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ルネ編第12話「触れてはいけない傷」《後編》


 昼休み。


 昨日まで空を覆っていた雨雲はすっかり流れ去り、屋上には柔らかな陽射しが降り注いでいた。


 フェンスの向こうには、どこまでも続く青空。


 風が吹くたび、校庭から聞こえてくる運動部の掛け声が遠く揺れる。


 そんな穏やかな昼休みなのに。


 僕たちの間だけは、どこか空気が張り詰めていた。


 フェンスにもたれかかるルネ。


 少し離れた場所に座る僕。


 前なら、この距離でも近いと思っていた。


 今は違う。


 もっと近づきたいのに。


 近づけば近づくほど、ルネの中の何かを刺激してしまう。


「晶」


「なに?」


「傷、見せろ」


 突然だった。


 僕は思わず頬を押さえる。


「嫌だ」


「あ?」


「触るなって言ったのルネでしょ」


「オレが見るのは別だ」


「どう違うの」


「確認するだけだ」


「痛くしない?」


「ガキか」


「痛いの苦手なんだよ」


「知るか」


「じゃあ嫌」


 少しだけ意地を張る。


 ルネは不機嫌そうに舌打ちした。


「……痛くしねぇ」


 ぼそりと呟く。


「本当?」


「嘘ついてどうする」


「ルネなら『殺すぞ』って言いながら触りそう」


「そこまで性格悪くねぇ」


「否定するとこそこ?」


「いいから早くしろ」


 諦めて、僕は絆創膏の端をつまむ。


 ゆっくり剥がすと、空気が傷へ触れ、小さく痛みが走った。


「いたっ」


「だから動くな」


 ルネが一歩近づく。


 思ったより近い。


 赤紫の瞳が、真っ直ぐ僕の頬を見つめていた。


 いつもの鋭い目じゃない。


 何か壊れ物を見るような、そんな慎重な目だった。


 細い指が伸びる。


 でも。


 傷に触れる寸前で止まる。


「ルネ?」


「……」


 指先が震えている。


 ほんの僅かに。


「触らないの?」


「触んなって言っただろ」


「ルネが見せろって」


「傷の状態を見るだけだ」


 視線だけで傷を追う。


 しばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。


「浅いな」


「うん」


「縫うほどじゃねぇ」


「それは大丈夫」


「……よくねぇ」


 低い声。


「傷は傷だ」


 その一言が。


 妙に胸へ響いた。


「ルネ」


「あ?」


「僕、本当に大丈夫だよ」


 その瞬間だった。


 ルネの目が険しくなる。


「その言葉」


 低く唸るような声。


「使うな」


「え?」


「大丈夫って言うな」


「でも」


「本当でも言うな」


 怒っている。


 でも。


 怒りの矛先は僕じゃない。


 “大丈夫”という言葉、そのものだった。


「昨日」


 ルネが静かに言う。


「オレがオマエを吹き飛ばした」


「暴走してたから」


「理由にならねぇ」


「僕が勝手に近付いた」


「それも理由にならねぇ」


「でも」


「オレの力だ」


 言葉を重ねるたび、ルネの表情が固くなる。


「制御できなかった」


「傷つけた」


「オマエの血を流した」


 その声には。


 怒りよりも。


 嫌悪が混じっていた。


 自分自身への。


「違うよ」


「違わねぇ」


「事故みたいなもので」


「事故なら許されんのか」


「そういう意味じゃなくて」


「傷つけた事実は変わらねぇ」


 風が吹く。


 長い薄紫の髪が揺れる。


 その隙間から見えた横顔は。


 ひどく苦しそうだった。


「だから」


 ルネがゆっくり立ち上がる。


「もう近付くな」


 その言葉に。


 胸が少しだけ痛む。


「またそれ?」


「今度は本気だ」


「前も本気だったでしょ」


「茶化すな」


「茶化してない」


 僕も立ち上がる。


 向かい合う。


 風だけが二人の間を通り抜けていく。


「オレが壊れたら」


 ルネが言う。


「次はその程度じゃ済まねぇ」


 僕の頬を見る。


 絆創膏を見つめる。


「腕を折るかもしれねぇ」


「身体を裂くかもしれねぇ」


「最悪」


 一度息を止める。


「殺すかもしれねぇ」


 静かな声だった。


 だからこそ。


 冗談じゃないと分かった。


「それでも」


 赤紫の瞳が僕を見る。


「オマエは来るのか」


 試しているわけじゃない。


 止めてほしい。


 でも、来てほしい。


 そんな矛盾が滲んでいた。


「行くよ」


 僕は答える。


「バカか」


「知ってる」


「死ぬかもしれねぇんだぞ」


「一人では行かない」


 ルネが眉をひそめる。


「……何?」


「昨日決めた」


 一歩だけ近付く。


「僕だけで無理なら」


「サーシャにも」


「久苑にも」


「操にも頼る」


