ルネ編第9話 「壊れる音」
――その音は、最初から鳴っていたのかもしれない。
ただ。
僕が気づいていなかっただけで。
小さく。
少しずつ。
見えない場所で。
何かが、壊れ始めていた。
◇
朝。
教室。
昨日よりも、少しだけ早く席に着くことができた。
教室の中はまだ人が少ない。
窓を開けている生徒。
机に突っ伏している生徒。
友達と話している生徒。
いつもの光景。
少し前まで、僕には遠かった場所。
今はまだ緊張するけれど。
前ほど息苦しくはない。
「珍しいな」
後ろから声がした。
振り返る。
ルネだった。
長い薄紫色の髪が、朝の光を受けて淡く輝いている。
赤紫の瞳。
いつも通り目立つ姿。
ただ。
今日は少し違った。
「……ルネ」
「あ?」
「顔色悪くない?」
ルネが眉を寄せる。
「オマエにだけは言われたくねぇ」
「それはそうかもしれないけど」
「なら黙れ」
いつもの返し。
でも。
声に力がない。
よく見れば、目の下には薄い隈がある。
髪も少し乱れている。
いつもなら妙に整っているのに。
「寝てない?」
「寝た」
「何時間」
「知らねぇ」
「それ寝てない人の答えだよ」
「うるせぇな」
ルネが顔を逸らす。
その瞬間。
ほんの少しだけ。
姿が揺れた。
「……え?」
瞬きをする。
見間違いかと思った。
ルネの輪郭が。
一瞬だけ。
煙みたいに揺らいだ気がした。
「どうした」
「今」
「あ?」
「なんか、揺れた」
ルネの表情が止まる。
本当に一瞬だけ。
でも。
確かに。
「気のせいだ」
「でも」
「気のせいだ」
強く言い切られる。
それ以上聞くな。
そう言われている気がした。
僕は黙った。
でも。
胸の奥には嫌な感覚が残った。
◇
一時間目。
今日は最後まで教室にいられた。
二時間目も途中まで。
昨日より少しだけ長い。
苦しくなって廊下へ出た時も。
前みたいに自分を責めなかった。
一時間と少し。
できた。
それは消えない。
ルネが教えてくれた考え方だ。
「今日は早めに休め」
廊下の壁にもたれながら、ルネが言う。
「珍しいね」
「何が」
「ルネが休めって言うの」
「倒れられたら面倒なんだよ」
「やっぱり言い方が優しくない」
「優しくする必要がねぇ」
そう言いながら。
ルネの方が苦しそうだった。
肩で少し息をしている。
額には薄く汗が浮かんでいる。
「ルネこそ休んだ方がいいんじゃない?」
「悪魔に休憩なんかいらねぇ」
「絶対嘘」
「オマエ最近生意気になったな」
「誰のせいだと思ってるの」
「オレのせいにすんな」
いつものやり取り。
でも。
ルネは笑わなかった。
口元だけが少し動いただけだった。
やっぱり。
何かがおかしい。
◇
昼休み。
屋上。
僕はフェンスの近くに座っていた。
ルネは少し離れた場所。
今日は隣に来なかった。
いつもなら勝手に隣へ座るのに。
その距離が気になる。
「ルネ」
「何だよ」
「こっち来ないの」
「なんでオマエの隣行かなきゃなんねぇんだ」
「いつも来るじゃん」
「今日は気分じゃねぇ」
まただ。
少し前と同じ。
近づくな。
そう言われているみたいだった。
でも。
今度は理由が違う気がする。
「調子悪いんだろ」
「悪くねぇ」
「嘘」
「決めつけんな」
「じゃあこっち来てよ」
「嫌だ」
「なんで」
「うるせぇな」
ルネの声が荒くなる。
その瞬間。
足元に黒いものが揺れた。
「……っ」
息が止まる。
黒い靄。
一瞬だけ。
すぐ消えた。
でも。
見間違いじゃない。
「ルネ」
「見るな」
低い声。
いつものルネじゃない。
明らかに。
「今の」
「見るなって言ってんだろ」
赤紫の瞳がこちらを向く。
鋭い。
でも。
怒っているというより。
怯えているように見えた。
