ルネ編第14話「同じ顔」
同じ顔。
そう言われても。
僕には、よく分からなかった。
だって、僕とレイは、どう見ても似ていない。
夢の中で、少しずつ輪郭が見えるようになった彼は、僕より背が高くて、肩幅も広くて、立っているだけで周囲を安心させるような人だった。
たぶん、声も大きい。
たぶん、よく笑う。
たぶん、誰かの前に立つことを怖がらない。
僕とは違う。
全然、違う。
それなのに。
ルネが言った。
時々、同じ顔をする、と。
その言葉が、胸の奥に小さな棘みたいに引っ掛かっていた。
◇
「晶くん」
「うん?」
「また、ぼーっとしてる」
昼休み。
操が、僕の顔を覗き込んでいた。
机の上には、購買で買ったパンが置かれたままになっている。袋は開けたのに、まだ一口も食べていなかった。
「ごめん」
「寝不足?」
「ちょっと考え事」
「ルネさん?」
「……なんで分かるの」
操が苦笑した。
「最近の晶くん、そればっかりだから」
「そんなに?」
「そんなに」
即答された。
少し恥ずかしくなって、僕はパンの袋を無意味に触った。
「何を考えてたの?」
「同じ顔って」
「え?」
「ルネに言われたんだ。僕が時々、レイと同じ顔をするって」
操の表情が少し変わった。
「レイさん……」
「うん」
操も、名前だけは知っている。けれど、ルネにとってどれほど大切な人だったのかまでは、まだ話していない。
「顔が似てるってこと?」
「それが違うみたい。ルネも、顔は似てないって言ってた」
「じゃあ、表情?」
「たぶん」
僕は自分の頬に触れる。
「でも、自分の顔って、自分じゃ分からないから」
「写真撮る?」
「そういう話じゃないと思う」
「そっか」
操が少し笑った。
それから、僕の顔をじっと見る。
「……何?」
「晶くん、最近、前よりよく笑うようになったよ」
「そう?」
「うん」
操は少しだけ言葉を選ぶようにしてから、続けた。
「昔は、笑ってても、どこかごめんなさいって顔してた」
胸に刺さった。
「ごめんなさいって顔?」
「うん。僕がここにいてごめんなさい。話しかけてごめんなさい。迷惑かけてごめんなさい。そんな感じ」
「……酷いなあ」
「ごめん」
「操が謝るの?」
「なんとなく」
二人で少し笑った。
でも、操の言葉は胸に残った。
昔の僕。
今の僕。
顔立ちは変わらない。
それでも、表情は変わる。
なら、ルネが見ているものも、そういうものなのだろうか。
◇
放課後。
屋上に行くと、ルネはフェンスにもたれて空を見ていた。
「遅ぇ」
「待ってた?」
「殺すぞ」
「最近それ聞くと安心する」
「頭おかしくなったか?」
「ルネのせいかも」
「責任押し付けんな」
いつものやり取り。
僕はルネの隣に座った。
風が少し冷たい。夕方の空は薄く赤くなり始めていて、フェンスの向こうで、部活の声が小さく揺れていた。
「ルネ」
「あ?」
「聞いていい?」
「内容による」
「同じ顔って」
ルネの眉が僅かに動いた。
「……またそれか」
「気になって」
「忘れろ」
「無理」
「オマエ、本当にしつこいな」
「性格だから」
「昔はもっと遠慮してただろ」
「変わったんだよ」
「悪い方向にな」
そう言いながら、ルネは少しだけ笑った。
「レイと僕、そんなに似てる?」
「似てねぇ」
即答だった。
「やっぱり」
「顔も違う。背丈も違う。アイツの方がデカかったし、体つきも違う。性格も違う」
ルネが僕を見る。
「アイツの方が百倍図太い」
「そこまで?」
「オマエが人前で声掛けるのに三分悩むなら、アイツは三秒で知らねぇ奴と肩組んでた」
「すごいな……」
「ただの距離感バカだ」
「ルネとも?」
「最初からな」
少しだけ、ルネの目が遠くなった。
「契約したその日に、ルネって呼んだ」
「普通じゃないの?」
「悪魔相手だぞ。普通はもっと畏まる」
「レイは違ったんだ」
