ルネ編第11話「悪魔が壊れる前に」
壊れてからでは。
遅い。
そんな当たり前のことを。
僕は、自分のことではずっと分からなかった。
苦しくても。
まだ大丈夫だと思っていた。
少しくらい無理をしても。
みんなそうやって頑張っているのだから、自分だけ弱音を吐くわけにはいかないと。
そう思っていた。
そして気づけば。
教室へ入れなくなって。
誰かと話すことも怖くなって。
何もできなくなってから、ようやく。
僕は壊れていたのだと知った。
壊れてからでは、遅かった。
治るまでに時間がかかった。
たくさんの人に心配をかけた。
操にも。
家族にも。
自分自身にも。
だから。
今度は。
ルネが壊れてしまう前に。
何かできないかと思った。
あいつはきっと。
僕よりずっと我慢強い。
だからこそ。
限界まで誰にも言わない。
限界を超えても。
平気だと笑ってしまう。
それが、一番怖かった。
◇
「晶くん、最近ルネさんと一緒にいることが多いね」
朝。
昇降口で靴を履き替えていると、操がそう言った。
責めるような声ではなかった。
いつも通り。
柔らかく。
少しだけ寂しそうな声。
僕は上履きを履きながら、少しだけ動きを止める。
「……うん」
曖昧に頷く。
誤魔化そうと思えば、できたかもしれない。
でも。
操にだけは。
嘘をつきたくなかった。
「ルネ、今ちょっと調子が悪いみたいで」
「調子が?」
「うん」
どこまで言っていいのか迷う。
存在が崩れかけている。
暴走するかもしれない。
消滅するかもしれない。
そんなことを。
ルネは誰にも知られたくないはずだ。
「詳しくは言えないけど」
僕は声を落とした。
「放っておくのは、危ない気がする」
操は少しだけ目を伏せた。
「そっか」
短い返事。
それから。
「晶くんは、ルネさんを助けたいんだね」
「助けられるかは分からない」
「でも、助けたい?」
「……うん」
答える。
胸の奥が少し痛む。
操の前で。
ルネを助けたいと言うことに。
なぜか。
後ろめたさを感じてしまう。
操はずっと。
僕のそばにいてくれた。
僕が教室へ行けなかった時も。
何もできなかった時も。
保健室という場所を。
僕にとっての居場所にしてくれた。
その操を置いて。
僕は別の誰かのところへ行こうとしている。
そんな気がした。
「ごめん」
気づけば。
そう口にしていた。
「どうして謝るの?」
「分からない」
「変なの」
操が小さく笑う。
でも。
その笑顔は少しだけ苦しそうだった。
「晶くん」
「うん」
「前に進むって」
一度言葉を切る。
「誰かを置いていくことなのかな」
胸が締め付けられる。
「操……」
「ごめんね」
今度は操が謝った。
「困らせたいわけじゃないの」
「ただ」
靴箱へ視線を落とす。
「晶くんが少しずつ変わっていくのを見てると」
「嬉しいのに」
「怖くなる時がある」
「僕がいなくなる?」
操は答えなかった。
でも。
否定もしなかった。
その沈黙は。
ルネと同じだった。
大切な誰かが。
いなくなることを怖がっている。
「僕は」
言葉を探す。
「操を置いていきたいわけじゃないよ」
「うん」
「でも」
続きを言うのが怖い。
それでも。
言わなければならない気がした。
「ずっと同じ場所にいることが」
「一緒にいるってことでもないと思う」
操の肩が、僅かに揺れる。
「前の僕は」
「保健室にいて」
「操が来てくれるのを待ってた」
「それで安心してた」
「でも」
「操がいないと何もできなかった」
自分で言いながら。
胸が痛む。
操を責めたいわけじゃない。
悪いのは。
操の優しさに甘え続けた僕だ。
「僕は」
「それを変えたい」
操がゆっくり顔を上げる。
瞳が少し潤んでいた。
「……うん」
「ごめん」
「謝らないで」
操は笑う。
今度は。
少しだけ。
本当の笑顔に見えた。
「ちゃんと言ってくれて、ありがとう」
そして。
「ルネさんのところに行ってあげて」
そう言った。
その言葉が。
優しすぎて。
