『若紫』の帖は進む*其の三
『原作』では、あれほど寝ても覚めても『藤壺女御』のことばかりを考え、御簾の向こうに彼女がいると思うだけでウジウジメソメソ物思いに耽っていた『光君』がベースとは思えない、実にこざっぱりした光の言葉の数々。彼が藤壺女御に対して抱いているのは、父帝の愛妃に対する尊敬と、実の両親の恋愛に巻き込まれた女人への憐れみ、加えて息子としての申し訳なさといったところか。
(本当に……藤壺女御に恋愛感情は、ちらとも抱いたことなさそう)
結婚生活を送る中で気付いたことだが、『原作』の彼と違い、そもそも光は亡くなった母親に対して、思慕以上の感情を抱いていない。桐壺の女房たちは、事あるごとに若くして死んだ主を懐かしみ、忘れ形見の光を見ては涙ぐんで、いかに彼女が素晴らしい、帝の寵愛を得るに相応しい理想の女人だったかを語っていたし、光を連れ歩いていた今上帝も同様だったはずだ。それらを浴び続けた光は、自然と〝母〟イコール理想の女人、イコール〝母に瓜二つの藤壺女御こそが理想の女人〟、という思考で凝り固まった(ある意味洗脳である)と、葵は勝手に思い込んでいたが。
(光は、桐壺様を必要以上に美化していないし、母君に瓜二つという藤壺様に対しても、〝母と顔が似てるらしいせいで苦労してる人〟くらいのテンションなのよね……)
スタート地点から『原作』踏襲していないなら、光の藤壺女御に対する感情がこうなるのも、不自然ではないのだろう。光に迫られていないなら、この世界の藤壺女御は不義密通に苦しむこともないわけだから、それなりに心穏やかな日々を過ごせてはいるはずだ。たぶん、誰も困ってはいない。
(……不義密通がないと、後の冷泉帝が誕生しなくなるから、この世界の未来がどう動くのか、ますます読みづらくはなるけれど)
一瞬過ぎった不吉な予感は、光の「葵、どうかした?」という問いに霧散する。
「なんでもないわ。――そういえば光、今日のお夕飯なんだけど……」
日常会話を繰り広げつつ、葵は〝世界〟の行く先に、思いを馳せた――。
それから、三日後。
「――葵。急な話で申し訳ないけれど、今日、これから一緒に出掛けてくれないか」
いつも通りの時間に帰宅した光が、帰宅するなり難しい顔で切り出した。
尋常でない様子に、紫からの文を和みながら整理していた葵も、頭を切り替える。
「何かあったの?」
「あぁ。――主上より、里下り中の藤壺女御へのお見舞いを、仰せつかった」
思わぬ話に目を見開いてしまったが、普通に聞いてもまぁまぁ〝ない〟話なので、違和感は薄いだろう。
そのまま、不自然にならないよう、問い返す。
「女御様のお見舞いに、臣下に降ったとはいえ、ご自身の皇子を遣わすの? あまり一般的な話じゃないと思うけど」
「葵の言う通りだよ。父上は何というか、藤壺の方と私を、実の親子のように扱いたがる節があってね」
「成人して独立した息子に、お母様が具合を悪くしてるからお見舞いに行きなさいって持ち掛けたおつもりってこと?」
「だと、思う」
「うっわぁ……」
帝に対し不敬だが、私生活ポンコツなところを、どうにか改めて頂きたい。実の息子を始めとして、周囲がまぁまぁ困惑している気配がひしひしとする。
「藤壺の方にしてみれば、せっかく宮中から離れてゆっくり心身を休めているときに、血の繋がりなど欠片もない主上の子が、突然やって来るわけだからね。あちらにとっても、さほど歓迎できる状況ではないだろう」
「間違いないわね……それで、どうしてわたしを?」
「こういうお見舞いは通常、女人同士でするものだろう? 私が藤壺の方を見舞ったところで、所詮御簾越しの対面だ。直接お見舞いの品をお渡しできるわけでも、実際に顔を合わせてお話しできるわけでもない。何より、女人同伴で参上した方が藤壺の方も安心だろうし、世間も変な目を向けることはないと思うから」
「……変な目?」
