
今は。
少しだけ違う。
「今度、ちゃんとお礼する」
「別にいいよ」
「でも」
「困ってたら普通に声掛けるでしょ」
言ってから。
少しだけ。
自分で驚いた。
普通に。
なんて。
前の僕なら。
絶対言わなかったと思う。
僕にとって。
誰かと関わることは。
ずっと。
普通じゃなかったから。
背後で。
何かが動いた気がした。
振り返る。
ルネが。
こちらを見ている。
「……何?」
「何でもねぇ」
顔を逸らされた。
「先行くぞ」
「あ、待って」
保健室を出る。
廊下へ出ると。
ルネはもう少し先を歩いていた。
「待ってよ」
「遅ぇ」
「ルネが早いんだって」
「知らねぇ」
少し小走りで追いつく。
隣に並ぶ。
でも。
ルネは何も言わない。
「……機嫌悪い?」
「いつもだろ」
「それはそうだけど」
「納得すんな」
「じゃあ、どうしたの」
「何でもねぇ」
「またそれ」
「うるせぇ」
まただ。
何でもない。
その言葉も。
大丈夫と同じ。
たぶん。
何でもある時に使う。
僕は少し考えて。
「さっきの人のこと?」
ルネの足が止まった。
「……違ぇ」
「絶対そうじゃん」
「晶」
「はい」
「オマエ」
一度。
言葉が止まる。
ルネは。
苛立ったような顔で。
でも。
僕を見ることができないみたいに。
少し横を向いた。
「誰にでもああなのか」
「え?」
「困ってる奴がいたら」
声が低くなる。
「誰でも助けんのかって聞いてんだ」
「できる範囲なら」
答える。
ルネの眉間に皺が寄る。
「何で」
「何でって」
「知らねぇ奴だろ」
「でも困ってたから」
「関係ねぇだろ」
「関係ないけど」
「なら放っとけ」
冷たい声。
でも。
怒っているだけじゃない。
どこか。
焦っている。
「……無理だよ」
「あ?」
「目の前で苦しそうにしてたら」
少しだけ息を吸う。
「見なかったことにはできない」
ルネの表情が。
固まった。
「晶」
低い声。
「そういうの」
「やめろ」
「何を?」
「何でもかんでも」
「背負おうとすんな」
「背負ってないよ」
「同じだ」
「違う」
今度は。
僕が言い返す。
「保健室まで連れていっただけ」
「そのうちそれじゃ済まなくなる」
「そんなの分からないよ」
「分かる」
強い声だった。
思わず。
僕も黙る。
「そういう奴は」
ルネの拳が握られる。
「最後には」
そこで。
止まった。
奥歯を噛むような音が。
聞こえた気がした。
言いたかった続きを。
僕には想像できた。
最後には。
自分を犠牲にする。
自分より。
誰かを選ぶ。
そして。
帰ってこなくなる。
レイみたいに。
「ルネ」
「……行くぞ」
背を向けられる。
僕は。
何も言わず。
その後を追った。
◇
屋上。
いつもの場所。
いつもの風。
いつもの昼休み。
なのに。
今日は。
ルネとの距離が少し遠い。
普段なら。
勝手に僕のパンを取ったり。
壁にもたれて座ったりするのに。
今日は。
フェンスのそば。
少し離れたところに立っている。
「こっち来ないの?」
「行かねぇ」
「怒ってる?」
「怒ってねぇ」
「怒ってるじゃん」
「しつこい」
パンの袋を開ける。
ひと口食べる。
でも。
味がしない。
「僕」
ぽつりと言う。
「レイみたいだった?」
ルネの肩が。
僅かに揺れた。
「……その名前」
「呼んでいいって言った」
「今は呼ぶな」
「分かった」
しばらく。
沈黙。
風が。
フェンスを鳴らす。
「似てたの?」
もう一度聞く。
「……ああ」
今度は。
小さく答えた。
「アイツも」
「誰か倒れてたら」
「絶対放っとかなかった」