「また暴走するの?」
聞いた瞬間。
ルネの顔から表情が消えた。
「……知らねぇ」
小さな声。
「え?」
「オレにも分かんねぇ」
初めてだった。
ルネが。
分からない、と認めるのは。
いつもなら強がる。
何でも知っているみたいな顔をする。
でも今は。
本当に分からないんだ。
そして。
怖がっている。
「サーシャに言った方が」
「言うな」
「でも」
「絶対言うな」
強い声。
「なんで」
「あいつはすぐ連れ戻す」
「魔界に?」
「ああ」
ルネが舌打ちする。
「管理だの保護だの言って」
「オレを閉じ込める」
「でも、危ないなら」
「危なくねぇ」
「さっき自分でも分からないって言ったじゃん」
「うるせぇ!」
怒鳴り声。
黒い靄が膨らむ。
フェンスがびり、と鳴った。
僕は思わず肩を震わせる。
ルネも驚いた顔をした。
自分の力が漏れたことに。
そして。
すぐに目を逸らす。
「……悪ぃ」
小さな声。
聞き間違いかと思った。
「今、謝った?」
「聞こえてんなら聞き返すな」
「珍しい」
「殺すぞ」
いつもの言葉。
でも。
今は冗談に聞こえなかった。
それくらい。
ルネの状態は悪かった。
◇
屋上の扉が開いた。
「兄さん」
穏やかな声。
振り返る。
サーシャだった。
長いピンク色の髪。
柔らかな微笑み。
今日もメイド服姿。
見た目だけなら。
この場にいる誰より優しそうだ。
でも。
その目は笑っていなかった。
「やはり、ここでしたか」
「……チッ」
ルネが露骨に嫌そうな顔をする。
「晶さん」
サーシャが僕を見る。
「お怪我はありませんか?」
「え?」
「先ほど、魔力の乱れを感じました」
胸が跳ねる。
僕はルネを見る。
言うな。
目がそう言っている。
「……大丈夫」
「そうですか」
サーシャは微笑む。
でも。
信じていない。
たぶん全部分かっている。
「兄さん」
「何だよ」
「こちらへ」
「嫌だ」
「お願いします」
「嫌だっつってんだろ」
「では」
サーシャの笑みが少しだけ深くなる。
「こちらから伺います」
一歩。
ルネへ近づく。
ルネが身構える。
「来んな」
「状態を確認するだけです」
「必要ねぇ」
「必要です」
即答。
穏やかな声なのに。
一切引く気がない。
「兄さん」
サーシャが静かに言う。
「契約が不安定になっています」
契約。
その言葉に胸がざわつく。
「契約って」
僕が聞く。
サーシャは少しだけ目を細める。
「兄さんをこの世界へ繋ぎ止めているものです」
「繋ぎ止める……?」
「本来、兄さんはこちらの世界に長く留まる存在ではありません」
穏やかな説明。
でも。
内容は重い。
「現在の兄さんは」
サーシャがルネを見る。
「非常に不安定です」
「黙れ」
「事実です」
「黙れ」
「魔力の漏出」
「存在の揺らぎ」
「記憶との混線」
淡々と並べる。
ルネの顔色が悪くなる。
「そして」
サーシャは僕を見る。
「晶さんとの共鳴」
心臓が跳ねる。
「共鳴?」
「まだ確定ではありません」
サーシャは微笑む。
「ですが」
「兄さんが晶さんに触れられた際」
「著しく安定した」
あの日。
僕がルネの腕を掴んだ時。
黒い靄が静まった。
「偶然ではないと?」
僕が聞く。
「偶然にしては」
サーシャは少しだけ首を傾げる。
「再現性が高すぎますね」
「再現性って」
「試してみれば分かります」
微笑む。
怖い。
本当に。
「晶さん」
「嫌だ」
即答する。
「まだ何も言っていませんよ」
「絶対何かさせる気でしょ」
「少し兄さんへ触れていただくだけです」
「それが怖いんだって」
「私が見ていますから」
「余計怖い」
サーシャがくすりと笑う。
でも。
その目には焦りがあった。
表情の奥。