「ああ。『長ぇ名前覚えらんねぇからルネでいいだろ』って勝手に決めやがった」
「……レイらしいね」
「オマエ、会ったことねぇだろ」
「夢でちょっと」
「それだけで分かった顔すんな」
「ごめん」
でも、少しだけ嬉しかった。
ルネが、レイの話をしている。
怒鳴らず、逃げず、昔を少しだけ見ている。
「じゃあ」
僕は聞いた。
「何が同じなの?」
ルネの笑みが消えた。
長い薄紫色の髪が、風に揺れる。
「……顔だよ」
「だから、顔は似てないんでしょ」
「そういう意味じゃねぇ」
「じゃあ、どんな」
「オマエ、この間、倒れてた奴助けただろ」
「うん」
「あの時、何も考えてなかっただろ」
「え?」
「自分に得があるとか、面倒に巻き込まれるとか、後でどうなるとか」
「……まあ」
考えていなかった。
苦しそうだったから。
放っておけなかったから。
ただ、それだけだった。
「アイツもそうだった」
ルネが言う。
「誰か困ってると、勝手に身体が動く。で、助けた後に、何でもねぇみたいな顔で笑う」
「……」
「そういう時だ」
赤紫の瞳が、ほんの少し揺れた。
「オマエとアイツが、同じ顔に見える」
胸が痛くなった。
「笑顔が同じ?」
「違ぇ」
「じゃあ」
「安心した顔だ」
「……安心?」
「ああ」
予想していなかった答えだった。
「誰かを助けた後、自分が無事だったことより、そいつが無事だったことに安心してる。そういう顔」
ルネが歯を食いしばった。
「アイツも、最後まで……そうだった」
僕は、何も言えなくなった。
◇
「最後って」
聞きかけて、やめた。
今は、触れない。
ルネが、自分から話すまで待とう。
そう思った。
「聞かねぇのか」
逆に、ルネが言った。
「え?」
「いつもなら聞くだろ」
「聞きたいよ」
「じゃあ聞け」
「でも、ルネが話したいなら話して」
ルネの目が細くなる。
「面倒くせぇ奴」
「どっちが?」
「オマエだ」
「ルネだと思う」
「殺すぞ」
少しだけ、空気が軽くなった。
でも、ルネはすぐにまた空を見る。
「……最後」
ぽつり、と言った。
「アイツ、笑ってた」
風が吹いた。
フェンスが小さく鳴った。
「酷ぇ怪我して、もう立ってんのも無理だったくせに、オレを見て、安心したみてぇに笑いやがった」
ルネの拳が、ゆっくり握られる。
「何で、自分が死にそうなのに安心できんだよ。何で、自分のことどうでもいいみてぇに笑えんだよ」
答えられなかった。
でも、ルネは答えを求めていなかった。
これは、ずっと昔から、誰にもぶつけられなかった怒りなんだ。
「……今でもムカつく」
「うん」
「思い出すだけで腹立つ」
「うん」
「勝手に守った気になって、勝手に安心して、勝手に……死にやがった」
僕は、少しだけルネに近づいた。
触れない。
ただ、隣にいる。
「だから、オマエが同じ顔すると、殴りたくなる」
「それは困る」
「本気でな」
「もっと困る」
「同時に」
ルネがこちらを見る。
「怖くなる」
その言葉は、とても静かだった。
前なら、絶対に言わなかったと思う。
「また、同じことになるんじゃねぇかって」
「……ならないよ」
「絶対か?」
僕は少し考えた。
「絶対とは言わない」
「……」
「でも、僕は、レイみたいに笑って死んだりしない」
「それ言う奴ほど信用できねぇ」
「じゃあ、死にそうだったら泣く」
「あ?」
「怖いって言う。助けてって言う。逃げたいって言う。ルネにも、操にも、サーシャにも、久苑にも、全員に助けてもらう」
「……格好悪ぃな」
「うん」
「自分で言うか」
「だって、格好悪くても、生きて帰った方がいいでしょ」
ルネが目を見開いた。
その表情は、どこか痛そうだった。
「……アイツにも、それ言ってほしかった」
小さな声だった。
「助けてって。怖ぇって。死にたくねぇって。一回でも言ってくれてたら、オレは……もっと、何かできたかもしれねぇ」
