ルネ編第7話 「逃げるな」
ルネ編第7話
第14話「逃げるな」
――その日、最初に嫌な予感がしたのは一時間目だった。
「真白」
先生の声。
その瞬間、心臓が跳ねた。
教室中の視線が、いっせいにこちらへ向く。
息が詰まる。
頭が真っ白になる。
何の話だったか分からない。
教科書のどこを読んでいたかも分からない。
自分の名前を呼ばれただけ。
ただそれだけなのに、体が一瞬で固まった。
「真白?」
先生がもう一度呼ぶ。
静まり返る教室。
嫌だ。
逃げたい。
座ったまま消えてしまいたい。
みんなが見ている。
間違えたらどうしよう。
変な声が出たらどうしよう。
笑われたらどうしよう。
そんなことばかりが頭の中をぐるぐる回る。
「……」
喉が動かない。
声が出ない。
その時だった。
「答えろ」
後ろから聞こえた声。
ルネだった。
窓際で腕を組んでいる。
緩やかな薄紫色の髪。
いつもの不機嫌そうな顔。
当然、他の人には見えていない。
「無理……」
小さく呟く。
「無理じゃねぇ」
「いや無理だから」
「知るか」
冷たい。
本当に冷たい。
でも。
「昨日できただろ」
その一言で、少しだけ呼吸が戻った。
昨日。
教室の前で、おはようと言えた。
購買でも、ちゃんと並んでいると言えた。
できた。
ちゃんと。
すごく怖かったけど。
震えたけど。
それでもできた。
「真白?」
先生が待っている。
クラスメイトも見ている。
怖い。
でも。
僕はゆっくり教科書へ視線を落とした。
文字が泳ぐ。
それでも、なんとか問題を探す。
答えなんて確信はない。
でも、黙ったまま固まるよりは。
「……三番です」
震える声で答える。
一瞬の沈黙。
「正解だ」
先生が頷いた。
それだけだった。
終わり。
誰も笑わない。
誰も馬鹿にしない。
誰も興味を持たない。
ただ、授業がそのまま進んでいく。
なのに、全身から力が抜けた。
背中は汗びっしょりだった。
机の下で握り締めていた手のひらが痛い。
それでも。
答えられた。
◇
休み時間。
机に突っ伏す。
疲れた。
本当に疲れた。
たった一問答えただけで、体力を全部持っていかれた気分だった。
「情けねぇな」
ルネが言う。
「疲れるんだから仕方ないでしょ」
「一問答えただけだろ」
「僕には大事件なんだよ」
「面倒くせぇ」
ひどい言い草だった。
でも、少しだけ笑ってしまう。
たぶん、ルネは分かっている。
僕にとっては本当に大事件だったことを。
分かった上で、わざと雑に言っている。
「でも」
ルネが言う。
「逃げなかったな」
その言葉に顔を上げる。
ルネは窓の外を見ていた。
「……うん」
「まぁ、それでいい」
それだけ。
それだけなのに、胸の奥が少し温かくなった。
ルネは褒めるのが下手だ。
たぶん世界で一番下手だ。
でも。
ちゃんと見ていてくれる。
僕が震えていたことも。
逃げたかったことも。
それでも答えたことも。
全部。
「……ありがとう」
「礼言うな」
「なんで」
「気色悪ぃ」
「ひどい」
「事実だ」
いつもの言い方。
でも、少しだけ耳が赤い。
気付いている。
でも言わない。
言ったら絶対に怒るから。
◇
昼休み。
気付けば保健室の前に立っていた。
白い扉。
見慣れた景色。
何度も逃げ込んだ場所。
何度も救われた場所。
昔なら迷わなかった。
授業で疲れて、視線に怯えて、息苦しくなったら、ここに入っていた。
ここなら大丈夫だった。
操がいた。
優しい声があった。
無理しなくていいと言ってくれる場所だった。
でも。
今は足が止まる。
「晶くん」
聞き慣れた声。
振り返る。
愛原操だった。
胸が少し痛む。
「操」
操は微笑んだ。
優しく。
柔らかく。
いつもみたいに。
でも、どこか無理をしているようにも見えた。
「久しぶりだね」
「うん……」