「……広く言われているわけではないけどね。右大臣方がコソコソと、私が主上のお使いでご機嫌伺いしたことのある女人との、あらぬ噂を立てるんだよ。麗景殿の方とか、六条御息所様とかね。六条の方なんて、過去に一度、訪れただけなのに」
「そう、なんだ」
限りなく愚痴に近い光の打ち明け話を、複雑な心地になりつつ聞く。彼が挙げた二人はどちらも、『原作』では『光君』の恋人だ(麗景殿女御に関しては、彼女本人でなく、殿舎で共に暮らしている彼女の妹、花散里がお相手だが)。もちろん〝この世界〟では、光と彼女たちの間に特別深い親交はなく、六条御息所であるところの椿など、本人が言う通りたった一度、主上の名代として挨拶しただけの間柄でしかないのだけれど。
「右大臣方はどうにかして私の評判を落としたいらしくてね。別に私は兄上の即位の邪魔をするつもりも、彼らの権勢を削ぐつもりもないのだが、彼らはとにかく私の存在自体が目障りなのか、どうにか粗を見つけて糾弾しようとしてくるんだ」
「でもあなた、少なくとも仕事の面で、政敵に突かれるような粗を作ってはいないでしょう?」
「ありがたいことに、左近衛は上から下まで優秀だから、すごく助けられてるよ。――そんなわけで、糾弾したいのに糾弾する隙がないものだから、彼らは私と関わりある女人との、ないことしかない噂をばら撒こうとするわけだ」
「……お相手の方にも大変ご迷惑、という大前提は置いておいて、そもそもどうして、そっち方面の噂にしようとしたのかしらね? 自分で言うのもなんだけど、あなた宮中じゃ、北の方に一途な愛妻家で通ってるんでしょ?」
「通ってるから余計に、じゃないかな? 外向けには愛妻家の皮を被った男が実は……なんて、最高の醜聞じゃないか」
「実は……の内容が本当なら、そうだけど。女人との噂は光だけの話じゃないし、仮に広まりかけても、お相手が否定すればすぐに沈静化するわ。あと、普段のあなたを知っている人なら、そもそも女人と浮き名を流す暇もないって分かるから、噂を聞いたところで信じなさそう」
普段の光は、朝に左大臣邸で起床し身支度を整え、出仕して仕事し、仕事が終わればまっすぐ左大臣邸へ帰宅する、ごくありきたりな勤め人のルーティンをこなしている。邸で待っている葵が浮気の心配をしようもないほど、出仕時間ギリギリまで家にいて、出仕時間が終わったなと思ったら帰って来るのだ。仕事をサボりでもしない限り、この生活サイクルで外に女を作るのは無理だろう。
他所様からお呼ばれされているときですら、一度は帰って宴用の装束に着替えてから出かけるくらい、光は東の対に帰ることに拘っている。彼の帰りが遅くなる日など、それこそ宿直か、宮中で催し物があるときくらいだ。宮中の行事事情は兄を通じて葵へも筒抜けなため嘘も通じないとなれば、やはり光に浮気する暇はない。これでもし本当に光が外で恋人と逢っていた、なんて物的証拠を出されたら、嘆き悲しむより先に、「どうやって? 逆◯時計でも使った?」と驚きが先に来る自信がある。
葵が一欠片も光を疑っていないことが伝わったからか、ややこしい状況ではあるが、彼は満面の笑みを浮かべた。
「葵がそう言ってくれて嬉しいよ。実際、右大臣方が私の浮き名を流しても、宮中のほとんどの人は『また右府殿と近しい方々が、無理な話を作ろうとなさっている』って反応だからね。噂としても広まりようがなくて、本当に右大臣方が勝手に言っているだけ、みたいな感じだから、そう深刻に捉えてはいないんだ」
「もの凄い空回り感がひしひしとするわね……」
「うん。――とはいえ、藤壺の方は主上の寵愛深い女御殿で、先の帝の皇女でいらっしゃる。私が見舞うことでそのような話にお名前が上がることすら、畏れ多い方ではあるからね。葵には手間をかけるけれど、妻同伴で見舞ったとなれば、さすがに右府たちも浮き名の相手にはできないだろう?」
「そういうことね。――分かったわ、同行しましょう」
話を持ち掛けられた当初は構えてしまったが、聞いてみれば何のことはない、宮中対策の隠れ蓑としての同伴ということらしい。