「ルネ」
「だから」
ルネが顔を上げる。
「晶」
「うん」
「同じ顔すんな」
「それ、難しくない?」
「知らねぇ」
「顔って勝手になるし」
「なら、その顔した時は、オレが止める」
「……うん」
「誰か助けて、自分だけ置いてくような顔したら、引きずってでも連れて帰る」
僕は少し笑った。
「前も似たこと言ってたね」
「何度でも言う」
「分かった」
「約束しろ」
「うん」
「誰か助ける時、自分も助けろ」
「約束する」
今度は、迷わず言った。
ルネが、ほんの少し安心した顔をした。
もしかすると、今の僕も、同じ顔をしていたのかもしれない。
◇
その夜。
夢を見た。
今までより、ずっと鮮明な夢だった。
青い空。
風に揺れる草原。
一本の大きな木。
その下に、ルネと、もう一人の男がいる。
『ルネ』
『何だよ』
『腹減った』
『知るか』
『何か出せない? 悪魔の力で』
『オレを何だと思ってんだ』
『便利な相棒』
『殺すぞ』
『ははっ』
男が笑う。
初めて、その顔がはっきり見えた。
灰がかった茶色の髪。
少し癖のある短い髪。
健康的な肌。
琥珀色の瞳。
僕よりずっと大人びた顔。
やっぱり、僕とはまるで似ていない。
でも、笑った瞬間、胸が跳ねた。
『なあ、ルネ』
『あ?』
『お前さ』
『何』
『案外いい奴だよな』
『今すぐ殺す』
『褒めたのに!?』
レイが笑う。
ルネが本気で嫌そうな顔をする。
それでも、二人の間には、不思議なほど穏やかな空気があった。
その時。
近くで何かが倒れる音がした。
レイが振り返る。
怪我をした小さな魔族が、地面に倒れていた。
『おい、大丈夫か』
レイはすぐに駆け寄った。
『放っとけ』
ルネが言う。
『敵かもしれねぇぞ』
『だったら元気になってから殴られればいい』
『バカかオマエ』
レイは倒れた相手を助け起こし、傷を確認した。
そして、命に別状がないと分かると。
『よかった』
そう言って、笑った。
夢の中で、僕は息を呑んだ。
分かった。
顔立ちじゃない。
目でも、口でもない。
誰かが無事だったことに、心の底から安心した顔。
僕もきっと、同じ顔をする。
けれど、その直後。
夢の景色が崩れた。
青い空が赤く染まる。
草原が燃える。
レイの身体が、血に濡れている。
『レイ!』
ルネの叫び。
レイは、立っているのもやっとなのに、笑っていた。
『よかった』
『何がだよ!』
『お前……無事で』
『ふざけんな』
『ルネ』
『ふざけんなよ!』
ルネがレイの胸ぐらを掴む。
『何で笑ってんだ!』
『……だって』
レイが、困ったように笑う。
『お前、生きてるだろ』
その顔。
今日、ルネが言った、同じ顔。
僕はようやく理解した。
ルネが、あの表情をどうしてあれほど怖がるのか。
◇
「……っ」
目が覚めた。
暗い部屋。
心臓が強く鳴っている。
僕は、自分の顔に触れた。
レイと僕は似ていない。
全然、違う人間だ。
でも、確かに重なる瞬間がある。
そして、その重なりは、ルネにとって懐かしいだけのものじゃない。
失った瞬間まで、一緒に連れてくる。
「……ルネ」
小さく呟く。
僕がしなければならないことは、レイと違う顔をすることじゃない。
似ていてもいい。
同じところがあってもいい。
ただ、最後だけは違う選択をする。
誰かを助けて、自分も帰る。
怖い時は、怖いと言う。
助けてほしい時は、助けてと言う。
そして、笑うなら。
死ぬ前じゃなく。
一緒に帰ってから、笑えばいい。
僕はもう一度、目を閉じた。
夢の中で見たレイの最後の笑顔が、まだ胸の奥に焼き付いていた。
けれど、その隣に。
屋上で見たルネの、ほんの少し安心した顔も残っていた。
だから僕は、心の中で静かに繰り返した。
約束する。
僕は、帰る。
ちゃんと、ルネの隣に。