「最近来ないから」
その言葉に罪悪感が刺さる。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
操は首を振った。
「晶くんが決めたことだもん」
優しい。
優しすぎる。
だから苦しい。
責めてくれた方が楽だったかもしれない。
なんで来ないの、と怒ってくれた方が、まだ言い訳ができたかもしれない。
でも操は責めない。
いつもそうだ。
僕が傷つかないように、言葉を選ぶ。
「少し話さない?」
操が保健室を指差す。
「昔みたいに」
心臓が揺れる。
昔みたいに。
その言葉がひどく甘く聞こえた。
ここに入れば楽だ。
誰も責めない。
誰も急かさない。
無理しなくていい。
変わらなくていい。
逃げてもいい。
操はそう言ってくれる。
ずっとそうだった。
「……」
扉を見る。
手を伸ばせば届く。
この扉の向こうに入れば、僕はきっと安心する。
温かい場所に戻れる。
怖い教室から離れられる。
頑張らなくていい自分に戻れる。
でも。
なぜだろう。
足が動かなかった。
保健室に入る未来を想像した瞬間、胸が苦しくなる。
戻ってしまう気がした。
前の自分に。
逃げることしかできなかった自分に。
誰かの優しさに隠れて、そこで止まっていた自分に。
「晶くん?」
操が不安そうに呼ぶ。
その顔を見ると揺らぐ。
本当に揺らぐ。
操を傷つけたくない。
寂しそうな顔をさせたくない。
でも。
「ごめん」
気付けば言っていた。
「今日はやめておく」
操が固まる。
ほんの少しだけ。
「……そっか」
笑う。
でも、その笑顔は少し寂しかった。
「また今度ね」
その言葉に甘えそうになる。
頷きそうになる。
また今度。
そう言えば、この場は丸く収まる。
でも。
頷けなかった。
「ごめん」
もう一度言う。
それしかできなかった。
操は少しだけ目を伏せる。
それから、いつものように微笑んだ。
「うん」
「無理はしないでね」
その優しさが、胸に刺さる。
僕は何も返せずに、その場を離れた。
◇
屋上へ向かう階段。
途中でルネが待っていた。
壁にもたれている。
「遅ぇ」
「なんでいるの」
「暇だった」
絶対嘘だ。
でも追及しない。
「操と話してたな」
「見てたの?」
「たまたまだ」
絶対違う。
でもそれも言わない。
「戻ればよかっただろ」
ルネが言う。
「え?」
「保健室」
胸が跳ねる。
「楽だぞ」
ルネは淡々と続ける。
「守ってくれる」
「責められない」
「逃げても許される」
全部本当だ。
だから言い返せない。
操のところは安全だ。
僕が壊れないように、優しく包んでくれる。
それは救いだった。
確かに。
でも。
「だったら」
ルネがこちらを見る。
赤紫の瞳。
真っ直ぐな視線。
「なんで行かなかった」
答えは分かっていた。
ずっと考えていたから。
「……戻ったら」
小さく言う。
「変われない気がした」
ルネが黙る。
「逃げる方を選ぶ気がした」
風が吹く。
階段の窓から光が差し込む。
「怖かった」
「……」
「でも」
息を吸う。
「逃げ続ける方が、もっと怖かった」
長い沈黙。
やがて。
「そうか」
ルネが呟いた。
それだけ。
でも、少しだけ嬉しそうだった。
「……何その顔」
「あ?」
「ちょっと嬉しそう」
「してねぇ」
「してる」
「殺すぞ」
「すぐ殺すって言う」
そう言いながら、僕は少し笑った。
さっきまで胸の奥にあった罪悪感が消えたわけじゃない。
操を傷つけた痛みは残っている。
でも。
自分で選んだ。
今日は、そう思えた。
◇
屋上。
フェンスにもたれて空を見る。
青い。
どこまでも。
風が吹いて、少しだけ汗ばんだ首筋を冷やしていく。
教室のざわめきも、保健室の静けさも、ここにはない。
ただ空だけが広がっている。
「なあ」
ルネが言う。
「何?」