僕は何も返せなかった。
操は最後まで。
僕を引き止めなかった。
それが。
嬉しくて。
苦しかった。
◇
教室。
ルネは窓際にいた。
長い薄紫色の髪。
赤紫の瞳。
見た目はいつも通り。
でも。
「遅ぇ」
最初の言葉から不機嫌だった。
「まだ始業前だけど」
「知るか」
「待ってたの?」
「殺すぞ」
「待ってたんだ」
「違ぇ」
ルネが顔を逸らす。
耳が少し赤い。
昨日までなら。
その反応に少し笑えた。
でも今日は。
別のことが気になった。
「……また寝てない?」
ルネの目の下。
薄い影。
昨日より濃くなっている。
「寝た」
「何時間」
「知らねぇ」
「前もそれ言ってた」
「毎回聞くオマエが悪い」
「姿は揺れてない?」
「朝から縁起でもねぇこと言うな」
「確認してるだけ」
「するな」
冷たい声。
でも。
苛立っているというより。
隠そうとしている。
「ルネ」
「あ?」
「昨日の夜、何かあった?」
一瞬。
ルネの瞳が揺れた。
「何もねぇ」
「嘘」
「何で分かる」
「顔」
「オマエにだけは言われたくねぇ」
「それ、もう三回くらい聞いた」
「なら覚えろ」
いつもの返し。
だけど。
その直後。
ルネの指先が透けた。
「……っ」
僕が息を呑む。
ルネはすぐに手を背中へ隠した。
「見るな」
「今、消えかけた」
「気のせいだ」
「もうそれじゃ誤魔化されないよ」
「晶」
低い声。
「授業始まるぞ」
逃げた。
そう思った。
でも。
今は追い詰めない方がいい。
僕は席に座る。
ただ。
胸のざわつきだけは。
どうしても消えなかった。
◇
一時間目。
ルネの姿がない。
二時間目。
まだ戻らない。
三時間目。
僕は黒板を見ているふりをしながら。
何度も窓際へ目を向けた。
いない。
姿を消しただけかもしれない。
そう思おうとする。
でも。
嫌な想像ばかり浮かぶ。
どこかで倒れている。
また暴走している。
誰にも気づかれない場所で。
消えかけている。
「真白?」
先生の声。
「……はい」
「大丈夫か」
「はい」
反射的に答える。
大丈夫。
まただ。
僕は。
何も大丈夫じゃない時ほど、そう言う。
ルネも同じだ。
「少し、外に出てもいいですか」
自分から言った。
先生は少し驚いた後、頷く。
「ああ。無理はするなよ」
「はい」
教室を出る。
廊下。
息を整える暇もなく。
僕は歩き出した。
いや。
途中から走っていた。
◇
屋上。
いない。
階段の踊り場。
いない。
保健室の前。
いない。
校舎裏。
いない。
「ルネ」
呼ぶ。
返事はない。
「ルネ!」
声を大きくする。
当然。
周囲の生徒が振り返る。
でも。
今は気にしていられなかった。
胸が苦しい。
呼吸が乱れる。
それでも。
止まれない。
探さなきゃ。
昨日。
あいつは言っていた。
近付くな、と。
でも。
本当に一人にしてほしい人は。
あんな顔をしない。
助けてと言えないだけだ。
「……旧校舎」
ふと。
思い当たる。
人が少なくて。
暗くて。
一人になれる場所。
僕は渡り廊下を駆け抜けた。
◇
旧校舎。
薄暗い廊下。
雨のせいで。
昼なのに夜みたいだった。
古い床が軋む。
湿った空気。
誰もいない教室。
「ルネ」
呼ぶ。
静寂。
「いるんでしょ」
返事はない。
でも。
冷たい空気が流れてくる。
奥から。
黒い靄が。
細い煙のように滲んでいる。
「ルネ!」
走る。
突き当たり。
使われていない教室。
扉を開ける。
「……来るなって」
声がした。
ルネがいた。
窓際。
床に座り込んで。
壁へ背を預けている。
長い髪が顔を隠している。
その周囲。
黒い靄が渦巻いていた。
そして。
身体の輪郭が。
何度も揺れている。
右腕は。
肘から先が透けていた。
今にも消えてしまいそうなほど。
「ルネ」
「来るな」
「その状態で言われても無理だよ」
「戻れ」
「嫌だ」
「晶」
顔を上げる。
赤紫の瞳。
酷く濁っている。
「今のオレに近付くな」
「暴走するから?」
「それだけじゃねぇ」