「ルネ一人を」


「僕一人で背負ったりしない」


 その言葉に。


 ルネの瞳が揺れた。


「だから」


「ルネも」


「僕一人を背負わないで」


「背負ってねぇ」


「背負ってるよ」


「何を」


「僕が傷ついたこと」


 ルネの顔から表情が消える。


「全部、自分のせいにしてる」


「オレのせいだ」


「じゃあ」


 僕は絆創膏を貼り直しながら言った。


「僕が教室へ入れなくなったのも」


「全部、操のせい?」


「……は?」


「操は僕を助けてくれた」


「守ってくれた」


「でも」


「その優しさに甘えて」


「僕は保健室から出られなくなった」


「それって」


「全部、操が悪いの?」


 ルネは答えない。


 少しだけ目を伏せる。


「……違ぇ」


「うん」


 僕も頷く。


「僕もそう思う」


「誰かが傷つく時って」


「一人だけのせいじゃないこともある」


「僕が近付いた」


「ルネは壊れかけてた」


「サーシャは全部話さなかった」


「久苑も何か知ってる」


「全部が重なった」


 息を吸う。


 そして。


 言ってしまった。


「だから」


「ルネ一人の罪にしないで」


 ――その瞬間だった。


 風が止まる。


 空気が凍る。


 ルネの表情が。


 音もなく消えた。


「……罪?」


 小さな声。


 でも。


 その一言だけで。


 僕は悟ってしまった。


 言ってはいけない言葉だった。


「ルネ……」


「今」


 赤紫の瞳がゆっくり細くなる。


「何て言った」


「一人の罪に……」


「言うな」


 低い声。


 足元から。


 黒い靄が滲み始める。


「その言葉を」


 靄がフェンスへ絡みつき、空気が震える。


「オレの前で」


 赤紫の瞳が揺れる。


 怒り。


 悲しみ。


 絶望。


 全部が混ざっていた。


「言うなッ!」


 怒鳴り声が屋上へ響く。


 フェンスが大きく軋み、僕は思わず肩を震わせる。


 昨日ほどではない。


 でも。


 これは確信した。


 僕は今。


 ルネの心の、一番深い傷へ触れてしまったのだ。


 黒い靄が、ルネの足元からゆっくりと滲み出していく。


 昨日のように暴れ狂うほどではない。


 けれど、その揺らぎは不安定で、まるで主人の感情をそのまま映しているようだった。


 風が吹く。


 フェンスがきしり、と低い音を立てる。


 僕は息を呑んだ。


 怖い。


 本当に怖い。


 でも――ここで目を逸らしたら。


 ルネはまた、一人でこの傷を抱え込んでしまう。


「オマエに……」


 ルネが俯いたまま呟く。


「何が分かる」


「……分からない」


 正直に答えた。


「分からないよ」


「レイがどんな人だったかも」


「本当は何があったのかも」


「契約がどんなものだったのかも」


「何も知らない」


 ルネの肩がわずかに震える。


「なら黙れ」


「でも」


「黙れ!」


 怒鳴り声と同時に、黒い靄が膨らむ。


 思わず一歩だけ後ずさる。


 けれど、それ以上は下がらなかった。


「アイツが死んだのは」


 ルネの声が掠れる。


「オレのせいだ」


 その言葉は。


 怒鳴り声よりもずっと重かった。


「オレが命令した」


 胸が締めつけられる。


「……命令?」


 ルネは苦しそうに笑った。


 笑っているのに、全然笑っていない。


「契約者は」


「悪魔の命令を拒否できねぇ」


 その一言で、僕はすべてを理解した。


 夢の中で見た二人は、確かに対等だった。


 悪態をつき合い、肩を並べ、背中を預け合う相棒だった。


 だけど。


 契約という鎖だけは。


 どうしても切れなかった。


「オレが言った」


 ルネの手が強く握られる。


「ここを守れ」


「オレの隣にいろ」


「契約者なら命令を聞けって」


 声が震える。


「レイは」


「笑って頷いた」


 目を閉じる。


「……バカみてぇにな」


 僕は静かに問いかける。


「レイは」


「命令されたから残ったの?」


 返事はない。


 でも。


 沈黙そのものが答えだった。


「本当に?」


「黙れ」


「ルネ」


「黙れッ!」


 一歩。


 ルネが後ろへ下がる。


 僕との間に黒い靄が広がる。


 まるで見えない壁だった。


「触れんな」


 その声は低い。


 だけど。


 僕に近づくなと言っているんじゃない。


 もっと奥。


 心の奥底へ。


「これ以上」


「オレの中へ入ってくるな」


 その言葉に。


 胸が苦しくなった。


「ルネ」


「オマエには関係ねぇ」


「あるよ」


「ねぇ!」


「ある!」


 声が重なる。


 風が吹き抜ける。


「僕は」


 一歩だけ近づく。


「ルネの過去を全部知りたいわけじゃない」


「じゃあ聞くな」


「でも」


 目を逸らさない。


