ルネ編第8話「変わりたい」
――変わりたい。
そう思ったのは、いつからだっただろう。
たぶん、ずっと前からだ。
教室に入れなくなった日。
誰かの視線が怖くなった日。
名前を呼ばれるだけで息が詰まるようになった日。
保健室の扉を開けて、そこでようやく息ができた日。
その頃から、ずっと思っていた。
このままじゃ嫌だ。
でも、変わるのは怖い。
怖いから、動けない。
動けないから、何も変わらない。
そうやって、同じ場所に座り込んでいた。
変わりたいと思いながら。
変わらなくていいと言われる場所に甘えて。
逃げたまま、時間だけが過ぎていった。
でも。
最近は少しだけ違う。
怖いのは変わらない。
教室に入るだけで心臓はうるさいし、誰かに名前を呼ばれるだけで息が詰まる。
周りの笑い声が、自分に向けられている気がすることもある。
何もしていないのに、ここにいていいのか分からなくなることもある。
それでも。
前よりほんの少しだけ、足が前に出るようになった。
その理由を考えると、どうしても一人の悪魔の顔が浮かぶ。
長い薄紫の髪。
小さな黒い羽。
赤紫の瞳。
いつも偉そうで、口が悪くて、全然優しくない。
でも。
僕が前に進もうとした時だけは、ちゃんと見ていてくれる。
ルネ。
僕はいつの間にか、その名前を頭の中で呼ぶことが増えていた。
◇
「真白」
朝の教室。
先生に名前を呼ばれても、今日は昨日ほど固まらなかった。
もちろん怖い。
視線が集まる感覚は苦手だ。
喉も少し詰まる。
心臓も、相変わらずうるさい。
でも、昨日ほど頭が真っ白にはならなかった。
「はい」
声が出た。
少し震えたけれど、ちゃんと返事できた。
先生が黒板を指す。
「この続きを読んでくれるか」
「……はい」
教科書を持つ手が震える。
文字が少し滲む。
一行目を見失いそうになる。
それでも、読む。
たどたどしい声。
小さい声。
途中で一度、息が引っかかった。
でも止まらなかった。
最後まで読めた。
「ありがとう」
先生が言う。
それで終わり。
ただそれだけ。
授業は何事もなかったように続いていく。
誰も僕のことなんて気にしていない。
笑う人もいない。
責める人もいない。
ただ、普通に時間が流れている。
でも、僕の胸の中では何かが大きく動いていた。
席に座る。
息を吐く。
指先がまだ冷たい。
「……できた」
小さく呟く。
「声ちっさ」
後ろからルネの声がした。
振り向くと、窓際にいつものように立っている。
「そこは褒めるところじゃないの?」
「褒めてんだよ」
「どこが?」
「最後まで逃げなかっただろ」
その言葉に、胸が詰まる。
「……うん」
「ならいい」
ルネはそれだけ言って、窓の外へ視線を向けた。
相変わらず雑だ。
でも、それで十分だった。
ちゃんと見ていた。
それだけで、また少し前に進めた気がした。
◇
昼休み。
僕は迷った末に教室に残った。
これまでならすぐ保健室か屋上へ向かっていた。
人の多い教室で昼食を取るなんて、考えられなかった。
でも今日は、机の上に購買で買ったパンを置いている。
周りではクラスメイトたちが話している。
笑い声。
椅子を引く音。
弁当箱を開ける音。
誰かが冗談を言って、別の誰かが笑う声。
普通の昼休み。
僕には遠かった景色。
その中に、今、自分がいる。
「……落ち着かない」
「だろうな」
ルネが当然のように隣の窓枠に腰掛けている。
見えているのは僕だけなので、周囲からしたら僕は一人で呟いている危ない人かもしれない。
いや、そこは考えないようにしよう。
「無理なら出ればいい」
「え?」
意外な言葉だった。
「逃げてもいいの?」
「逃げるだけで終わらねぇならな」
ルネは僕を見る。
「今日は残ろうとした」
「……うん」
「なら、もう昨日より進んでる」
胸が熱くなる。
ルネは時々こういうことを言う。
雑なのに。
乱暴なのに。
一番欲しいところだけ、ちゃんと刺してくる。
「じゃあ」
僕はパンの袋を開ける。
「もう少しだけいる」
「好きにしろ」
ルネはそっけなく言う。
でも、その表情は少しだけ穏やかだった。
パンを一口かじる。
味はあまり分からない。
緊張しているからだ。
それでも、食べられた。
教室で。
みんなと同じ場所で。
それだけで十分だった。
◇
「真白」
不意に声をかけられた。
クラスの男子だった。
名前は知っている。
でも、ほとんど話したことはない。
「えっと……最近、教室来てるんだな」
「……うん」
「大丈夫なのか?」
悪意はなかった。
たぶん純粋に心配しているだけだ。
でも、胸が跳ねる。
何を答えればいいのか分からない。
大丈夫?