ルネの声は。
どこか遠い。
「知らねぇ奴でも」
「敵でも」
「助けられそうなら手ぇ伸ばした」
「……敵でも?」
「ああ」
「バカだった」
「うん」
「自分が怪我してても」
「血ぃ流してても」
「もう立てなくても」
「平気な顔で」
そこで。
ルネが僕を見る。
「オマエみてぇに」
胸が痛む。
「でも」
僕は言う。
「僕はレイじゃない」
「知ってる」
即答だった。
「なら」
「知ってるから厄介なんだよ」
「え?」
ルネが苛立ったように髪を掻く。
「顔も違う」
「声も違う」
「強さも違う」
「性格だって全部同じじゃねぇ」
「なのに」
一度。
深く息を吐く。
「たまに」
「同じ顔する」
胸が。
ざわついた。
「同じ顔?」
「ああ」
「どんな?」
「……知らねぇ」
「ルネが言ったんでしょ」
「言葉にできねぇんだよ」
ルネが顔を逸らす。
「誰か助ける時」
「自分のこと後回しにしてる時」
「大丈夫って笑う時」
赤紫の瞳が。
一瞬だけ。
苦しそうに細められる。
「そういう時」
「アイツと重なる」
僕は。
何も言えなかった。
見た目は違う。
レイは。
夢で見た輪郭だけでも。
僕よりずっと強そうだった。
明るくて。
堂々としていて。
きっと。
誰かに守られるより。
守る側にいる人。
それでも。
ルネには。
同じに見える瞬間がある。
「……怖い?」
「何が」
「僕も同じことになるのが」
ルネは答えない。
拳だけが。
僅かに強く握られる。
でも。
それで十分だった。
◇
「晶」
「なに」
「約束しろ」
突然。
ルネが言う。
「何を?」
「無茶すんな」
「それだけ?」
「自分を犠牲にして」
「誰かを助けようとすんな」
「……」
「できねぇことはできねぇって言え」
「逃げる時は逃げろ」
「助けを呼べ」
どれも。
ルネが僕に教えてきたこと。
戦うことだけじゃない。
逃げること。
頼ること。
生き残ること。
「約束できるか」
「努力はする」
「約束しろ」
「絶対は無理だよ」
ルネの眉が動く。
「何で」
「目の前で」
「誰かが本当に危なかったら」
たぶん。
僕は。
考えるより先に動いてしまう。
「放っておけないと思う」
「……ほらな」
ルネが吐き捨てる。
「同じじゃねぇか」
「でも」
「何がだ」
「一人ではやらない」
ルネがこちらを見る。
「昨日も言ったけど」
「僕だけで助けられないなら誰かを呼ぶ」
「操でも」
「久苑でも」
「サーシャでも」
「先生でも」
それから。
「ルネでも」
「……オレ?」
「うん」
「僕が馬鹿なことしそうだったら」
「止めてよ」
「言われなくても止める」
「殴ってでも?」
「必要なら」
「それは困るな」
「なら最初から無茶すんな」
少しだけ。
ルネの口元が緩む。
さっきまでの。
張り詰めた顔が。
ほんの少しだけ崩れた。
「それに」
僕は続ける。
「助けるって」
「自分が代わりに傷つくことだけじゃないと思う」
「……」
「さっきの人だって」
「僕は保健室まで連れていっただけ」
「治したのは先生だし」
「休んだのは本人だし」
「僕が全部やったわけじゃない」
ルネが黙る。
「僕は」
少し考える。
胸の中にあるものを。
ちゃんと言葉にする。
「誰かを見捨てたくない」
「でも」
「自分まで見捨てたいわけじゃない」
その言葉を。
口にして。
自分でも少し驚いた。
以前の僕なら。
自分のことなんて。
後回しだった。
嫌われないために。
迷惑を掛けないために。
誰かを困らせないために。
自分さえ我慢すればいいと思っていた。
辛くても。
怖くても。
苦しくても。