「オマエ、勘違いしてる」
「え?」
「逃げること自体は悪くねぇ」
予想外だった。
「そうなの?」
「ああ」
ルネは頷く。
「死にそうなら逃げろ」
「無理なら休め」
「戦えねぇなら下がれ」
その言葉は意外だった。
いつものルネなら、もっと無茶を言いそうなのに。
逃げんな。
立て。
前に行け。
そう言うと思っていた。
「じゃあなんで」
「ん?」
「逃げるなって言うの」
ルネは少しだけ笑った。
寂しそうな笑みだった。
「逃げたまま終わろうとするからだ」
その瞬間。
空気が変わった。
ルネの表情。
声。
全部。
どこか遠くを見ている。
「オレも昔、逃げた」
ぽつりと言う。
「え?」
「逃げればよかった時に逃げなかった」
「……」
「逃げちゃダメな時に逃げた」
意味は分からない。
でも、それが後悔だということだけは分かった。
「だから」
ルネは空を見上げる。
「オマエには同じことしてほしくねぇ」
風が吹く。
長い髪が揺れる。
夕陽が横顔を染める。
その顔は、ひどく寂しかった。
ルネの中には、まだ僕の知らない傷がある。
赤い空。
黒い影。
夢の中の男。
逃げろ、と言った声。
全部が繋がっている気がした。
「ルネ」
「あ?」
「その人のこと?」
ルネが固まる。
赤紫の瞳がこちらを見る。
痛そうな顔。
「……オマエ」
「うん」
「本当に余計なとこ鋭いな」
否定しなかった。
それだけで十分だった。
やっぱりいる。
昔、ルネの隣にいた誰かが。
今もルネを縛り続けている誰かが。
「その人も」
僕は慎重に言う。
「逃げろって言ったの?」
ルネの表情が変わった。
一瞬で。
やってしまった、と思った。
「……見たのか」
低い声。
「夢で」
「どこまで」
「顔は見えなかった」
「声だけ」
「逃げろって」
ルネはしばらく黙っていた。
それから、深く息を吐く。
「最悪だな」
「ごめん」
「謝んな」
「でも」
「オマエが悪いわけじゃねぇ」
その言い方が、いつもより少しだけ優しかった。
「じゃあ」
僕は聞く。
「誰が悪いの」
ルネは答えなかった。
答えないまま、空を見上げる。
その沈黙が答えだった。
ルネは、自分が悪いと思っている。
ずっと。
今も。
◇
帰り道。
夕暮れ。
校門を出る。
今日はいつもより疲れていた。
授業で答えたこと。
保健室に戻らなかったこと。
ルネの話を少しだけ聞いたこと。
全部が胸の中で重なっている。
「晶」
珍しくルネが名前を呼んだ。
「何?」
「今日」
「うん」
「よくやった」
一瞬。
理解できなかった。
「え?」
「授業」
「保健室」
「全部だ」
顔が熱くなる。
褒められた。
今。
確実に。
「……ありがとう」
「一回だけだぞ」
「なんで」
「調子乗るから」
「ひどい」
「事実だ」
ルネは笑う。
ほんの少しだけ。
昔の傷を忘れたみたいに。
穏やかに。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が変な音を立てた。
嬉しい。
安心する。
それだけじゃない。
もっと別の何か。
まだ名前の付けられない感情。
それが少しずつ形になり始めていた。
「……ルネ」
「あ?」
「明日も、教室行く」
「勝手にしろ」
「できたら褒めて」
「調子乗んな」
「じゃあ、まあまあって言って」
「考えとく」
「それ言わないやつだ」
「うるせぇ」
くだらない会話。
でも、その一つ一つが、今は大事だった。
そしてルネもまた。
気付いていなかった。
自分が真白晶を目で追うようになっていることに。
その姿が見えないと、落ち着かなくなっていることに。
逃げろと言いながら、本当は隣にいることを少しだけ望んでいることに。
失いたくないと。
無意識のどこかで思い始めていることに。
まだ。
気づいていなかった。




