ルネ編第12話「触れてはいけない傷」《前編》
傷には。
触れた方がいいものと。
触れてはいけないものがある。
そんなことくらい。
僕にも分かっていた。
転んでできた擦り傷なら、消毒して絆創膏を貼ればいい。
熱が出たなら、ちゃんと休めばいい。
目に見える傷は、手当ての仕方が分かる。
だけど。
心の傷は違う。
痛い場所ほど隠したくなる。
誰かに見られるのも怖い。
触れられたら、もっと痛くなる気がする。
だから隠す。
平気なふりをする。
何もなかったように笑う。
それが当たり前になってしまう。
……僕もそうだった。
教室へ入れなくなっても。
笑えなくなっても。
息が苦しくても。
誰にも「助けて」と言えなかった。
だから。
ルネが隠そうとしている傷も。
きっと同じなんだと思う。
触れてはいけないからといって。
そこに傷がないことにはならない。
見ないふりをしたら。
痛みまで消えるわけじゃないのだから。
◇
翌朝。
鏡の前で制服の襟を整えながら、自分の顔を見る。
頬に貼られた小さな絆創膏。
昨日より傷は落ち着いているはずなのに、白いテープは思っていた以上によく目立った。
「……やっぱり分かるよね」
小さく呟いて家を出る。
案の定、教室へ入った瞬間だった。
「真白、それどうしたの?」
前の席の男子が、すぐに僕の頬へ目を向けた。
「あ……」
一瞬だけ言葉に詰まる。
本当のことなんて言えるはずがない。
悪魔が暴走して窓ガラスが割れて、その破片が掠めました――なんて。
そんな話をしたら、保健室どころか病院を紹介されそうだ。
「ちょっと転んで」
「顔から?」
「……うん」
「危ない転び方したな」
「僕もそう思う」
苦笑いすると、男子も「気をつけろよ」と笑った。
そのやり取りだけで終わる。
以前なら。
誰かに話しかけられただけで胸が締めつけられていた。
返事をするだけでも精一杯だった。
今はまだ緊張する。
でも。
ちゃんと返せる。
その小さな変化が、自分でも少し嬉しかった。
「晶」
低い声がした。
振り返る。
教室後方、いつもの窓際。
長い薄紫色の髪。
赤紫の瞳。
ルネが腕を組み、不機嫌そうにこちらを見ていた。
……いや。
今日の機嫌は、いつも以上に悪い。
「どうしたの?」
「それ」
ルネが顎で僕の頬を示す。
「絆創膏?」
「見りゃ分かる」
「操が貼ってくれた」
「聞いてねぇ」
「じゃあ何?」
少し首を傾げると。
ルネは数秒黙り込み、小さく舌打ちした。
「……傷」
その一言だけだった。
だけど。
赤紫の瞳は、ずっと僕の頬を見ている。
「痛むか」
「少しだけ」
「少し?」
「触ると」
そう答えた瞬間。
ルネの眉間へ深い皺が寄った。
「触んな」
「自分の傷なんだけど」
「治るまで触るな」
「分かった」
「本当に分かってんのか」
「たぶん」
「たぶんじゃねぇ」
珍しい。
こんな細かいことで何度も確認するなんて。
「ルネ」
「あ?」
「気にしてる?」
「してねぇ」
「してる顔だよ」
「オマエの観察眼は信用ならねぇ」
「昨日もずっと見てたよね」
「……」
「僕の頬」
「見てねぇ」
「サーシャと話してる時も」
「見てねぇ」
「帰る時も」
「見てねぇ!」
少しだけ声が大きくなる。
近くの生徒がこちらをちらりと見る。
もちろん。
聞こえているのは僕の独り言だけだ。
「真白?」
「あ、ご、ごめん」
慌てて前を向く。
危ない。
最近、ルネと話すことに慣れすぎている。
「ルネ、声大きい」
「オマエがしつこいからだ」
「でも」
「それ以上言ったら殺す」
「はい」
素直に引き下がる。
それでも。
ルネはまだ僕の頬を見ていた。
その視線は。
怒っているというより。
自分自身を責めている人の目だった。
◇
一時間目。
先生の声が教室へ響く。
チョークが黒板を走る音。
ページをめくる音。
誰かの咳払い。
どれも少し前なら息苦しくなる音だった。
でも今は。
一つひとつを受け止めながら、ちゃんと椅子へ座っていられる。
少しだけ。
本当に少しだけ。
強くなれた気がする。
けれど。
僕の意識は何度も後ろへ向いていた。
窓際。
ルネは腕を組んだまま動かない。
普段なら退屈そうに外を眺めたり、僕をからかったりするのに。
今日は違う。
時折、こちらを見ては。
頬の絆創膏へ視線を落とす。
そのたびに表情が曇る。
(そんなに気になるんだ……)
あのルネが。
他人の傷をこんなに気にするなんて。
きっと。
傷そのものじゃない。
その傷を作った原因。
自分自身が許せないのだ。
昨日。
暴走した力。
黒い靄。
砕けた窓。
僕を吹き飛ばした衝撃。
そして。
『離すな』
あの言葉。
今思えば。
あれは命令じゃない。
お願いだった。
助けて。
置いていかないで。
そんな言葉を。
不器用なルネは、あの一言に全部押し込めたんだ。
「真白」
「……はい」
先生に呼ばれて我に返る。
「聞いていたか?」
「すみません」
「体調が悪いなら、無理はするなよ」
「大丈夫です」
反射的に出た、その言葉。
言った瞬間だった。
「大丈夫じゃねぇ時にそれ言うな」
ルネの低い声が教室の後ろから飛んでくる。
昨日。
僕がルネへ言った言葉。
そのまま返された。
思わず苦笑してしまう。
「……少しだけ、集中できてません」
言い直す。
「そうか」
先生は優しく頷いた。
「気分が悪くなったら遠慮なく言え」
「はい」
席へ座り直し、小さく息を吐く。
ルネを見る。
口の動きだけで。
『ありがとう』
そう伝える。
ルネは鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「……礼言うな」
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声。
だけど。
その耳が、ほんの少し赤くなっているのを。
僕はちゃんと見ていた。
――昼休み。
屋上で、僕たちはもう一度「触れてはいけない傷」と向き合うことになる。