「ルネがその過去で壊れそうなら」


「知らないふりなんてできない」


「勝手に決めんな」


「ルネだって勝手に僕を助けた」


「それとこれは違ぇ!」


「同じだよ!」


「違う!」


「どこが!」


 ルネが拳を振り上げた。


 反射的に目を閉じる。


 ――殴られる。


 そう思った。


 でも。


 何も来なかった。


 恐る恐る目を開ける。


 ルネの拳は。


 僕の頬のすぐ横で止まっていた。


 震えている。


 細い指も。


 腕も。


 肩も。


 全部。


「……ほら」


 ルネが苦しそうに笑う。


「オレは」


 息が荒い。


「こういう奴だ」


「怒れば」


「近くにいる奴を傷つける」


「力を抑えられねぇ」


「だから」


 拳をゆっくり下ろす。


「オレに近付くな」


 その顔は。


 怒ってなんかいなかった。


 泣きそうだった。


「殴らなかった」


 僕は静かに言う。


「……何?」


「止めたじゃん」


「止めただけだ」


「それでも止めた」


「違ぇ!」


「違わない」


 一歩。


 また近づく。


「来るな」


「殴りたい?」


「来るな」


「僕を傷つけたい?」


 沈黙。


 長い沈黙。


 そして。


「……違ぇ」


 小さな声。


 それだけで十分だった。


「じゃあ」


 僕は手を差し出す。


「本当は何がしたいの」


 ルネは答えない。


 答えられない。


「僕を遠ざけたい?」


「……ああ」


「どうして」


「傷つけるから」


「それだけ?」


「それだけだ」


「嘘」


「嘘じゃねぇ」


「じゃあ」


 赤紫の瞳を見る。


「僕がいなくなっても平気?」


 その瞬間。


 ルネの表情が崩れた。


「僕が教室へ来なくなって」


「屋上へ来なくなって」


「ルネの隣にも来なくなって」


「それで平気?」


「……黙れ」


「平気なの?」


「黙れ」


「ルネ」


「平気なわけねぇだろ!」


 叫び声が屋上へ響く。


 黒い靄が一瞬だけ膨らみ。


 そして、ふっと消えた。


 ルネの肩が震える。


 呼吸も乱れている。


「平気なわけ……」


 掠れた声。


「ねぇだろ」


 その一言が。


 何よりも本音だった。


 初めて。


 ルネは自分から認めた。


 僕がいなくなることが怖い、と。


「でも」


 ルネは苦しそうに笑う。


「残ったら傷つける」


「離れたら」


 僕は静かに答える。


「ルネが傷つく」


「オレはどうでもいい」


「僕はよくない」


「何でだよ」


「ルネだから」


「答えになってねぇ」


「僕には十分だよ」


 僕はゆっくり手を差し出した。


「触っていい?」


 ルネが少し目を丸くする。


「……何で聞く」


「嫌ならやめるから」


「昨日は勝手に掴んだだろ」


「昨日は緊急だったから」


「今も十分おかしい」


「でも」


 少しだけ笑う。


「決めるのはルネだから」


 ルネは僕の手を見る。


 何も言わない。


 拒まない。


 ただ、見つめている。


「傷に触れられたくないなら」


 僕は静かに言う。


「無理に話さなくていい」


「レイのことも」


「何があったのかも」


「今は聞かない」


 ルネがゆっくり息を吐いた。


「……本当か」


「うん」


「さっきまで聞いてただろ」


「聞き方を間違えた」


「……」


「ごめん」


 風が吹く。


 長い髪が揺れる。


「でも」


 僕は続ける。


「傷があることまで」


「なかったことにはしない」


「分かったふりもしない」


「勝手に治そうともしない」


 手を少しだけ前へ出す。


「ただ」


「痛い時は」


「隣にいる」


 長い沈黙。


 フェンスが風に鳴る。


 やがて。


 ルネの指先が。


 恐る恐る僕の手へ触れた。


 まるで、本当に触れていいのか確かめるように。


「……今だけだ」


「うん」


「聞くな」


「分かった」


「慰めんな」


「努力する」


「たぶんじゃねぇんだな」


 少しだけ呆れたように笑う。


 その笑顔はまだ苦しそうだった。


 それでも。


 さっきまでより、少しだけ柔らかい。


 僕はその手を握り返さなかった。


 ただ。


 離れないように。


 そっと触れたままでいた。


 傷は。


 急いで治そうとすると、もっと痛む。


 無理に開けば、また血が流れる。


 だから今は。


 治そうとしなくていい。


 触れられる場所だけ。


 少しずつ。


 一緒に歩けばいい。


そう思った。

 

 


挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

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