「じゃあ何」
「……オマエを」
ルネが歯を食いしばる。
「傷つける」
黒い靄が膨らむ。
窓ガラスが震える。
「だから帰れ」
「嫌だ」
「何で分かんねぇんだよ!」
怒鳴り声。
教室中の机が大きく揺れる。
一つが倒れた。
轟音が響く。
怖い。
本当に怖い。
足が震える。
でも。
逃げたら。
ルネはまた一人になる。
「ルネ」
「来るな!」
「僕は」
一歩。
近付く。
「壊れてから助けられるのは、嫌なんだ」
ルネの表情が止まる。
「何だよ、それ」
「僕がそうだったから」
もう一歩。
「大丈夫って言い続けて」
「何も言えなくて」
「気づいた時には」
「教室にも入れなくなってた」
「それとオレを一緒にすんな」
「同じだよ」
「違ぇ!」
「同じ」
声が震える。
でも。
言い切る。
「ルネもずっと大丈夫って言ってる」
「平気だって」
「悪魔だからって」
「でも、全然大丈夫じゃない」
「黙れ」
「黙らない」
「晶!」
「壊れる前に言ってよ!」
自分でも驚くほど。
大きな声が出た。
「助けてって」
「苦しいって」
「一人じゃ無理だって!」
ルネが目を見開く。
「……言えるかよ」
掠れた声。
「何で」
「言ったら」
一度。
息を詰まらせる。
「また、同じになる」
「同じって」
「助けようとするだろ」
黒い靄が揺れる。
「オマエも」
「アイツみてぇに」
「自分のこと考えずに」
「オレを助けようとする」
「それで」
声が震える。
「死ぬ」
胸が痛む。
まだ名前も知らない男。
でも。
ルネの中では。
今も死に続けている。
「僕は死なない」
「分かるわけねぇだろ!」
「うん」
否定しない。
「絶対なんて言えない」
「だったら」
「でも」
僕はルネを見る。
「僕は一人でルネを助けようとはしない」
ルネの眉が動く。
「……何?」
「僕だけで無理なら」
「サーシャにも」
「久苑にも」
「操にも頼る」
「オマエ」
「ルネにも頼る」
「意味分かんねぇ」
「僕が危なくなったら」
手を差し出す。
「ルネが僕を助けて」
「僕はルネを助けるから」
「……」
「一人で全部背負わない」
「それなら」
息を吸う。
「レイと同じにはならない」
その名前を。
僕はまだ知らないはずだった。
でも。
なぜか。
口から出た。
「……今」
ルネの顔から。
すべての表情が消える。
「何て言った」
僕自身も。
息を呑んでいた。
「レイ」
知らない名前。
でも。
胸の奥では。
ずっと前から知っていたような響きだった。
「どうして」
ルネの声が震える。
「何でオマエが」
黒い靄が。
一気に膨れ上がる。
「ルネ!」
「その名前を呼ぶな!」
窓ガラスが砕ける。
破片が教室へ飛び散る。
風が吹き込む。
「オマエが呼ぶな!」
ルネが立ち上がる。
身体の半分が。
黒い靄に溶けかけている。
「その声で」
「その顔で」
「アイツの名前を呼ぶな!」
「僕はレイじゃない!」
叫ぶ。
「知ってる!」
「じゃあ見てよ!」
「見てる!」
「見てない!」
黒い靄の中へ。
一歩踏み込む。
冷たい。
痛い。
皮膚が裂けるような痛み。
それでも。
「ルネは今」
「僕じゃなくて、レイを見てる!」
「違ぇ!」
「違わない!」
目の前まで行く。
ルネの肩を掴む。
熱い。
燃えるような熱。
「僕を見て」
「離せ!」
「僕は真白晶だ!」
「分かってる!」
「分かってない!」
叫ぶ。
「僕はレイみたいに強くない!」
「誰かを守って死ねるような人間でもない!」
「怖いし!」
「逃げるし!」
「一人じゃ何もできない!」
「でも!」
肩を掴む手に力を込める。
「だから生きるんだよ!」
ルネの瞳が揺れる。
「助けてもらって」
「逃げる時は逃げて」
「それでも戻ってきて」
「ルネと一緒に生きる!」
「……やめろ」
「死んで守るなんて言わない!」
「やめろ」
「勝手にいなくならない!」
「やめろ!」
「ルネも勝手に消えないで!」
黒い靄が。
爆発した。
視界が黒く染まる。
身体が吹き飛ぶ。