ほんの少しだけ。
「兄さん」
今度はルネを見る。
「このままでは、いずれ暴走します」
空気が止まる。
「……分かってる」
ルネが低く答える。
「でしたら」
「帰らねぇ」
「兄さん」
「帰らねぇって言ってんだろ」
ルネの周囲に黒い靄が滲む。
サーシャは動かない。
「理由を伺っても?」
「ここに用がある」
「どのような?」
ルネが黙る。
その視線が。
ほんの一瞬だけ。
僕へ向いた。
サーシャは見逃さなかった。
「……なるほど」
小さく呟く。
「そういうことですか」
「何がだ」
「いえ」
微笑む。
「兄さんは本当に分かりやすいですね」
「殺すぞ」
「その発言も含めて、です」
ルネが露骨に顔をしかめる。
僕は意味が分からない。
でも。
なんとなく。
顔が熱くなった。
◇
「晶さん」
サーシャがこちらを見る。
「ひとつだけ忠告しておきます」
「……何」
「兄さんへ近づきすぎないでください」
昨日のルネと同じ言葉。
「なんで」
「あなたも巻き込まれるからです」
「暴走に?」
「それだけではありません」
サーシャは少しだけ目を伏せる。
「兄さんは」
一度言葉を切る。
「大切にしたものを失うと、壊れます」
ルネの表情が変わった。
「サーシャ」
低い声。
警告。
でもサーシャは止まらない。
「過去にも」
「黙れ」
「同じことがありました」
「黙れ!」
黒い靄が爆発的に膨れ上がる。
風が巻き起こる。
屋上のフェンスが大きく揺れる。
「っ!」
僕は思わず目を閉じる。
次の瞬間。
体が動いていた。
ルネの腕を掴む。
「晶!?」
熱い。
あの日と同じ。
内側から焼けているみたいな熱。
でも。
触れた瞬間。
黒い靄が少しだけ静まった。
完全には消えない。
でも。
確かに。
「……やはり」
サーシャが呟く。
その声には驚きがあった。
「晶さん」
「なに」
「手を離さないでください」
「え?」
「今だけです」
いつもの穏やかな声。
でも。
今は本気で頼んでいる。
僕はルネを見る。
「……ルネ」
「離せ」
「でも」
「離せ」
「嫌だ」
即答だった。
ルネが目を見開く。
「今離したらまた悪くなる」
「オマエには関係ねぇ」
「ある」
「ねぇよ」
「あるよ」
腕を掴む手に力を入れる。
「僕の前で壊れそうになってるんだから」
ルネの瞳が揺れる。
赤紫の中に。
何かが滲んだ。
「……そういうとこ」
「え?」
「そういうとこが」
ルネが顔を逸らす。
「似てんだよ」
小さな声。
でも聞こえた。
昔の誰かに。
あの夢の男に。
僕が似ている。
「ルネ」
「今は聞くな」
苦しそうな声。
「頼むから」
その一言に。
僕は何も言えなくなった。
初めてだった。
ルネが。
頼む、と言ったのは。
◇
しばらくして。
黒い靄は少しずつ薄くなった。
ルネの呼吸も落ち着く。
僕はまだ腕を掴んでいた。
「……もういい」
「本当に?」
「ああ」
「嘘じゃない?」
「しつこい」
少しだけ力が戻った声。
僕はゆっくり手を離す。
今度は。
靄は大きく揺れなかった。
安心する。
それと同時に。
急に疲れが押し寄せた。
「……晶さん」
サーシャが僕を見る。
いつもの微笑み。
でも。
少しだけ複雑そうだった。
「あなたは」
「はい」
「非常に厄介ですね」
「なんで」
「兄さんを安定させる」
「しかし同時に」
ルネと僕を交互に見る。
「兄さんを揺らす」
意味が分からない。
聞き返そうとした時。
サーシャは踵を返した。
「今日はこれ以上申しません」
「ですが兄さん」
「あ?」
「次は強制的に連れ帰ります」
「やってみろ」
「ええ」
サーシャが微笑む。
「必要なら」
優しい声。
でも。
絶対に本気だ。
「晶さんも含めて管理させていただきます」