自分のことなら。
どうでもいい。
どこかで。
本当にそう思っていた。
でも。
今は。
少しだけ違う。
僕がいなくなったら。
悲しむ人がいる。
怒る人がいる。
待ってくれる人がいる。
それを。
少しずつ。
知ってしまったから。
「……それ」
ルネが呟く。
「アイツには言えなかったな」
「え?」
「何でもねぇ」
風が吹く。
ルネの長い髪が揺れる。
その横顔は。
悲しそうで。
でも。
ほんの少し。
安心したようにも見えた。
◇
放課後。
「晶くん」
教室を出たところで。
操に呼び止められた。
「今、時間ある?」
「うん」
「ちょっとだけ」
廊下の端。
人の少ない場所へ移動する。
「どうしたの?」
「昼休み」
操が言う。
「具合悪い子を保健室まで連れていったんだって?」
「もう知ってるの?」
「同じクラスの子から聞いた」
「早いなあ」
「晶くん」
操の顔が。
少しだけ真剣になる。
「無理してない?」
ルネと。
同じことを言われた。
「大丈夫」
答えかけて。
止める。
大丈夫。
今日だけで。
何度聞いただろう。
僕は一度。
自分の身体と。
気持ちを確かめる。
「……今のは本当に大丈夫」
「ふふ」
「笑わないでよ」
「ごめん」
操が小さく笑う。
「でも」
「晶くん、変わったね」
「そう?」
「前なら」
一度。
言葉を切る。
「誰かを助けた後」
「もっと不安そうな顔してたと思う」
「余計なことしたかな、とか」
「嫌われてないかな、とか」
「ああ」
思い当たる。
「確かに」
「今日は違う」
「……うん」
「助けたかったから助けた」
操が。
静かに笑う。
「そんな顔してる」
胸の奥が。
少し温かくなる。
「操」
「なに?」
「僕」
「変われてるのかな」
「うん」
即答だった。
「少しずつ」
「そっか」
「でも」
操が。
僕の袖を少しだけ摘まむ。
「遠くに行きすぎないでね」
小さな声。
胸が痛む。
その言葉の意味を。
僕は。
全部は分からない。
でも。
操も。
何かを怖がっている。
僕が変わること。
僕が前へ進むこと。
それ自体は。
喜んでくれている。
だけど。
その先で。
自分の手が届かなくなることを。
少しだけ。
怖がっている。
「操」
「あ」
すぐに手を離す。
「ごめん」
「違う」
僕は首を振る。
「今度は」
「僕が待つから」
「え?」
「操が怖くなった時」
「僕に言って」
操の目が見開かれる。
「前は」
「僕がずっと操に頼ってた」
「だから今度は」
「僕も操の話を聞きたい」
操は。
しばらく何も言わなかった。
唇を結んで。
何かを堪えるみたいに。
僕を見ている。
そして。
「……晶くんって」
「うん」
「そういうところ、ずるいね」
「何が?」
「分からないならいい」
少しだけ笑う。
その笑顔に。
寂しさは残っていた。
でも。
前より。
ほんの少しだけ。
柔らかく見えた。
◇
昇降口を出る。
「へぇ」
突然。
声がした。
「いい感じじゃん、晶くん」
「うわっ」
柱の影から。
久苑が顔を出した。
「久苑」
「やあ」
いつもの笑顔。
「驚いた?」
「驚くよ」
「それはよかった」
「何が?」
「晶くんってさ」
久苑は。
僕の顔を覗き込む。
「最近」
「面白い顔するようになったよね」
「……また顔?」
「また?」
「ルネにも言われたから」
「ルネが?」
久苑の目が。
少しだけ細くなる。
「何て?」
「たまに」
「昔の契約者と同じ顔をするって」
一瞬。
久苑の笑顔が止まった。
本当に。
一瞬だけ。
でも。
見間違いじゃなかった。
「……へぇ」
すぐに戻る。
いつもの。