大丈夫じゃない。
でも、大丈夫じゃないと言えば重い。
大丈夫と言えば嘘になる。
口が止まる。
「晶」
ルネの声。
低く。
でも落ち着いていた。
「答えたくねぇなら、そう言え」
そんな選択肢があるのか。
僕は少し驚いた。
今まで、何か聞かれたらちゃんと答えなければいけないと思っていた。
黙ったら変に思われる。
失礼だと思われる。
嫌われる。
そう思っていた。
でも。
「……まだ、うまく答えられない」
僕は言った。
「でも、少しずつ戻りたいとは思ってる」
男子は少し目を丸くした。
それから。
「そっか」
と頷いた。
「無理すんなよ」
「……ありがとう」
会話はそれだけだった。
それだけで終わった。
何かが劇的に変わったわけじゃない。
急に仲良くなったわけでもない。
でも、終わった後。
僕はしばらく動けなかった。
言えた。
自分の言葉で。
逃げずに。
「今の」
ルネが言う。
「悪くねぇ」
思わず顔を上げる。
「本当?」
「嘘言ってどうすんだ」
「ルネなら普通に言いそう」
「殺すぞ」
「すぐそれ言う」
小さく笑う。
胸の奥が軽くなる。
今日。
僕は少しだけ変われた。
その実感があった。
◇
放課後。
校舎の廊下を歩いていると、保健室の前で足が止まった。
まただ。
ここへ来ると、どうしても昔の自分に戻りそうになる。
あの部屋は優しい。
操がいた。
僕を否定しなかった。
変われなくてもいいと言ってくれた。
怖いならここにいればいいと。
無理しなくていいと。
そう言ってくれた。
だから救われた。
それは本当だ。
でも。
今はそこに入るのが少し怖い。
優しい場所だからこそ。
戻ったら、また出られなくなりそうで。
「晶くん」
扉が開いた。
操が立っていた。
愛原操。
柔らかな笑顔。
綺麗な仕草。
少女のような雰囲気。
でも、その目は少し寂しそうだった。
「操」
「今日も教室にいたんだね」
「……うん」
「そっか」
操は微笑む。
「すごいね」
その言葉は優しかった。
でも、胸が痛む。
優しくされるほど、何かを裏切っているような気持ちになる。
「操」
「なに?」
「僕、少しずつだけど」
言葉を選ぶ。
「変わりたいんだと思う」
操の表情が止まった。
ほんの一瞬。
でも確かに。
「……そっか」
「うん」
「ルネさんの影響?」
答えに詰まる。
否定したかった。
操を傷つけたくなかったから。
でも、否定できない。
「……たぶん」
正直に言う。
「ルネは、僕を止めないから」
操の目が揺れる。
「わたしは止めてた?」
「……」
言葉が出ない。
「ごめんね」
操が先に言った。
笑顔のまま。
「責めたいわけじゃないの」
「操」
「ただ、怖いだけ」
その声は小さかった。
「晶くんが変わって」
「わたしの知らない場所へ行って」
「わたしだけ置いていかれるのが」
胸が締め付けられる。
操は悪くない。
僕を守ってくれた。
救ってくれた。
あの頃の僕には、操の優しさが必要だった。
それがなかったら、きっともっと壊れていた。
でも。
その優しさに甘え続けたら、僕は前に進めない。
それも分かってしまった。
「ごめん」
結局、それしか言えなかった。
操は首を振る。
「謝らないで」
そして、少しだけ笑う。
「今はまだ、うまく笑えないけど」
「うん」
「でも、晶くんが変わろうとしてるのは、分かるから」
そう言って、操は保健室の扉を閉めた。
パタン。
静かな音。
その音が妙に胸に残った。
◇
屋上。
夕焼け。
フェンスにもたれていると、ルネが隣に来た。
「暗ぇ顔」
「……操と話した」
「だろうな」