「僕も!?」
「当然です」
「当然じゃないよ!」
サーシャはくすりと笑う。
そして。
屋上から去っていった。
◇
残された僕とルネ。
風が吹く。
さっきまでの黒い靄は消えている。
でも。
空気の重さは残っていた。
「……ルネ」
「あ?」
「大丈夫?」
「さっきからそれしか言わねぇな」
「大丈夫じゃなさそうだから」
「平気だ」
「嘘」
「オマエな」
怒ろうとして。
でも。
途中で諦めたみたいにため息をつく。
「……少しだけ」
ルネが言う。
「少しだけヤバい」
胸が締め付けられる。
でも。
正直に言ってくれたことが嬉しかった。
「じゃあ」
僕は隣へ座る。
「しばらくここにいる」
「帰れ」
「嫌だ」
「即答すんな」
「だって」
ルネを見る。
「一人にしたらまた悪くなりそう」
「オマエがいたら余計悪くなるかもしれねぇぞ」
「でも触ると落ち着くんでしょ」
「……」
「なら」
少し迷って。
手を差し出す。
「また苦しくなったら言って」
ルネが固まる。
僕の手を見る。
触れない。
でも。
目を逸らさない。
「……バカ」
小さく呟く。
「知ってる」
「知らねぇだろ」
「ルネにずっと言われてるから」
「そういう意味じゃねぇ」
ルネは頭を抱える。
長い髪が顔を隠す。
耳だけが少し赤い。
「本当に」
掠れた声。
「似てやがる」
その言葉。
もう聞き返さなかった。
今は。
聞かない方がいい気がした。
ただ。
差し出した手だけは。
引っ込めなかった。
◇
その夜。
夢を見た。
赤い空。
黒い炎。
でも。
いつもより近い。
遠くにルネがいる。
傷だらけで。
膝をついている。
その前に。
あの男が立っている。
顔は見えない。
でも。
笑っていた。
『なあ、ルネ』
『何だよ』
『もし俺が死んだら』
『縁起でもねぇこと言うな』
『仮の話だよ』
『しねぇ』
『聞けって』
男が笑う。
『もし俺がいなくなっても』
ルネが不機嫌そうに睨む。
『お前は生きろよ』
その瞬間。
夢の中の空気が変わった。
ルネの表情が消える。
『ふざけんな』
『ふざけてない』
『勝手に決めんな』
『じゃあ約束しろ』
『嫌だ』
『ルネ』
男の声が。
どこか優しかった。
『お前は一人で壊れるから』
胸が痛む。
今日のサーシャの言葉と重なる。
大切なものを失うと。
ルネは壊れる。
『だから』
男が手を差し出す。
『俺がいなくなっても、誰かの手を取れ』
ルネはその手を見ている。
でも。
取らない。
『そんな日来ねぇよ』
『来るかもしれない』
『来ねぇ』
『相変わらず頑固だな』
『うるせぇ』
男が笑う。
その笑顔が。
一瞬だけ。
僕と重なった。
「……っ」
夢の中で息を呑む。
次の瞬間。
空が赤く染まる。
黒い影。
叫び。
崩れる世界。
男がルネを突き飛ばす。
『逃げろ!』
『ふざけんな!』
『今は逃げろ!』
そして。
最後に。
男が笑った。
『生きろ、ルネ』
世界が砕ける。
◇
「っ!」
目が覚める。
荒い息。
全身に汗。
心臓が痛い。
頭の奥に。
まだ声が残っている。
『誰かの手を取れ』
僕は自分の手を見る。
今日。
ルネへ差し出した手。
結局。
ルネは取らなかった。
でも。
拒絶もしなかった。
胸の奥がざわつく。
怖い。
夢の続きが。
ルネの過去が。
これから起こることが。
全部。
でも。
それ以上に。
思ってしまった。
もしルネが本当に壊れそうになったら。
今度こそ。
僕がその手を掴みたい。
あの男の代わりじゃなく。
僕自身として。
そう思った瞬間。
どこかで。
パキン、と。
何かが割れる音がした気がした。
夢の中なのか。
現実なのか。
それとも。
ルネの中なのか。
まだ。
僕には分からなかった。