掴みどころのない笑顔に。
でも。
僕は気づいた。
「久苑」
「ん?」
「レイのこと」
「知ってるよね」
沈黙。
久苑は。
笑顔のまま。
僕を見る。
僕の反応を。
試すみたいに。
「知ってるよ」
あっさり。
答えた。
「やっぱり」
「まあね」
「どんな人だった?」
「それ」
久苑が。
人差し指を唇に当てる。
「ボクから聞いていいの?」
「……」
言われて。
思い出す。
ルネの傷。
名前を聞くだけで。
あれほど揺れる顔。
無理に触れないと。
決めたこと。
「駄目だね」
「うん」
「聞きたいけど」
「いい判断」
久苑が笑う。
「ただ」
「一個だけ教えてあげる」
「何?」
「レイと晶くんは」
一度。
僕の顔をじっと見る。
「似てないよ」
「え?」
「全然」
きっぱり。
「顔も」
「雰囲気も」
「生き方も」
「じゃあ」
「でも」
久苑が遮る。
「ルネには」
「似て見える瞬間があるんだろうね」
「どうして?」
「それを」
笑みが少し薄くなる。
「晶くんが知るのは」
「たぶん」
「もう少し先」
「……教えてくれないんだ」
「ルネの話だからね」
久苑は。
僕の肩を軽く叩く。
「でもさ」
「一つだけ気をつけて」
「何を?」
「誰かを見捨てられない人って」
その声が。
少しだけ。
真面目になる。
「自分を見捨てるのは」
「意外と簡単なんだよ」
胸が。
ざわつく。
昼に。
自分で口にした言葉と。
どこかで繋がった気がした。
「レイも?」
「さあ」
また笑う。
「それは本人に聞いて」
「本人は」
もう。
いない。
そう言おうとして。
やめた。
久苑は。
僕のその迷いすら分かっているみたいに。
何も言わない。
「じゃあね」
それだけ言って。
手を振る。
「久苑」
「ん?」
「……ありがとう」
「何のお礼?」
「分からないけど」
「変なの」
笑って。
今度こそ。
久苑は去っていった。
◇
帰り道。
ルネは。
珍しく僕の隣を歩いていた。
「晶」
「なに」
「久苑と何話してた」
「見てたの?」
「たまたまだ」
「絶対見てたじゃん」
「殺すぞ」
「レイのこと」
そう言うと。
ルネの歩みが。
ほんの少し遅くなる。
「聞いたのか」
「聞いてない」
「……そうか」
その声に。
僅かな安堵が混じった。
「久苑から聞くのは違うと思ったから」
ルネが。
僕を見る。
「だから」
「いつか」
前を向く。
「ルネが話せる時に聞く」
「……物好きだな」
「知ってる」
「待っても」
「ろくな話じゃねぇぞ」
「それでも」
「聞いてどうする」
「分からない」
「じゃあ聞くな」
「でも」
少し笑う。
「ルネのことだから」
ルネが。
黙る。
しばらく。
靴音だけが続く。
「……オマエ」
「なに」
「本当に」
一度。
言葉を飲み込む。
「見捨てるってこと」
「知らねぇよな」
「そうかな」
「そうだろ」
「でも」
僕は。
自分の手を見る。
「昔の僕は」
「自分のこと」
「結構見捨ててたかもしれない」
ルネがこちらを見る。
「どうせ無理だって」
「変われないって」
「誰にも必要とされないって」
「ずっと」
誰かに見捨てられるのが怖くて。
嫌われるのが怖くて。
そのくせ。
一番最初に。
僕自身が。
僕を諦めていた。
「だから」
拳を握る。
「もう」
「自分も見捨てないようにする」
ルネは。
少しだけ目を細めた。
「なら」
「約束しろ」
「また?」
「今度はこれだけでいい」
「何?」
ルネが。
まっすぐ前を見たまま言う。
「オマエが誰かを助けに行く時」
一度。
小さく息を吸う。
「自分も連れて帰れ」
足が止まった。