床へ叩きつけられる。
「っ……!」
息が詰まる。
背中が痛い。
頬に熱いものが伝う。
「晶!」
ルネの叫び。
目を開ける。
ルネが。
僕の前に膝をついていた。
震える手で。
僕の頬を見つめている。
ガラス片が掠めた傷。
血が一筋流れていた。
「だから」
ルネの顔が歪む。
「近付くなって」
「……これくらい」
「これくらいじゃねぇ!」
怒鳴る声は。
怒りじゃない。
悲鳴だった。
「また」
「オレが」
「また傷つけた」
「違う」
「オレが」
「違うよ」
僕は起き上がる。
ルネの手を掴む。
「僕が勝手に来た」
「それでも」
「ルネのせいじゃない」
「オレの力だ!」
「でも」
掴んだ手を。
自分の頬へ当てる。
ルネが息を呑む。
「今」
「僕を助けようとしてる」
「……」
「まだ間に合う」
僕は笑う。
「一緒に何とかしよう」
「僕だけじゃ無理だから」
「ルネも手伝って」
長い沈黙。
雨。
割れた窓。
黒い靄。
やがて。
ルネの指が。
ほんの少しだけ。
僕の頬へ触れた。
「……痛くねぇのか」
「ちょっと痛い」
「バカ」
「うん」
「本当に」
声が掠れる。
「バカだ」
「知ってる」
「死ぬかもしれねぇんだぞ」
「怖いよ」
「なら」
「でも」
ルネの手を握る。
「ルネが一人で消える方が」
「もっと嫌だ」
その瞬間。
ルネの身体から溢れていた黒い靄が。
ゆっくりと。
弱くなった。
透けていた腕が。
少しずつ輪郭を取り戻す。
まだ不安定だ。
でも。
確かに。
そこにいた。
「……晶」
「なに」
「離すな」
小さな声。
聞き間違いかと思った。
「今、何て」
「聞き返すな」
「でも」
「離すなって言った」
ルネは顔を逸らす。
「今だけだ」
「うん」
「調子に乗んな」
「うん」
「誰にも言うな」
「それは考える」
「オマエな」
「だって」
手を握り直す。
「もう一人で抱えさせないから」
ルネは。
もう振り払わなかった。
◇
「晶くん!」
教室の扉が開く。
操。
その後ろには。
久苑とサーシャ。
皆、息を切らせていた。
「晶くん、大丈夫!?」
操が駆け寄り。
震える手でハンカチを傷口へ当てる。
「ごめん」
「どうして一人で行ったの」
「……ごめん」
「私も連れてきてよ」
怒った声。
でも。
泣きそうだった。
「一人で変わらないで」
その言葉に。
僕は今度こそ迷わず頷く。
「うん」
「次は頼る」
「約束?」
「約束」
操は少しだけ笑った。
サーシャは黙ってルネを見る。
「兄さん」
「あ?」
「あとでお話があります」
「嫌だ」
「拒否権はありません」
「ある」
「ありません」
いつもの言い合い。
その声を聞いて。
僕はようやく息を吐いた。
ルネは。
まだここにいる。
◇
壊れる前に。
助けを求める。
言葉にすれば。
簡単なことに思える。
でも。
それが一番難しい。
自分が弱いと認めること。
一人では無理だと認めること。
誰かの手を取ること。
僕も。
まだ上手くできない。
ルネも。
きっとできない。
だから。
一度で変わらなくてもいい。
何度でも。
手を伸ばせばいい。
「晶」
「なに」
「さっきの名前」
「レイ?」
ルネは静かに頷いた。
「ああ」
「どうして知っていたのか」
「僕にも分からない」
「夢で聞いたのかも」
「……そうか」
それだけ。
でも。
初めて。
名前を否定しなかった。
「レイ・アーデル」
ルネが静かに言う。
「それが」
息を止める。
「アイツの名前だ」
雨音の中。
その名前は。
祈りみたいに響いた。
「レイ・アーデル」
僕も繰り返す。
「呼ぶなとは言わないの?」
「今はな」
「そっか」
「ただし」
ルネが僕を見る。
「オマエはオマエだ」
「うん」
「アイツの代わりになるな」
「ならないよ」
僕は笑う。
「僕は僕だから」
ルネはしばらく僕を見つめていた。
それから。
苦しそうに。
けれど少しだけ安堵したように笑う。
「ああ」
繋いだ手に。
僅かに力が込められた。
「……そうだったな」