「見てた?」
「見てねぇ」
「嘘」
「半分くらいはな」
「半分って何」
ルネは答えず、空を見る。
「で?」
「でって」
「戻りたいと思ったか」
言葉が詰まる。
思わなかったと言えば嘘になる。
保健室は今でも安心できる場所だ。
操のそばは、きっと楽だ。
でも。
「……戻りたい気持ちはある」
「そうか」
「でも」
ルネを見る。
「戻ったら、今の僕じゃなくなる気がする」
ルネは黙って聞いていた。
「だから、戻らない」
声は震えた。
でも、言えた。
自分の意思で。
「変わりたいから」
風が吹く。
ルネの長い髪が揺れる。
夕陽に染まって、薄紫が淡い赤に見える。
「……そうか」
ルネが言う。
「なら進め」
短い言葉。
でも、今の僕には十分だった。
「うん」
「怖くてもか?」
「怖いよ」
「なら震えながら進め」
「無茶言うなぁ」
「無茶でもねぇだろ」
ルネが少しだけ笑う。
「オマエはもう、止まったままじゃいられねぇんだから」
その言葉に、心臓が鳴る。
止まったままではいられない。
そうだ。
僕はもう知ってしまった。
前へ進む感覚を。
怖くても一歩踏み出せることを。
誰かがちゃんと見ていてくれることを。
「……ルネ」
「あ?」
「僕、明日も教室に行く」
「そうか」
「昼休みも、できれば残る」
「そうか」
「でも、無理だったら逃げる」
「逃げたまま終わんなきゃいい」
ルネらしい返事だった。
僕は少し笑う。
「ありがとう」
「礼言うな」
「なんで」
「むず痒い」
「照れてる?」
「殺すぞ」
いつものやり取り。
でも、その声はいつもより少し柔らかかった。
◇
その夜。
僕はまた夢を見た。
赤い空ではなかった。
黒い炎でもなかった。
もっと昔。
まだ壊れる前の景色。
広い荒野。
見知らぬ空。
そこに、ルネがいた。
今より少し若い。
隣には男がいる。
顔はまだ見えない。
でも、声は聞こえた。
『お前さ、ほんと不器用だよな』
『うるせぇ』
『褒めてんだよ』
『どこがだ』
男が笑う。
明るい声だった。
どこか僕とは違う。
でも、なぜか少し似ている気がした。
『ルネ』
『あ?』
『お前が前にいるなら、俺は後ろを守る』
『勝手にしろ』
『勝手にする』
二人が並んで歩く。
対等に。
背中を預け合うように。
ルネが笑っている。
今のルネが絶対に見せないような、自然な笑顔で。
胸が少し痛んだ。
この人は。
ルネにとって、本当に大切だったんだ。
そう思った瞬間。
景色が赤く染まる。
空が裂ける。
黒い影。
悲鳴。
そして。
『逃げろ、ルネ』
男の声。
さっきまでとは違う。
真剣で。
切実で。
どこか優しい。
『俺のことはいいから』
ルネが叫ぶ。
何を叫んだのかは聞こえなかった。
世界が砕ける。
◇
「っ……!」
目が覚めた。
心臓がうるさい。
まただ。
また、ルネの過去を見た。
あの男。
顔は見えない。
でも少しずつ分かってきた。
ただの友達じゃない。
ただの知り合いじゃない。
ルネと並んで戦っていた人。
ルネが心を許していた人。
そして。
たぶん、ルネが失った人。
「……変わりたい」
小さく呟く。
自分に言い聞かせるように。
ルネが何を抱えているのか、まだ分からない。
でも。
僕が前に進めば。
いつか、ルネの隣に立てるかもしれない。
守られるだけじゃなく。
ただ助けられるだけじゃなく。
今度は僕が。
あの悪魔が壊れそうになった時、手を伸ばせるかもしれない。
だから。
変わりたい。
僕は初めて。
その言葉を、逃げ道ではなく。
願いとして。
はっきり胸の中に置いた。