短い言葉なのに。
胸の奥へ。
強く刺さった。
「……それ」
「レイにも言いたかった?」
聞いてから。
しまったと思った。
触れてはいけない傷。
また。
僕は。
「ごめん」
すぐに謝る。
でも。
ルネは怒らなかった。
前を向いたまま。
しばらく。
何も言わない。
夕方の風が。
僕たちの間を通り抜ける。
そして。
「……ああ」
小さく。
本当に小さく。
答えた。
「言いたかった」
胸が締め付けられる。
「でも」
ルネの声が。
少し震える。
「言えなかった」
それが。
言う機会がなかったのか。
言ったところで。
聞いてもらえなかったのか。
それとも。
自分が口にできなかったのか。
僕には。
まだ分からない。
「だから」
こちらを見る。
「今度は言う」
「晶」
「うん」
「誰かを助けてもいい」
「見捨てられねぇなら」
「好きにしろ」
「でも」
赤紫の瞳が。
まっすぐ僕を見る。
そこには。
怒りも。
苛立ちも。
全部隠せないくらいの。
恐怖があった。
「オマエまで」
「いなくなるな」
僕は。
ゆっくり頷いた。
「うん」
「約束する」
「……軽く言うなよ」
「軽くない」
「破ったら」
「怒る?」
「殺す」
「死んでるじゃん」
「なら蘇らせてから殺す」
「怖いなあ」
「それくらい覚えとけ」
ルネが。
ほんの少し。
笑う。
僕も。
少しだけ笑った。
◇
誰かを見捨てたくない。
その気持ちは。
きっと。
悪いものじゃない。
でも。
誰かを助けるために。
自分を捨てることが。
正しいわけでもない。
誰か一人を救うために。
別の誰かが。
帰ってこなくていい理由にはならない。
レイは。
どんな気持ちだったのだろう。
最後の瞬間。
何を考えていたのだろう。
ルネを助けたかったのか。
それとも。
自分が犠牲になるしかないと思ったのか。
もしかしたら。
自分なら大丈夫だと。
最後まで思っていたのかもしれない。
まだ。
僕には分からない。
ただ。
一つだけ。
分かることがある。
ルネは。
もう二度と。
目の前から誰かが消えるのを見たくない。
だから。
僕が誰かへ手を伸ばすたびに。
あの日を思い出す。
差し伸べた手の先で。
帰ってこなかった人を。
「晶」
「なに?」
「前見ろ」
「え?」
「危ねぇ」
腕を掴まれる。
次の瞬間。
目の前を自転車が通り過ぎた。
「うわっ」
「何ぼーっとしてんだ」
「考え事してた」
「死にてぇのか」
「死にたくない」
「なら前見ろ」
「はい」
腕を掴んだ手。
ルネは。
すぐには離さなかった。
いつもなら。
用が済めば。
すぐ振り払うのに。
「……ルネ」
「あ?」
「僕だけじゃなくて」
「ルネもね」
「何が」
「いなくならないで」
ルネの指が。
僅かに強くなる。
「……善処する」
「約束してよ」
「絶対はねぇんだろ」
「それ僕が言ったやつ」
「なら文句言うな」
「ずるい」
「知らねぇ」
「僕には約束させるくせに」
「オレはいいんだよ」
「よくないよ」
「うるせぇ」
そう言いながら。
ルネは歩き出す。
僕の腕を。
まだ掴んだまま。
離さないように。
確かめるように。
ちゃんと。
ここにいると。
確かめるみたいに。
それは。
まるで。
もう二度と。
誰かを置いていかないための。
小さな抵抗のように思えた。
見捨てない。
誰かを。
そして。
自分自身を。
きっと。
それは。
思っていたよりずっと難しい。
それでも。
僕は。
手を伸ばしたいと思う。
今度は。
伸ばしたその手で。
誰かだけじゃなく。
自分自身も。
ちゃんと連れて帰るために。




